表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/8

第四章

 その日、晶子は教室の中から窓の外を眺めていた。

 教室は晶子以外は無人。

 授業が終わり、放課後になってから1時間ほどが経過していた。その間、生徒が少しずつ減っていく中で晶子は窓際に立ちながらずっと外の景色を眺めていた。

 魔法異世界【ラ・グース】に訪れた日から約2ヶ月。冬の到来が間近になってきたのを晶子は肌で感じていた。

 着慣れた冬服に身を包みながら、ノヴァクルセイド学園の生徒たちは今日も思い思いの時間を過ごす。そんな憩いの時間を晶子は物思いに耽っていると、開かれた教室の扉の向こう側にある廊下から騒がしい足音が晶子へ近寄ってきた。あの人だよなーと晶子は考え、

 「おーい、晶ちんっ元気してるー!?」

 予想は的中。

 冬服でもギャルなのは変わらない審神者女子の兵庫が晶子以外は無人の教室へ堂々と入ってきて、元気溌剌で話しかけてきた。

 「今日はどんな物憂げフェイズなんだーい? よかったら聞くぜ。この親友ちゃんがさ」

 「特に、何か考えていた訳じゃなくて、漠然とこの頃のことを」

 「それって前の調理自習クレープ爆発事件のこととか?」

 「あはは、それじゃないけど」

 「じゃあ何かなあ。うーん、うーむ」

 大袈裟に悩む仕草をする兵庫に、晶子は自然と口元を綻ばせる。

 「あーそう言えばこの間の商店街の集団催眠の時も必要もないのにでしゃばる奴がねー」

 「えっと、そんな風に言ってると本人が来ちゃ──」

 「よう晶子。寂しくなかったかよ」

 唐突に噂の当人が、換気用に開け放たれていた窓ガラスから姿を現した。

 無論、外気の冷たい外側から室内の教室へ。

 現れたのは冬服姿の伊織。

 伊織が晶子と兵庫の談話の場に乱入してくる。

 「普通に登場出来ないの君ぃ」

 「うるさいポン刀女。俺はただスマートに現れているだけだ」

 「……こんにちわ、神崎くん」

 加わった伊織を含めた三人が会話を交わす。

 三人で過ごすのが当たり前になったのは、あの【ラ・グース】への訪問した時からである。

 「俺は孤高なる存在。ロンリーウルフなのだ」

 「それただのボッチじゃね? や~いボッチッチ」

 「ふ……頂点の高みに座す者は他の者とは違う輝きを帯びる……決してボッチじゃないぞ」

 ふと晶子が視線を自らの手元に落とすと、兵庫がつぶさにその所作に気付く。

 「それって例の人からのー?」

 「うん、そう、昨日届いた」

 手に持った手紙を晶子は兵庫と伊織に見せる。

 それは異世界の言語で書かれた手紙。

 差出人の名前は、サラ・トーワ。

 それは晶子がかつて【ラ・グース】で交流したあの鳥人族のサラであった。

 竜の婚礼者の襲撃事件の後に、お互いの無事を確認しあった晶子とサラは文通を交わす仲になっていた。

 そう言えばと、読み途中であるサラからの手紙で気になることが晶子にはあった。

 読み残りの手紙。

 その最後の1(ページ)の、最初の出だしでサラは丁重な筆跡でこう書いていた。

 

 『どうしてもお伝えしたいことがあります』


 その続きは、何分手紙を読んでいたのが就寝間近であったためにまだ読まず仕舞い。

 あとで読まないとな、と晶子が帰宅後の予定を一つ決めていると、

 「晶ちんを好きになったのはアタシが最初だかんね」

 「いいや俺だね」

 なんだか兵庫と伊織の会話がおかしくなり始めたので、晶子は自らの鞄に手紙を大切に入れてから、どうにかしないとと考え始める。

 兵庫と伊織。

 そして己を含めた三人で過ごす時間は、晶子にとってそこまで悪いモノではなかった。

 ただし、


 「やあ、小川さん」


 晶子は跳び跳ねそうな心臓を表に出る寸前に平素の表情で抑えた。

 向けられない視線の先を兵庫と伊織が見つめている。

 「あ、ジクっち。やっほーお元気?」

 「今日こそはその命を貰うぜジークフリート!!」

 晶子はどうにか不自然にならない程度で二人が呼び掛けた方向へ首を傾ける。

 そこには、彼が居た。

 ジークフリートが教室で立っていた。

 (……ううう)

