桜に眠る鬼
東の都の中心に建つ皇宮。
その一角にある祭壇の巨大な水鏡に、腰までをつからせて佇む少女。
ほんのり焦げ色を含む漆黒の髪は結い上げられ、銀の簪で止められている。
細かい装飾の施された着物に身を包み、胸元には家紋の刺繍。
少女は巫姫。
月宮を奉る皇、忍冬の長女。
名を睦月。
微かに冷たさの混じる風が水面を揺らし、少女と共に映り込んでいた月が形を崩した。
沈黙していた少女が静かに瞼を開く。
「我を呼ぶのは誰ぞ」
僅かに揺れた唇から、微かに溢れた問掛け。
風が止み、凛とした空気が張りつめる。
次第に月の色が変化しはじめると、水鏡に薄紅色の光景が映された。
それを見届けた睦月は、水面を揺らして祭壇から降りる。
「葵はおるか」
「此処に」
宮遣いの者たちに衣を着せ換えられながら、睦月は人の名を呼んだ。
返事は彼女の背後からした。
「白狼の用意を。夜明けと共に東へ赴く」
睦月と葵の二人は、白狼に乗り東へ九里走らせた。
辿り着いたのは山の梺にある小さな村。
「これは如何した事だ」
漸く春へと移ろい始めた季節というのに、村は寂れ、山は枯れていた。
ただ一つ、頂きに立つ大きな桜は、早すぎる開花を見せている。薄紅ではなく朱の花の色で。
水鏡で見た光景とはかけ離れた様子に、睦月は驚愕の声を溢したのだった。
「もし、旅の方々で?」
回りの異常さに目を奪われているうちに近付いたのだろう、村人が珍しそうに白狼と睦月を交互に見つつ尋ねてきた。
「私達は忍冬の者です。この近辺の調査に参りました」
質問には葵が答えた。
「これは…。遠い所までよく御越し下さいました」
「長は居られますか?」
「はい。どうぞ此方に」
忍冬の名を聴いた村人は畏まり、緊張した面持ちで村長の家へと案内する。
睦月は白狼を降り村人の後へ続き、少し遅れて二匹の白狼を連れた葵が追う。
村人から長へと接客役が移り、客間へと案内される。その場には村の老巫女が先に訪れていた。
睦月と葵を加え、四人で話が進められる。
花が霊力の低下をみせはじめたのが三日前。それと同時に朱い花が咲き始めたらしい。
邪霊が山を汚しているのではと話し合われていたところへ、睦月達が訪れたのだった。
「霊力が衰えるとは……それほど歳を召された神木とは思えなかった。やはり邪であろうか。
しかし、この近辺は比較的安定しているはずなのだが……」
眉を潜める睦月に、長は一冊の書物を持ってきた。
「三十年ほど前にもこの様な変化があったそうです。やはり邪によって穢れが生じて、霊力が弱まりました。当時、採られた対策が……」
「霊力を持つ者を捧げたのか」
「はい……」
「それでは、根本的な解決にはならぬのではないか?」
展げられた頁に目を通し、睦月は憤りを声色に含めて訪ねた。
「しかし、この村には強い霊力を持つ者が居りません。強い邪霊が現れてしまえば、守りきれずに山が死んでしまいます」
長の言葉に、睦月は勘違いをしていた事に気付く。
睦月と同等の霊力を保持する巫女は、そう居ない。
徐霊出来ずに土地が死滅するならば、その前に人柱を立てることが、最善の方法なのだ。
人にとっても。精霊にとっても。
「…そうだな。だが、今回は我に任せてはくれぬか?」
「それは有難き事この上ありません。ですが、何故この様な田舎村に?」
「呼ばれたのだ。恐らく、あの桜に」
空が曙色に色付く頃、外出服を身に纏った睦月が門の前に現れた。
霊力を高める為の式服は包みへ収め、術具は耳と首に下げている。
ふと、足を止めた。白狼の前に人が居たのだ。
厳しい目と彫りの深い顔立ち。漆黒の髪には白髪が交じり始めている。
胸に家紋の印された衣を纏う彼は、睦月の父だった。
「行くのか」
「はい。神の試練ですから」
