氷を溶かす恋心 ⑹
「では、お父様。先に私たちは行きますね、また後で会場で会いましょう」
「リズ、いいか?くれぐれも……」
「分かってますわ。しっかりと淑女の仮面を被り、孤高の令嬢として名を馳せてみせます」
馳せずともいい、と父公爵は思ったが、なんだかんだ仮面の付け外しは得意な娘のことだ、上手くやるだろうと最終的には彼女を信頼することにした。
ヴェートルのエスコートで馬車に乗り込んだリズは、浮き立つ心を沈めるのに苦労した。
馬車では取り留めのない話ばかり──主にリズばかりか話していたように思うが、ヴェートルは嫌な顔を決してしなかったし、いつもは長く感じる馬車の移動もあっという間に終わってしまった。
王城に入ると、さすがのリズも少しは緊張する。ティーパーティーで令嬢と顔を合わせることはあっても、紳士と酒を飲み交わす場で話すのは初めてのことだ。
緊張するリズが控え室でじっと固まっていると、彼が不意に口を開いた。
「リズは、好きな楽曲はありますか?」
「え?」
「今夜、その曲が流れた時は踊りましょうか。リズは何の曲が好きですか?」
「………」
リズが好む曲など決まっている。
だけどその曲は全くダンスに適していない。 口にしようか迷ったが、やがて小さく答えた。
「ピアノソナタの月光」
その答えに、ヴェートルは少し考え込んだようだった。当然だ。どう考えてもダンス向きではない。
「……暗いな」
「月光ってあなたみたいだから、好きなの。私」
「……何から言えばいいか迷いますが、ひとつ言えるのは間違いなくダンスホールでは奏でられない楽曲ですね」
「でも、いいの。ヴェートル様とは曲に関係なく踊りたいもの。踊ってくださるでしょ?」
リズが期待に赤い瞳を煌めかせて彼を見ると、ヴェートルは苦笑した。照れているのか、彼は遊ばせている長髪を耳にかけた。
「私はあまりダンスに慣れていないのですが……あなたの貴重なデビュタントです。有難く、その栄誉をいただける幸運に感謝し、あなたをエスコートしましょう。ですからリズ、あなたも楽しんでください」
「……もう、じゅうぶん楽しんでるわよ?」
「夜会中、その気持ち忘れないでください。あなたには笑顔がよく似合います」
「………」
このひとは、こういうことを臆面もなく言うから困る。リズはまたしても頬を林檎のように赤く染めることになった。
(ヴェートル様は……私のこと、どう思っているのかしら?)
何とも思っていなかったら、デビュタントのエスコートなど引き受けてくれないだろう。デビュタントのエスコートを引き受けるのは親族か、それか──。
婚約者と、相場は決まっているのだから。
緊張もほぐれ、リズが落ち着かない気持ちでそんなことを考えていると、入場の時間となった。
ついに、リズの初めてのデビュタントが始まる。
デビュタントの夜会は、昼のティータイムとは異なり、眩しさと煌びやかさ。そして、その裏に激しい牽制の世界があった。リズは持ち前の図太さと多少のことでは割れない仮面を持ち合わせているので、堪えることはなかったが、繊細な心の持ち主ならすぐにバテて疲労していただろう。
(なるほど、お兄様が言うのも尤もだわ)
主に、女性同士の巧言のやり取りが疲労の原因だ。リズはヴェートルと入場したものの、ずっと彼に引っ付いている訳にもいかず、渋々社交をこなすために女性の輪に加わったのだが、女性同士の容赦ない会話術は気弱な令嬢をあっという間に涙目にさせ、遁走させてしまう始末。
既に社交界デビューを果たしている令嬢は、そんな気弱な令嬢の後ろ姿を見ては、家名を背負う覚悟がないと罵り、さらには家名を貶める発言まで繰り広げるのだから、大したものだ。
リズは内心呆れながらそのやり取りを大人しく聞いていた。
「そう言えば……本日はビビアン様はまだいらっしゃっておりませんのね?」
ひとりの令嬢が意味深に呟く。
その視線はリズに向いていた。
(は?ビビアンってビリー伯爵家の娘だったかしら……?というか、どうしてこちらを見るのよ)
視線を向けられたリズはとりあえずにっこりと笑っておく。
「そうみたいですね」
途端、その場の空気が凍りついた。
リズの発言がなにかしらの意図をもって彼女たちに響いたようだが、リズは肯定しただけである。それだけでこうもあからさまに場の空気を悪くされると、リズも付き合っていられなくなる。いい加減リズは、このくだらない会話を切り上げたくてたまらなかった。
ふつうの人間なら空気の冷たさに怯え、恐縮するだろうが鋼の心臓を持ち、神経の太いリズはにこにこと笑顔のまま沈黙を保った。
重苦しい沈黙に終止符を打ったのは、リズに話しかけた令嬢だ。
「そうですのね。まあ……ビビアン様も珍しいこと……」
ふふ、と笑う彼女にリズも笑みを返した。
この時、リズは大して考えていなかった──令嬢の世間話以下の会話一言一言の意味を考えろという方が酷だ──のだが、彼女達は全く違う意味合いを持ってリズの言葉と態度を受け取っていた。
リズ自身、それはあとから知ることとなる。