 晶子は、数秒ほど前の、先ほどまでの三人での時間が懐かしく思えた。

 そこにジークフリートが加わると晶子の心の臓腑(ぞうふ)は一気に縮み込み上がってしまう。

 「三人共、何を話していたんだい?」

 そんな晶子の心の裏に気付きもしない素振りでジークフリートは三人の輪に詰め寄る。


 慣れない。

 どうしても慣れない。

 この人と夫婦だなんて。


 それが晶子が今考えていること。

 あの日、晶子とジークフリートが仮面夫婦になったあの時から時間は流れた。

 その間に、晶子とジークフリートの仲に進展はなかった。

 ただひたすら困惑する晶子に、何を考えているかわからないと微笑みをたたえたジークフリートの間には決定的な意志疎通の断絶があった。

 (正直困るよぉ)

 関係の特殊性からか、表面的な部分でしか触れ合えない晶子とジークフリート。

 この状況に晶子の胃はキリキリと痛むのであった。

 しかしだからと言って嫌いと拒絶するのも何か違うと晶子は思う。

 (せめて相手の……いや、自分の気持ちが別れば苦労しないのに)

 嫌なのに嫌じゃない。

 それがわかっている唯一の点。

 (私は何をしたいのだろう……?)

 心の中で晶子は己に問い掛けるが、その答えが返ってくることはなかった。

 そして窓辺の日差しが緋色に輝き始めた頃。

 「そろそろ帰るぞ」

 相変わらずジークフリートに手を出してボロボロになった伊織が、電撃で焦げた煤まみれの口元を拭いながらそう言い出した。

 「次こそはお前を倒す」

 帰宅の道で、最初に別れたのは金髪をパリパリと逆立たせた伊織。

 伊織はこれで何度目になるかわからない捨て台詞を口にして颯爽と晶子たちとは別の道を進んだ。

 この間、晶子たちが話したのは取り留めのない内容の会話ばかりで、ジークフリートが側にいて上の空の晶子はほとんど覚えていない。

 そしてそれから数分程進んで今度は、

 「じゃあね二人共」

 兵庫の番である。

 こうして兵庫と別れた晶子はジークフリートと二人っきりになる。

 自宅へ通じる暗い道に、二人分の足音が静かに響く。

 「…………」

 「…………」

 そこで会話が途絶える。

 それも無理もないこと。先ほどまではムードメーカーの兵庫とトラブルメーカーの伊織の二人が存在したことによって押し出されるように散発的な会話が為されていたが、晶子とジークフリートは二人とも自分から話し出すタイプの人間ではない。更に加えて片方の晶子が心にモヤモヤを抱えている現状ではどうにもこうにも話し出す切っ掛けが存在しないのだ。