「お前も、十になったのだな……」
「父上」
決意を秘めた眼差しで見つめながら、睦月は続けた。
「神が私を試すと言うのならば、それを受けます。たとえそれで、この身を亡ぼす事になろうとも」
「お前の、信ずる道を行くがよい」
少し寂しげな光を眼に浮かべ、父は背を向け皇宮へと消えていった。
「親不孝者を御許し下さい」
長い間、消えた背中に頭を下げていた。
「睦月様。如何なされました?」
皇宮を出る直前に交された、父との会話を回想していた処へ、葵が唐突に声をかけた。
「…いや。何でもない」
睦月が答えれば、それ以上聞き出す事はなく、止まっていた手を再開させる。
睦月には父の気持も解らなくはなかった。しかし、どうあがいても結果は変わらないのならば、悔いを残したくなかった。
「着付けが終りました」
睦月の帯締めを終え、葵は膝を付いていた姿勢から立ち上がる。
「では、外で待っておるぞ」
「はい」
村長の部屋の一角に設けられた仕切り。そこから出た睦月は術具を手にして表へ。
月宮の巫姫を一目見ようと、村中の人々が物陰から好奇の眼差しで覗いている。
皇宮での魔祓いと違い、外での経験は睦月にとって初めてだ。齢十を過ぎたばかりの彼女が、本当に桜を救えるのかと、不信を抱く者の方が多くいた。
「申し訳ございません…。この様な事態に陥ってしまい、皆疑心を抱いてしまっているのです」
村長と共にいた老巫女が、睦月へ声をかけた。
気付かれる程、不愉快さを表情に出していたのかと、驚いた様子で睦月は老巫女を見上げて言った。
「いや…。気にしてくれるな」
そんな睦月を見て苦笑する老巫女。笑われた本人は、恥ずかしそうに頬を膨らませる。
「す…少し離れておけ。守護精を起こす」
「はい」
老巫女が距離をおくと、睦月は首から下げた二つの珠を手にして名を呼んだ。
「瑠璃。瑪瑙」
呼び掛けと同時に珠が光り、空へと跳ぶ。降りてきた時には人の姿をしていた。
「先に山へ向かい、様子を見てきて貰いたい。それから、枯れ地が拡がらぬ様、境界も頼む」
命令を承け一礼をすれば、二人の姿は消えた。
それと入れ替わりで、式服に着替えた葵が木箱を背負って出てきた。
「お待たせ致しました」
「うむ。では参ろう」
「月宮のご加護を」
山へ向かう者達へ鈴を鳴らして老巫女は見送る。
「言霊もなく呼び起こすなんて…」
「あれが巫姫の霊力なのか…」
睦月の霊力を間の当たりにした村人は、以後何も言わなくなった。
山を登る階段の前に古い鳥居。
それを境にした山側は、木も土も、全て白くなっていた。
拡大を防ぐ境界を結び終えた瑠璃が、睦月の元へ駆け寄る。
「睦月様。この山の木霊が居りませんの」
「死に絶えてしまったのか」
「いいえ。滅えてしまった様なのです」
精霊は死ぬと大地に還り、また新しい精霊として生まれ変わる。大地が生きている限り、それは幾度も繰り返される。
しかし、汚されたり喰われる等で輪廻が途切れると、石と化し再生される事がなくなる。
「喰われてしまったのだろうか」
「恐らく。今、瑪瑙が邪を祓い、生存している木霊を探しております」
「我も手伝おう」
「いえ。睦月様は桜の方へお急ぎ下さいませ。こちらは私達で事足ります」
「わかった。無理はするなよ」
この異変を知らせるために桜は朱く染まったのだろうと、睦月は思った。
鳥居を境に、空気が重くなる。陰の気が充満していた。
睦月の後ろに着いていた葵が、彼女の背中に印を描く。呼吸が少し楽になった。
二人は石段を駆け登る。
『滅!』
睦月が手印を組んで霊力を放ち、群がる邪を遠ざける。
即座に葵が魔除けの真言を紡ぐ。
低級邪霊は思考能力を持たず、欲求のままに霊力を求める。
魔除けの真言によって、襲い迫る邪は次々と自滅していく。
