過去への回帰
「やっ、ぁああああ………!」
悲鳴のような声を上げて、目を覚ました。
その声の大きさに自分自身驚いて目を開ければ、そこは見慣れた白い天井だ。
(………また、あの夢)
髪をぐしゃりと握る。
赤い髪がむざんに手のひらの中で潰される。
彼女── リズレイン・リーズリーには秘密がある。
それは、自分が過去に戻っている、ということだった。
(苦しい……こわい……悲しい……)
あの夢を見ると、未だに胸がじくじくと痛み、理由のない涙がこぼれてしまう。
朝の目覚めはさいあくで、頭痛すら覚えていた彼女は、くちびるを噛んで遠い記憶から逃れようと堪えた。
遠くから聞こえてくる足音に、ふと顔を上げる。先程の夢の影響か、体は自然、強ばった。
「お嬢さま、どうかなさいましたか!?」
「…………」
メイドのアンだ。
その声にリズはほっと息を吐いた。
どうやらまだ、あの夢に引っ張られているようだ。
(あれは今から一年後に起きることなのに──)
今はまだ、大丈夫なはずなのに。
あの時の記憶はまだ色濃く彼女に恐怖を刻んでいる。
「入りますよ!」
返事を返さないリズに痺れを切らし、アンが部屋に入ってくる。
アンは顔の青いリズを見ると、眉を寄せた。
「まあまあ、お嬢さま。また悪夢を見たのですね?」
「……おはよう。アン。熱い紅茶をちょうだい。頭がすっきりするやつをお願いね」
声は、上ずってしまい、か細くなってしまった。
だけどアンは慣れたように頷くのみだ。
深く聞いてこない彼女にリズは感謝している。
「かしこまりました。既にお湯のご用意は整っていますので、キッチンメイドにふさわしい茶葉を用意させますね」
リズは頷いて答えた。
リズレイン・リーズリー。
彼女には、この先一年間の記憶がある。
彼女はリーズリー公爵家の娘だ。
兄はひとりいて、母は違うが気のいい兄はリズにも良くしてくれていた。
彼女には、婚約者がいた。
彼はその整いすぎた容姿と、雪のような冷えた雰囲気のために周りから恐れられがちだが、実はやさしい青年だとリズは知っている。
いや、そう思っていた、と言うべきだろうか──。
夢では、過去では。
リズは声を出すことすらままならず、気がついた時には床に倒れふしていた。
心臓を捧げよ、と男は言った。
あの後彼女は、心臓を奪われたのだろうか。
だから、剣を胸に──。
考えただけで、痛くなってくる。
怖くて、手が震えてしまう。
リズがまた、俯いて考え込み始めた頃、紅茶の用意が整ったのか、メイドが部屋に入ってきた。
ワゴンには銀蓋が被せられており、その隣には複数の茶葉を詰めた小瓶が並んでいる。
メイドはワゴンをベッドサイトまで持ってくると、銀蓋を開けてリズに話しかけた。
「本日の紅茶はハーブとミントの香りが特徴的なものにいたしました。リズレイン様もお気に召すかと思います」
小瓶から茶葉をすくい、スプーン一杯分、茶器に注いだ彼女が、思い出したようにリズに声をかけた。
「そういえば、お嬢さま。先程執事長が、リーズリー家を尋ねてきた従僕からなにか受け取っておりました。ベルロニア公爵様からのようです」
「──」
「公爵様は、わかりにくいですがお嬢さまを大切にしてくださってるのですね」
「………」
リズは、メイドの言葉に答えることが出来なかった。
いつの間にか、メイドは退室していた。
気がつけばいれてもらった紅茶も冷めている。それでも、彼女はカップに手を伸ばすことは出来なかった。
ヴェートル・ベルロニア。
彼こそが、未来のリズの婚約者で──そして、リズをその手で殺し、『悪魔の生贄』に捧げた張本人だ。
リズの恋心を利用し、裏切り、『儀式』の生贄にしたひと。
一度体験した未来──いや、もう過去というべきだろうか。
あの時の記憶を思い出すと、リズは今でも思わずにはいられないのだ。
なぜ、と。
リズレイン・リーズリーは幼い時からツンとすました、ませた子供だった。
同年代の子供より大人びた容姿をしていたこともあって、彼女は偉ぶっていたし、実際自分は偉いのだと思っていた。
彼女が十四歳の時のこと。
彼と出会ったのは、その年の夏の頃のことだった。
その日、気温は例年よりも高くなり、何をするにしても億劫になったリズは、メイドに言いつけて近くの湖で沐浴することにした。
リーズリー公爵家が所有する湖は、リズの大のお気に入りだ。ひとりで遊びに向かうこともよくあったので、父公爵は部外者の立ち入りを禁じていた。
そのため、彼女はその日もまったく警戒することなく、メイドに背中開きのドレスのリボンを解いてもらい、コルセットを外し、シュミーズもドロワーズも、ペチコートも脱ぎさって湖に足をつけていた。
そのまま泳ぐと、さっぱりとした気分になって、彼女は手ぐしで髪を梳き始めた。
汗を流して気持ちの良くなった彼女は、ふんふんと鼻歌を歌い、ぱしゃぱしゃと水を蹴る。
その時。
ぱき、と枯れ枝を踏んだ音がした。
驚いたリズが勢いよく振り返ると、そこには──どこもかしこも真っ白な男が立っていた。
リズは、見知らぬ男が湖に立ち入ったことよりも、彼のその容姿の異様さに驚いていた。
肌どころか、髪も白い。その髪は、灰よりも真っ白で──そう、雪のようだ。
肌も、あまりに白すぎる。
呆然とした彼女は彼を見てぽかんと口を開けていた。
貴族の、しかも未婚の娘ならまず自身の肌を隠し、悲鳴をあげるべきなのだが男の容姿があまりにも異様だったのと、その雰囲気に圧倒されてしまって、リズはとっさに行動出来なかったのである。
「あ……あなた、魔物?」
「…………は?」
それが、リズとヴェートルの初めての会話になった。