 何か会話しなくちゃと晶子は思う。

 ではそれは何? と自問して、やはり晶子とジークフリートの今の関係についてになる。

 嫌なのか、そうじゃないのか。

 どうしたいのか、こうしたいのか。

 晶子の答えは、出ない。

 「小川さん」

 だから結果的に先に言葉を発したのは、少なくとも晶子の目から見てそう言ったしがらみを持っていない異世界の竜騎士王からであった。

 ジークフリートは言葉少なげに、

 「最近はどうだい」

 晶子の近況を聞いてくる。

 それに対しての言葉は、

 「はい、そこそこ、です、かな」

 晶子の口から出たなんとも歯切れの悪い代物。

 答えになってすらいないその言葉に、

 「そうか、それはよかった」

 ジークフリートは怪訝な顔一つせずに、微笑すら浮かべて晶子の言葉に満足していた。

 そして別れの時は訪れた。

 「じゃあ、また明日」

 そう別れの言葉を口にするとジークフリートの姿は夕焼けに彩られた道に消えていった。

 それからのことを晶子はよく覚えていない。

 気付いた時には自身が住む学生寮に辿り着いていた晶子は、部屋に着くとすぐに鞄と自らの身体をベットへ放り投げた。

 「疲れたぁ……」

 晶子の心の身体はようやく緊張から解放された。

 くたくたになった精神が微睡むように、倒れ混んだベッドに晶子の背中が沈み混む。

 「ジークフリート先輩は、本当に困った人だなぁ」

 白色の電灯を眩しそうに見つめながら虚空へ息と言葉を吐き出す。

 ふと視界を傾けると、ベッドの上に開け放たれた鞄の口から中身が飛び出て、そこにサラからの手紙もあった。なんとなくその手紙に晶子の指が伸びる。


 『私たちの国では、いえ世界において、当たり前の話になっているのでここでお伝えさせていただきます』


 読み途中であった手紙の内容に、晶子は寝転がりながら目を通していく。

 疲れからか流し読みに近い。

 早く読み終えてお風呂にでも入ろうかなと晶子が考えながら次の文章へ目を移すと、

 

 『国王様はまもなく亡くなられます』


 晶子の意識が停止した。

 己の心臓が止まったかと晶子は錯覚した。


 『正確にお伝えすると』


 次の文章へ目にするのが怖い。

 それでも見ずに入られない。


 『ジークフリート陛下は竜になります』

 そして晶子は英雄の真実を知ることとなる。



 最近、彼女の様子が変だとジークフリートは考える。

 晶子と偽装夫婦になってから何度も顔を合わせてきたが、数日前から最愛の彼女と鉢合わせなくなったのだ。

 (これは、避けられているか)

 ジークフリートほどの達人となれば気配で人の位置が大体把握可能だ。

 そんな竜の騎士王が狙っても鉢合わせないとなると、これは向こうが意識的にジークフリートのことを避けていると考えるのが妥当だろう。

 (うーん、何か問題になるようなことをしたかな)

 晶子からすればジークフリートの存在そのものが大問題なのだが、晶子LOVEのジークフリートには自分自身が問題だと言う観点が抜けていた。

 (うーん、小川さんに会いたい会いたい好かれたい好かれたい)

 授業の合間に学園の廊下を歩きながら、外面は学園一の美男子として鉄面皮ありつつ内面はまるで飢えた獣のごとく晶子の気配を探る。

 ジークフリートの願いはただ一つ。

 それは、愛する人と添い遂げたいという願望。

 偽りとはいえ夫婦関係なのだし、それにいずれは本当の恋仲になれたら嬉しいのだ。

 (正式に恋人になったら小川さんとあんなことやこんなことを)

 恋を知ってからのジークフリートの思考は、結構の頻度で俗っぽくなることが多かった。

 (あああ小川さん小川さん小川さん)

 そしてジークフリートの限界が極まろうとした時に、

 「探しても晶ちんは今留守だぜ」

 背後から呼び止められてジークフリートは立ち止まる。

 無人の廊下で、二人の異世界の人間が言葉を交わす。

 「やあ柳生さん。小川さんはどこかな?」

 「おいおいおい、紳士そうな面をしておきながら魂胆は欲望ダダ漏れじゃないかーい。いやーんケダモノ」

 「答えないならそれでもいいよ。僕はただ彼女のことを」

 「放課後に、校舎裏で晶ちんがジクっちのことを呼んでるぜ」

 ピタリとジークフリートの声が途絶える。

 そして兵庫の琥珀色の瞳が、ジークフリートのことをジッと見つめてくる。

 「別にジクっちのこと信じてない訳じゃないけどさ」

 伝えるべきことを口にした審神者ギャルは、別れ際に、

 「晶ちんに変なことしたら、アタシ許さないから」

 小さな敵意を友人の恋人へ告げた。


 そして数時間が経過した。

 授業は終わり、刻限は放課後になる。

 放課後になると、ジークフリートは兵庫の伝言通りに目的地へ向かった。

 (ふむふむ、校舎裏か。これは)

 数少ない情報から、ジークフリートの灰色とピンク色の脳細胞が弾き出した答え。

 (もしかして、正式なお付き合いの返事とかかな?)