桜が近付くにつれて邪の数が減少し、頂上付近では一匹もいなくなった。
「桜には近付けぬ様だな」
一度立ち止まり、後方を振り返って睦月は呟く。
安全を確認し、葵は真言を止めた。
多少乱れた呼吸を調えつつ進めていた歩みを止めた。
桜の前に立つ背中を見つけた。
細い躰の腰まで届く長い黒髪。
「何をしに来た?」
桜を見上げたまま、黒髪の人影は睦月に問う。
「其方こそ、何をしておる?」
問い返す睦月を、ゆっくりと振り返り見つめる。
青年だった。
「桜を見ていただけだ。お前は何者だ?」
「我は睦月。この山の邪を祓いにきた」
「……去れ」
凍った瞳で睨みつけ、冷たく言い放つと、彼は再び背を向けた。
「其方こそ、この場に居ては憑かれるぞ。山を降りよ」
「…そうか」
一瞬の出来事。
言葉が終ると同時に青年が消え、睦月の正面に現れたのだ。腰に挿していた刀を抜いた状態で。
すかさず葵が睦月を引き寄せ、紙一重で太刀を避ける。
「……ッチ」
舌打つ青年は距離をおき、葵を睨みつける。
「睦月様。この山が枯れた原因は、この桜かも知れません」
「どういう事だ?」
「霊力の弱まった桜は、既に邪に取り憑かれている恐れがあります」
微風さえ吹かない中、桜がざわめく。
視界は朱。
青年に向かって葵が構えた。
「睦月様。私がこの者の相手をします故、桜をお祓い下さい」
頷いて応え、睦月は桜へと駆けだす。
「させるか!」
青年は睦月を狙い刀を走らせる。
袖に忍ばせていた短刀で、それを葵が止めた。
「お前の相手は私です!」
「退け!」
青年は葵を力で押し負かし、懐へ踏み込んだ。
腹部への一閃。
後退する葵の式服を刀先がかすめ、左の袖を斬り落とす。
更に踏み込み、青年が返し刀で振るう。
しかし、葵に届く前に見えざる壁に阻まれた。見れば四方に境界が引かれている。
「……ッ!」
落ちた袖から転がる真玉石。青年を取り囲む様に広がり、互いを結んでいく。
青年が気付いた時には、既に幾重もの境界が引かれていた。
真球石を鋒で突く。傷は浅く、一つを破るまでに多くの時間を要した。
その間に、睦月は印を桜に彫り、相対する手印を組む。
「桜の君よ。其方の靈を解き放つ!」
「やめろォォ!!!」
今、まさに桜を浄化しようとした時。大地を揺るがす叫びと共に、疾風が走った。
青年を中心に山全体の邪気が暴れだし、彼を捕えていた真球石が砕ける。
「…ッ…なんたる力…」
黒い風は渦を巻いて立ち上り、桜を包む。
荒らぶる風に弾かれた睦月の体は宙へ舞う。落下する体を葵が受け止め、共に地に倒れこんだ。
睦月の衝撃は軽減されたが体は思うように動かず、葵に至っては起き上がる事すらもままならなかった。
なおも渦は増大し、龍へと変貌を遂げる。矛先を睦月と葵に定めた。
轟音と砂煙。
龍は二人へ迫り、その口を開いた。
「落ち着きましたか?」
囁く様な声色。
穏やかな風に言葉を乗せて、桜の姫は問いかける。
彼女の根下に背中を倚らせて座る青年へと。
「あぁ……」
磨き終えた刀身に姿を映し、鞘に収めて彼は静かに答えた。
静寂の中。二人の間を緩やかに風が過ぎ去る。
辺りには砕けた木の枝が散乱していたが、桜だけは無傷のまま大輪の花を咲かせ、朱い雪を降らせ続けている。
「有り難う御座います」
「何がだ」
礼をする桜に視線を向けず、無愛想に青年は答えた。
彼女がそれを気にする様子はなく、微笑んだままで彼を見る。
「貴方が私を衛って下さったから」
「勘違いするな。彼奴等が鬱陶しかっただけだ」
吐き捨てる形で否定し、瞼を閉じる。
青年が眠ると、桜は視線を外へと移す。山を囲う境界越しに村を見つめた。
間一髪で間に合った瑠璃と瑪瑙によって、山を降りた巫姫達の事を思う。
ふいに村を見ることを止めて、青年へと視線を戻した。
