糸切れ人形
悲しくてたまらない。この雷が、大雨が、自分自身が。懐かしくてたまらない。あの声が、顔が、私を撫でてくれたあの手が、彼らの笑い声が。私の記憶、はるかに長い空白の隙間を埋めてくれる僅かな暖かい記憶。狂ってしまえればまだ楽だろうに、私にそれは許されない。笑うことも、泣くことも、狂うことも、忘れることもできない。何回も、何十回も、何百回も、何千回も繰り返した記憶を私はまたなぞる。また初めから、時間をかけて、今を忘れてしまうほど強く、鮮明に。
わたしの最初の持ち主は、ブランパンという老人だった。彼は人から頼まれて色々なものを作ったり、直したりして生計を立てていた。服や靴を仕立てたり、時計を直したりと凄く器用で、その気さくな性格も相まって、周囲からは名乗ってもいないのに職人と慕われていたそうだ。
そんな気質からか彼は好奇心が強く、わたしにも興味を示した。彼に初めて「巻かれた」わたしは自分のことを全く知らなかったし、それを知りたいと思って彼に協力もした。彼の話によると、わたしが入っていたのは曰くのある廃墟となった屋敷から見つかった鍵のついたカバンで、それを見つけた若者が老人のところに持ち込んだらしい。中に入っていたわたしの背中にはゼンマイがついていて、時計にも詳しい彼はすぐにそれを回したそうだ。ゼンマイは取り外しが効くらしく、今はついていない。手を伸ばして背面を触ってみたが、わたしの腕が動く範囲では届かなかった。
なぜ動くことができるのか、という一番大きな疑問は全く晴れず、人間と同じに動くことができるのに睡眠も、食事も、呼吸すらも必要としないわたしに彼はますます興味を示した。しかし、結局動くための機構も分からず、ゼンマイのみで動くことができたという事実だけが残った。しかもそのゼンマイだって最初の一回以降全く巻いていないが、少なくともここ数日の間は何の異常も起きていない。
彼は一通りの事を調べた後、行く当てが無くどうすればいいかもわからないわたしに一つの提案をしてきた。一緒に暮らさないか、と。ここ数日で情が移って追い出せないし、生活していく中で何かわかることがあるかもしれない、だそうだ。迷惑にならないかと聞いたが、わたしの世話はほとんどいらないし、老人の話し相手は何よりも大変な労働だぞ、と言ってシワを深めて笑っていた。
それからわたしは彼からたくさんのことを学んだ。裁縫や洗濯に掃除などの家事や、彼の仕事でしている修理や制作も彼から教わった。最初はそんなことしなくていいと言っていたのに、教えればその分上達する私を見てからはむしろ積極的に色々教えてくれたし、彼もそんなわたしを見て喜んでいた。わたしにとっては当たり前だったが、一度言われたり見せられたりしたことは一回で覚えられるし、いやでも覚えてしまう。それにわたしの細かく精密に動く手は、彼の太い指よりも繊細な作業がしやすかった。
文字の読み書きも彼が教えてくれた。計算はすぐに彼よりも上手くなったし、その頃は稚拙だった文章もどんどん上達していった。この時彼は初めて自分の名前をブランパンだと教えてくれた。わたしも名前が欲しくなって彼、ブランパンに頼んでつけてもらった。ブランパンは散々悩んで、わたしの流れるような銀髪から取って、メルキュールと名付けてくれた。メルキュール、とわたしが繰り返すと彼の方が照れたようにシワだらけの顔で笑った。
わたしがブランパンにゼンマイを巻かれてからちょうど三六五日、一年が経った。ブランパンが仕事をしている間にわたしが家事をする役割が確立して、家も綺麗になり、もともと偏っていた食生活も直させた。最初は干渉されることを嫌がっていたが、よくよく聞いてみると料理だけは上手く作れないらしく、「職人」の彼はそれを恥と感じていたそうだ。まったく、と呆れながらも食べやすそうな料理を本の通りに作ってみると美味しく食べてくれたのでよかった。ブランパンも、彼の腰ほどの背丈しかないわたしのためにドアの一部を開閉できるようにしてくれたり、細工物のような椅子やテーブルに加え食器も作ってくれた。
そう、飲食ができるのは最近知ったことだ。大体のことはしなくていいだけで、すること自体は可能だった。睡眠だけはいくら待っても意識が無くならず無理だったが、それはそれで家事や手伝いをする時間に充てられるので困ったことではない。