 先ほどからジークフリートの脳内ではそんなことばかりが頭に浮かんでは消えていく。

 晶子のことが大好き。

 それが浮かび消える思考の中で、唯一の共通点である。

 これこそが鋼鉄の騎士王の心と魂に宿った数少ない人間らしさであった。

 (さてと、着いた)

 校舎裏には生徒は滅多に立ち入らない。それは放課後になればより一層その傾向が強まる。

 今、校舎裏に居るのはジークフリートのみ。

 晶子はまだ姿を見せない。

 待ち合わせの場所にあるのは一本の巨木。

 その巨木の前でジークフリートは静かに晶子を待ち焦がれる。

 過ぎていく時間が、途方もなく永くジークフリートは感じた。

 一秒が一分に。

 一分が一時間に。

 実際の時間はおそらく遥かに短いのに、その数百倍以上の実感が竜の騎士王の心にのし掛かる。

 まだ来ない。

 まだまだ来ない。

 来ない来ない来ない──そして。

 (小川さんだ!)

 その気配をジークフリートは(あやま)たない。

 「小川さ」

 「ジークフリート先輩」

 その声はまさしく麗しの君。

 その姿は天上の美姫。

 ジークフリートの眼から本当にそう見えている絶世の美少女。

 そんな晶子の言葉をジークフリートは待ち望む。


 「先輩がもうすぐ死ぬって本当なの?」

 その言葉はジークフリートの予想外であった。


 そしてただならぬ晶子の様子に合点がいき、自然とジークフリートは制服の襟元を正した。

 これからの会話は、これまでの脳が弛緩(しかん)した少年の夢想では成り立たない。

 改めて真剣な眼差しの晶子の顔をジークフリートは見つめ直す。

 (学園の関係者には言わないように厳命していたんだけどな)

 まさか晶子にその事実を知られるとはとジークフリートは痛恨の思いで眉をしかめる。

 (そう言えば小川さんは【ラ・グース】の住民と文通をしていたっけ。そこかな、漏れたのは)

 聞かずとも真実の出所を自然と察する(さと)い知性の持ち主であるジークフリート。そんな少年王が、

 「答えて、先輩」

 選んだ答えは、

 「そうだよ、僕はもうすぐ死ぬ」

 正直に全てを打ち明けることであった。

 それは愛する人に虚偽の言葉を口にしたくないという気持ちの他に、教養も知性も高い晶子を相手には誤魔化しは通用しないと理解していたためである。

 「僕の死については、どこまで聞いたのかな?」

 「……先輩が竜になるってことを」

 「なるほど、それで詳しい内容は?」

 「…………」

 「異世界管理局が検閲する文字制限のある手紙じゃ、詳しいところまでは書けなかったみたいだね」

 「それじゃ」

 「大丈夫、小川さんに嘘は吐かない。全部話すよ。僕の王としての、そして人としての最後について」

 そしてジークフリートは晶子へ語り始める。

 「結論から言うと僕が竜になるのは、僕の力の根幹である【竜気装】が原因なんだ。元々僕は普通の人間から、竜の血を()けて新成した存在。だからさ、その変化は今も少しずつ続いている」