青年が短い眠りから目を覚ます。倚らせていた背中を起こし、長い黒髪を袖内に納めていた紐で結う。
そして、膝に乗せていた刀の柄に手をかけ引き抜くが、一尺ほどで手を止め、鞘に納めて膝の上に戻した。
表情には先程までの鋭さが消えている。再び桜に背を預けて、彼は溜め息を吐いた。
桜は彼の頭にそっと手を乗せる。
「貴方に、お願いがあります」
青年はゆっくりと桜を見上げた。
色彩の無い世界。
その中で唯一、色彩を持って直立するのは睦月だった。
周囲を見渡し呟く。
「これは……維夢か」
維夢には二種類ある。
一つは、神や精霊の意思を夢を介して疎通する方法。
もう一つは、特定の道具を用いて離れた者と交信する手段。
この世界は前者の維夢。
今、睦月の前には桜が立っている。
現在よりも少しばかり若い。
そこへ人が近付いてきた。
乱れた髪と鋭い瞳。くたびれた古服を着て、額から一本の角を生やした男だった。
それは鬼と呼ばれる存在。
強大な力を持ち、東の果ての島に住んでいるという。
怪我をしているのか、おぼつかない足取りで鬼が倒れた。
小さな木霊達は鬼から遠ざかってゆく。その中で、桜だけが鬼へと歩み寄る。
いくつか会話を交し、桜は鬼を癒すのだった。
「だから見逃せ。とでも言うのか?」
一部始終を見た睦月の言葉は、淡々としていた。
彼女の問いに、微かな返事が降ってくる。
「そうではありません」
風景が白に溶けて消え、入れ替わりに桜が現れた。
長い黒髪と桜色の着物。少しやつれた表情の彼女は桜の精霊。
睦月は扇を左手にして開き、口元を覆い隠して桜と向き合った。
「鬼を救う精霊とは、初めてまみえたぞ」
「…私も他に聞いた事がありません」
桜の細い声は微かに震えていた。
それでも睦月は言葉の強さを変えない。
「現在の鬼の者と…容姿が違っておったな」
「捧人に宿っております」
過去に人柱が必要となった理由。鬼に体を与えるためだった。
睦月は溜め息を吐いた。口元は隠したまま、開いていた扇を閉じる。
「姫のする行いでは無いな」
「私が堕落した存在である事は承知しております」
「何故、鬼に邪魔をさせる?」
「彼があの様な行動にでるとは、予想も致しておりませんでした……申し訳ありません」
桜を見る限り、嘘偽りを語っている様には思えない。
鬼が自らの意思で精霊を衛っているのだろうか。
桜の例が有り得たならば、その逆も無いとは言い切れない。
鬼は君主を持たず、我欲の強い存在。そして、先刻目の当たりにした強さ。
桜を浄化するには厄介な存在であった。
小さな屋敷の一室で、睦月は目を覚ました。
枕元には瑠璃がいる。
「どれ程眠っていた?」
「一刻弱ですわ」
「そうか。此処は何処だ?」
上体を起こし、背を伸ばしながら部屋を見回して問う。
体の所々が痛むものの、立ち上がれない程ではなかった。
「村の社。巫女様の部屋で御座います。別室にて葵様と瑪瑙が待機しておりますわ」
瑠璃が睦月の着付けを始める。
その間に部屋を見渡す睦月の視界に、一枚の素描が映った。家族で並ぶその中に、人柱となった青年の姿が描かれている。
「瑠璃よ。霊力を持つ者に鬼が寄生した場合、どうなる?」
「そうですわね……霊力が強ければ鬼は消滅してしまいますし、霊力が弱ければ取り憑けると思いますわ。宿主の霊力は尽きませんから、食事の必要は無くなると思われます。ただ、危険が高いものですから最終手段と考えられますわ」
「そうか」
式服を纏った睦月は、葵と瑪瑙の待つ部屋へ移動した。
「傷はどうだ?」
最初に、布団で横になっている葵を気遣った。
起き上がろうとした葵を、瑪瑙が制し代弁する。
「命に別状はござらん。だが、あやつと渡り合う事は無理であろうな」