夕食の時に少し具材の豪華なシチューを二人で食べていると、ブランパンはおもむろに口を開いて、今日は出会ってから一年目だと教えてくれた。忘れたわけではなかったが、ブランパンもそのことを覚えてくれていたのだと思うと嬉しかった。彼は続ける。人間の誕生日の文化のことと、それからわたしの誕生日を出会ってから一年の今日にしないかという提案。わたしは喜んでそうしようと答えた。ブランパンは満足気に微笑んでから立ち上がり、作業場へ向かっていった。
戻ってきた彼の両手には木箱が乗っていた。驚いて彼の方をみると、微笑みながらプレゼントだと言ってそれを渡してくれた。彼はわたしの反応を待っているようだった。開けてみると黒い綺麗な生地が見えた。広げてみると腕のところにレースをあしらった小さな服が出てきた。その服は小さく普通の人間では着れない丈のもので、わたしだけのための服だった。
それに気付きブランパンの方を振り返ると、彼は驚くわたしを見て嬉しそうに微笑んだ。彼の笑顔を見たら、これまで経験したことのない胸がいっぱいになるような感じがして手元に視線を落とすと手元がぼやけて見える。瞬きとともに透明な二粒の液体がはじき出された。頬を伝う熱い液体が涙だと気付く。それはわたしのはじめての涙だった。でも決して悲しいわけではない。驚いている彼に伝えなくてはと思ったが、一度溢れた涙は止まらず、嗚咽に飲まれて声も出ない。わたしはブランパンに近付き抱きついた。そして彼の胸の中で泣いた。彼の暖かい腕は優しく包み込んでくれた。
しばらくして少し落ち着いたところでブランパンにありがとうと告げる。そして言われるがままにその服を着てみると、ブランパンは満足そうに鏡の前にわたしを連れて行った。
自分で言うのもおかしいが鏡に映るわたしは驚くほど可愛い。美しいと言うべきだろうか?わたしは言葉を学んでもその微妙な違いがまだよくわからない。その服はわたしの肌や髪の白さを僅かに青みがかったシックな黒で抑えながら包み込み、無彩色の中で瞳の赤が鮮やかに際立って見える。デザインは以前彼に持ち込まれた依頼で見たものだ。その時は憧れのような感情を覚えたもので、そんなわたしの目線に気がついていたのかもしれない。丸ごと同じものというわけでもなく、彼独自の手心が加えられ、むしろ今の方がいいくらいのものだった。
もう一度礼を言おうと振り向こうとすると突然足がもつれてしまう。そのまま手をつこうとしたがその動きもひどく緩慢なもので、胴体からそのままに床に叩きつけられてしまった。驚いたブランパンがわたしの名前を呼ぶ声が聞こえるが、返事をするにも口が動くこともない。手足が、全身が、冷たくなって全く動かない、それなのに意識だけは驚くほどはっきりとしている。開いたままの視界でブランパンがわたしを起こしてくれるのが見えるが、何もすることはできない。どうすればいいのか分からず漠然と恐怖が広がっていく中で、ブランパンの声が聞こえる。大丈夫だ、すぐなんとかしてやる、と。
彼は服の中へ手をやると、ゼンマイを巻き始めた。巻かれたところから少しずつ、身体が暖かくなっていくような感覚がする。力を入れると今度は手も足もいつもの通りちゃんと動いた。わたしもブランパンもこの時初めて、わたしの仕組みについて新しく知った。ゼンマイは一年キッカリで切れる、らしい。
その後の生活にはいくつか変化があった。あの服は結局勿体無くて日常で着ることはなかったし、ブランパンはゼンマイをよく巻き直すようになった。そんなに頻繁にしなくても大丈夫だと言ったけど、ブランパンは心配だからと決してやめなかった。そんなに心配させたと思うと申し訳なくなったが、同じくらいブランパンが自分のことを想ってくれてるのだと気付いてからは、この習慣は、わたしにとっても大事な儀式のようなものになった。なんとなくこの幸せが、この日々が続けばいいと思っていた。
ある日の事だった。食事には必ず間に合うように来るブランパンがいつまでたっても来ない。呼びに行こうとわたしが向かうと、彼は机に突っ伏して寝ているようだ。
やれやれと思って、毛布を布団から引っ張ってきた。わたしのちいさなからだは大きな物を運ぶのにはだいぶ都合が悪い。彼の肩まで毛布を引っ張り上げたときだった。
うーん、とブランパンが唸った。起こしてしまったのかと一瞬思ったが、こっちを向いた顔は苦悶を浮かべ、額には汗をかいていた。揺さぶって、名前を呼ぶと彼が少しだけ目を開けると、震える声で、水、と一言だけ絞り出すように呟く。この時ほど自分のちいさなからだを恨んだことはなかった。手頃な大きさのコップを運ぶのにも、わたしは両手が必要だ。そうしてなんとか彼のいる作業場まで運び込めた。ブランパンは緩慢な動きで机の中から乳白色の瓶を取り出して少し口に含んだ後、コップの水を大きく煽った。小刻みに震えていた彼の体は、穏やかに上下し始めた。