 ジークフリートの話を聞きながら晶子は竜王祭の時にサラが話してくれた竜の騎士王の過去を思い出した。


 かの騎士王の始まりは(おや)殺し。

 その血流が人の身を最強の英雄へ変貌させた。


 「僕の身体の変化は、精神と魂すら竜のモノに変えてしまう」

 「……どうにか出来ないんですか」

 「うん、これは仕方ない。僕の人生は(りゅう)を殺した時点で決まった。これはそれだけの話なんだ」

 「そんな」

 何故、抗わないの? と晶子は言いたくて堪らなかった。

 しかしそれを言えばジークフリートの心の内に踏み込むことになる。それがどうしても晶子には出来なかった。

 晶子の内面は、どうしようもない憤りでいっぱいであった。そんな晶子にジークフリートは、

 「それで、小川さんはどうしたい」

 逆に晶子へ質問を投げた。

 「私?」

 渡されるとは思わなかった疑問の声に、途端に晶子はしどろもどろに心を崩していく。

 「今の話を聞いて、小川さんはどうしたいんだい?」

 「わ、私は」

 竜騎士王の問いかけに、崩れた晶子の心。

 それはつまり、晶子本人ですら触れられなかった自分の内心の発掘に他ならない。

 言葉のメスで、晶子の心魂が切り開かれる。

 そこで晶子は自覚した。

 己の魂が叫ぶ願いを。

 「誰かを、(アナタ)を救いたい」

 「駄目だ。絶対に」

 ジークフリートは否定した。

 もしくは拒絶と言い表しても構わない口振りで、好きだと告白した相手の願望に否と口にする。

 「どうしてそんなことを言うの……貴方に何が分かると言うの」

 「分かるよ。僕だからこそ」

 まるで晶子の願いの行先を知っているかのようにジークフリートは静かに語る。

 「僕が【ラ・グース】の魔王を倒したことは知っているかな?」

 それはジークフリートが打ち立てた偉業の中でも際立つ伝説。

 「最後の瞬間に僕は魔王に言われたんだ。お前も変わらないって。最初はその意味がわからなかった。その言葉の真意を理解したのは、世界を救った後だった」

 ジークフリートは己の過去を回想しながら語り続ける。

 「小川さんは、魔王を倒して【ラ・グース】は、世界はどう変わったと思う?」

 「それは……良い方向に変わったんじゃ」

 「そうだね、そうだとよかった。でもね」

 ジークフリートは悲しそうに笑いながら告げる。

 「何も変わらなかった。いや、むしろ倒すべき悪が居なくなって、より酷くなった」

 晶子には想像出来なかった。

 ようやく勇者が魔王を倒した世界で、希望に満ちた筈の未来が訪れないなんて。

 でも、同時に晶子は理解も出来た。

 晶子が生まれ育ったこの世界でだって戦争は存在する。そして、刻まれた戦火は戦争が終わった後ですら輪郭を露にする。

 そうだ、これは異世界でも、現実の話。

 お伽噺は漫画や小説の中の代物であり、現実はより残酷で、止めどない怨嗟の声に満ちている。

 「あとに残ったのは、残された人々による際限ない生存競争。奪い、貪り、食らい合うその光景は人類共通の敵を失ってむしろその苛烈さを極めた。僕はそれに抗ったが」

 ジークフリートは魔王と戦った。

 そして魔王を倒した後でも、戦い続けていた。

 「英雄(ボク)は世界を救えても、人間を救うことは出来なかった」

 それがジークフリートの、竜の騎士王と謳われた少年が得たこの世の真理であった。

 「国を作ったのはせめてもの悪足掻きだ。僕は、僕の手の届く範囲の人に笑って欲しかった。もしかしたら魔王も初めは同じ考えだったのかもしれない。だから言われたのさ、お前も変わらないって」

 その魔王から伝えられた真理を理解した時にジークフリートはどんな表情を浮かべたのか?

 それは現在の晶子にはわからないが、もしかしたら今と同じ顔であったのではないか?

 人を労る微笑みの中に、一抹の悲しさを秘めたそんな顔であったのではないかと晶子は直感した。

 「誰かを助けたいと思うのはいい。けれども、救いたいと願ってはいけない。人の願いはそれぞれ異なるからこそ、千差万別の願望をたった一つの救済で賄おうなんて土台無理なんだよ」