「致仕方あるまい。今回は瑠璃と瑪瑙とで事を成そう。其方は傷を癒すことに専念してほしい」
「申し訳、ありません……」
弱々しく葵は命令に答えた。
睦月は小さく頷き葵の枕元に座すると、維夢での内容を話し始める。
「先程、桜と通じた。例の青年は過去の人柱に宿った鬼であり、彼の意思で桜をかばっておる様だ」
「前代未聞の例ですわね」
「だとすると、あの鬼に霊力を喰われてるわけでもない。にも関わらず桜姫の霊力は落ちているという事か?」
瑪瑙の疑問に睦月は頷く。
全員が眉根を寄せて首を傾げた。
「何か理由があるのかも知れませんわね」
「木霊が消えた理由も、別にあるのかも知れぬ」
桜を衛っているのであれば、邪が近づけない事も頷けた。
鬼は宿り人の霊力で生きるため木霊や精霊を喰う必要もない。
それでも、木霊が消えたのは事実。
木霊は木そのもの。霊のみで移動出来るはずがない。
「ひとつ…よろしいでしょうか?」
暫しの沈黙を破り、襖を開けて老巫女が口を開く。
手には盆を携え、湯呑みが人数分乗せられていた。
「良い。申してみよ」
「はい。あくまでも憶測ではありますが、桜の姫は身籠っておられるのではないかと」
「身籠る?」
「詳しくは分かりませんが、私の祖母から、その様な話を聞いた事があります」
老巫女の話を聞き、瑠璃と瑪瑙は揃って手を叩いた。
「成程」
「確に考えられますわ」
精霊同士、理解しあえる部分があるのだろう、何かに思い当たった様子。
睦月は二人に問う。
「精霊が身籠るのか?」
「一般的には知られていない話ではありますが、条件が重なれば有り得る話だ」
答えた瑪瑙は僅かに厳しい表情をする。
続けて瑠璃が答える。こちらも、浮かない表情で。
「私たち精霊は、全てを慈しみ育む存在です。けれど、一人の者に特別な愛情を抱き、また相手も精霊に想いを抱けば、精霊は身籠ります」
「かと言って、二人の子というわけでは無い。霊力をそのまま受け継いだ精霊であり、元の精霊と交代する」
「その為に精霊は、子に霊力を奪われる形になってしまうのですわ。そして、子を産んだ精霊は……消滅します」
交互に説明する二人。
睦月は更に問いかける。
「木霊も消滅してしまうのか?」
「はい。新たな精霊が、新たに木霊を産み、統治する土地そのものを塗り変えます。精霊の力を乱用させない為、先代の霊力は完全に抹消されてしまいます……」
訪れた沈黙。
先に破ったのは睦月。
「それが理ならば、受け入れる他ないだろう」
その言霊は、静寂によく透った。
小さな星々が浮かぶ夜の天を、上弦の月が渡って行く。
山の中腹にある小さな滝壺。ゆれる水面に映るのは、逆さまの月の姿と鬼の影。
上半身の肌を月光に晒し、水を浴びている。
濡れた黒髪から落ちる滴。顔に掛る髪を払い、岸へと向かう。
岩の上に置いていた手拭いを取って髪と体を拭き、衣をはおる。帯を締め、刀を腰に挿し、髪を束ねる。
右手で刀を抜き、空を割く。鞘から右上へ、刀先が弧を描く抜刀。
流れる動作は滑らかに。
刃を納めて鳴る、小さな金音。
風に舞う、破れた札。
左手は鞘に掛けたまま、鬼が振り返る。
睦月と瑪瑙が、滝壺を挟んだ先に立っていた。
「きた…か……」
鬼は一言呟くとその場から姿を消す。
一度の跳躍で滝壺を越える。鬼の先制。標的は睦月。
柄を握り、抜刀の姿勢で向かい落ちる。
間合いより後ろへ跳ぶ睦月。その間に割って入り、棍で刀を受ける瑪瑙。
斬れない棍に弾かれ、刀を取り落としそうになる。
すぐさま両の手で握り直し、着地の反動を利用して、瑪瑙に向かって青年が跳び込む。
同時に瑪瑙も前へ。棍を下から上に、半円を描いて振る。
顎を掬い上げられ、青年が飛ぶ。殴打の寸前に跳んで緩和させるも、一瞬息が止まる。