程なくして意識を取り戻したブランパンに尋ねる。急に倒れた理由、あの瓶の意味。薄々わかっていたけど、認めたくはなかった。彼の口から、わたしの最悪な予想が出ることはないと信じたかった。彼はわたしに落ち着くようにといってから話し始めた、まるで他人の話をするように。
病気はわたしがここに来る前からブランパンの体に巣食っていたものだそうだ。頭の中の一部がおかしくなっているらしく、めまいや頭痛、たまに意識がふっと途切れたりするらしい。これまでは医者からもらった薬で症状を抑えていたという。それでも最近はさらにひどくなっているらしく、薬ではその場しのぎにしかならないようだ。思えば薬の瓶のあった机に触らせてもらったことはなかった。決して触らせてくれない仕事道具があったりしたからとくに違和感を抱くことはなかったけど、きっとそういうことだったのだろう。
それから続けてブランパンは話をした。長い話を。ずっと連れ添った妻が数年前に死んでしまったこと。その後は、茫然自失の状態でただただ仕事に打ち込んでいたと言っていた。そんな日々の中でわたしと出会ったそうだ。わたしと過ごしているうちにブランパンの色が抜け落ちたような日常はいつのまにかかつての鮮やかさに彩られた、暖かい家族のいる生活となっていた。以前はそのまま病に伏して死んで行こうと思っていたのに、今では出来るだけ長く一緒にいようと医者に行ったらしい。ずっと前にわたしに名前をつけた時、自分たちは授からなかった娘として接していこうと決意したそうだ。
こんな話をされてわたしは急に不安になった。ブランパンがどこか遠くへ行ってしまうんじゃないかと。でもそんなことは怖くて聞けなかった。尋ねたら本当にそうなってしまいそうで。だからわたしも決意をした。彼を一人にさせない。本当の父親がいたことはないけれど、彼の願う通りに最期の時まで娘でいようと。
それからのわたしはほとんどの時間をブランパンと一緒に過ごすことになる。作業中はわたしも隣で道具の手入れをしたり、作業を手伝ったりもした。彼はわたしの目から見てもわかるほどに弱っていった。食欲も落ちたし、ベットにいる時間も少しづつ増えていった。その間にたくさん話もした。何度したかもわからないような取り留めのない会話は、先のない扉を開きかけていることを忘れさせてくれるくらいに穏やかな時間だった。
その日は今にも降り出しそうな雨の日だった。ブランパンに言われて、久しぶりにあの服に袖を通していた。そんな時だった。寝たままの彼の隣で少しづつわたしの手足の感覚が無くなっていく。どうして?まだ前に巻いてもらってから一年も経っていないのに。ゆっくりと四肢が冷たくなっていく感覚の中で唐突に、頭ではなくからだで理解した。ブランパンの命の灯が、今まさに消えようとしていることに。ブランパンとこのからだは繋がっていた。わたしのゼンマイは、巻いた人とわたしを生命力でつなげる糸だった。彼は今まさに死に一歩ずつ近づいて行っている、それがからだでわかる。けれどわかってはいてもも何もできない。どんなに必死に力を込めても指一本動かない。胸の暖かさから彼がまだかろうじて生きているのはわかるけど、それも刻一刻と弱くなっていく。砂時計の最期の一粒が落ちるようにすっと、胸の暖かさが抜け落ちた。
雨の音の中、意識だけがはっきりとしている。わたしは何もできない。彼のシワだらけの手を握ることも、抱きしめることも、涙を流すことも、別れの言葉を告げることも。煤けたガラスをつたう水滴は、流れないわたしの涙なのかもしれない。
私の耳に音が飛び込む。私の夢想を中断した者は、このひどい雨の中屋敷に訪ねて来たようだ。
また私の何人もの記憶の中に、新たな悲劇が刻まれるのかもしれない。それでも構わないという気がした。私はずっと前に糸の切れた人形なのだから。
元々は別に書きたい話がありました。ただ、それを書くだけの勇気が当時の私にはありませんでした。これは、その話に登場する人形の子の前日譚として書いた話です。
以前に私が文芸部に所属していたときに書いた作品を一部改稿したものがこちらです。ありきたりな感動に逃げてしまった後悔はありますが、私の好みが詰まっているので嫌いになれない作品です。
拭い切れないローゼンメイデンの香りは、作者の趣味です。
人形で美少女といえば薔薇乙女ですもんね!
さて、これはあくまで前日譚、今後の私の作品に乞うご期待を!