 「でも一人ぐらいなら」

 「無理だね。だって、それで小川さんは満足出来ないでしょう?」

 「──え」

 「過去に何があったかは僕も知らない。けれど分かるんだ。僕も似たような経験があるから」

 この時、ジークフリートの眼差しが晶子は怖かった。

 とても優しくて、同時に全てを見透かすような透き通った眼差しが晶子の魂の根幹を掴んで離さない。

 「──自分を許せないんだろう?」

 ジークフリートのその言葉に、晶子は心臓を射貫かれた感覚を抱いた。

 竜の騎士王は、知らずに理解していた。

 晶子の過去を。

 そこで生じた悔恨の念を。

 「罪の意識は果てしなく沸き上がる……だから君はこれまで人助けをし続けた」

 「ち、ちが、私は」

 晶子は言葉が覚束なくなり、上手く答えられない。

 何故なら、晶子の心にはかつての幼馴染みの少年の背中が焼き付いているから。

 それがこれまでの行動の源泉でないと晶子は反論が出来なかった。

 罪はある。

 晶子の心の内に。

 何を言おうと、かつて目の前で救えた筈の命を掌からこぼれ落としたと言う現実が晶子の心に深く根付いていた。

 「君の人助けは贖罪だ。そんな他者の救済は破滅への道だ……ああ、だからこそ僕は君に惹かれた」

 零れ堕ちた(みず)は、決して戻らない。

 それでも晶子はどうしてもその命を救い取りたくてたまらなかった。

 「僕は君が好きだ。だからこそ、僕は君を否定する」

 「そんな、こと、言われても」

 「わかってる。それでも君の魂は屈さない。だからさ」

 再びジークフリートの瞳に晶子は射貫かれる。

 「僕の、竜の瞳はその人間が秘める本質を見定める事が出来る。それで知った。君は──晶子さんはどんな危険な目に合っても、それがどれほどの危機だとしても君は折れず曲がらない。だから選んだ。僕は君を」

 「私を、どうして」

 「僕はこれでも一国の王だ。それ故に僕は、僕が死んだ後の事を考えないと行けない。だから君は最適だったのさ。無論、好みの女の子だったのも大きいよ。誰かの為に、身を呈して他者を助けようとする君の姿に僕は心を奪われた」

 すっかり緊張で硬直した晶子の身体を、その両肩をジークフリートのたくましい両の掌が包み込んだ。

 「矛盾しているよね。君の願いを否定するのに、そんな願いを持つ小川さんに惹かれているなんて。でも、それがどうしようもない僕の感情なんだ」

 晶子の瞳を覗いてジークフリートの願いが口にされる。

 「君に僕の全てを継いで欲しい」

 それはつまり遺言。

 自らの死後に対して、用意しておいた言葉をジークフリートは晶子へ伝える。

 「僕が死んだらすることを、僕の仲間たちに伝えてある。小川さんは表向きは僕の妻としてその事後処理に付き合ってくれれば良い。そしてどうか受け継いで欲しい。僕の遺産を、僕が築いた王国の全てを」

 「そんなの」

 「最初は難しいかもしれない。けど小川さんなら大丈夫さ。だって僕は見てきたから。この数ヶ月と、それ以前の小川さんのことを。小川さんは真面目で優しいからさ。そんな人が僕の国を継いでくれるなら、もう何も怖くない」

 恐怖はないと死を前にした少年は口にした。

 それが嘘ではないことが、ジークフリートの瞳が、声が、全てが晶子へ証明していた。

 そして晶子はサラの手紙に書かれていた文章を思い出す。

 『彼はとっくに竜化してても可笑しくない。なのに今だ人としての形を保っている』

 全ての答えは一つ。

 ジークフリートはその意志力のみで人の形を維持している。

 そして、その意志が満たされて、欠けてしまったとしたら──?

 それこそが竜の騎士王の、最強の最後。


 この時、晶子はジークフリートのことを見離せない理由がはっきりわかった。

 このままではジークフリートは竜と化す。

 話を聞いた限り人間としての自我も失われる。

 それが晶子の心の中で、かつてこの世からいなくなってしまった少年の背中と重なるのだ。

 このままでは遠くない未来に、ジークフリートの存在は消滅する。

 (その事実が私はどうしようもなく怖いんだ)

 もしかしたら学園でジークフリートを初めて見た瞬間から晶子は直感していたのかもしれない。  

 その肉体から滲み出る微かな破滅の兆候を嗅ぎ取っていたのかもしれない。

 「君に迷惑は掛けないから」

 己は無力な存在なのだと、晶子は思い知らされる。

 何かを、何かを言わねばと晶子は考える。

 何かジークフリートを、己の死を受け入れてしまった英雄を呼び止められる何かを言わねばと無力でありながらどうにか考えを巡らせる。

 そして出てきた言葉は、

 「もしも、人のままで居られるとしたら?」

 そんな根拠のない希望的な言葉しか出せない自らに晶子は静かに絶望した。

 「どうだろう。そもそも」

 そして次のジークフリートの言葉を聞いた時に晶子は自覚した。

 

 「そんな方法はこの世のどこにもないけどね」


 晶子の胸の内に、小さい何かが芽生えつつあったのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