背面に半回転、左手を地につけ体勢を戻す。喉元を押さえ、小さく咳をした。
手応えの軽さに瑪瑙も気付き、数歩下がって間合いを空ける。
「お主、昼間の鬼ではござらんな?」
瑪瑙の問掛けに、青年の瞳が少し揺れた。
青年が瑪瑙に斬りかかる。瑪瑙はそれを受け止める。
「お主の名は?」
「……吹雪」
短い問答。瑪瑙は受けた刀を押し返し、間合いを開く。
青年、吹雪は瑪瑙に苦戦を強いていた。
「鬼を宿して尚、意識が残っておるのか?」
「その様ですね」
「刀を納めよ。お主では儂に敵わぬ」
「それは……出来ません!」
吹雪が踏み出した瞬間、山の頂上が光の柱が昇った。
敵を前にして視線を反らすなど、自殺行為ではあったが、瑪瑙は攻撃を仕掛ける事はしなかった。
「あれは……っ…」
光に困惑していた吹雪が膝をつく。
額を抑え、瞳の色が黒から金に変色し始める。
「……ふざけ…やがって…」
怒りの形相。そして満ちてくる殺気。吹雪は鬼へと変貌する。
疾風の如く、光が昇る方へ向かって駆ける。その前に、手印を組んだ睦月が立ちはだかる。
「退けぇぇ!!」
掲げた刀を力任せに振り下ろす。
境界の衝突音と鬼の雄叫び。
境界は吹雪と瑪瑙を囲って張られていた。
「そう簡単に行かせませんわ」
「テメェ……巫姫の小娘じゃねぇな……」
変身を見破られ術が解ける。睦月の姿は、見る間に瑠璃の姿となった。
「儂も忘れるな」
背を向けた鬼へ、棍の一突きを仕掛ける瑪瑙。
体勢を低く右足を引き、棍を頭部の後ろに通す。髪紐が解ける。
振り返る流れを利用して刀を振るい、瑪瑙がかわした脇をすり抜けて走った。
「行かせま……ッ!?」
いくつもの鈴の音が辺りに響く。同時に引かれていた境界が消え去る。
唐突の事に驚愕した瑠璃の隙をついて、吹雪は攻撃を仕掛けた。
「瑠璃!」
瑪瑙の声を、瑠璃が耳にした時は遅かった。
吹雪の刀に残る、確かな手応え。
仰向けに崩れ落ちる瑠璃の肩を踏み台にし、光り輝く山頂へと風を纏って飛んだ。
木霊のいない、静まりかえった山の頂。
睦月は桜のもとに居た。
満開だった朱い花は、その殆んどを散らせていた。
「ずいぶんと弱ってしもうたな……」
桜へと寄り、右手をそっと幹に触れさせた。瞼を閉じて耳をすます。
ゆったりとした桜の鼓動。それと隠れる様に、小さな二つめの鼓動が聴こえた。
「身篭って、おるのだな?」
「……はい」
弱々しい声が返ってくる。
もう精神を擬人させる霊力も残されていない。
睦月もそれを解っていた。
「何故、我を呼んだ?」
「浄化をお願いします……」
睦月は触れていた手を離し、ゆっくりと顔を上げた。
「村の巫女では出来ぬ事なのだな?」
「はい。大地ではなく月へと還して頂きたいのです……」
大地の循環を絶ち、己の主神である月華へと往く。
それは、肉体はおろか精神すらも神の魂へと還る事を意味する。
「しかし、我はその様な術を知らぬ」
「渡里の詩を…ご存知でしょうか…?」
桜の告げた詩の名は、睦月もよく知っている。小さく頷いた。
春夏秋冬の節目に行われる政で、大地の安寧を願って必ず詠われる祀り詩。
その詩に精霊を還す力があることを、初めて睦月は知った。
「……其方はそれで良いのか?」
想いを寄せた者の元から去り、情の消滅。
問いかける睦月の声は戸惑っていた。
「……はい」
静かでいて凛とした、心を決めた返事。
睦月の表情が歪む。
「我にもっと力があれば、其方を救えたのだろうか……」
奥歯を噛み締めて呟く。言葉は桜に届かなかった。
落ちる花びらが、優しく睦月の頬を撫でる。
悔しさを押し殺している睦月へ、微笑みかける様にもとれる。
そして、睦月は渡里の詩を紡ぎだす。
言霊は頂の静寂に、静かに響いていく。
風が止み、流れる雲は消え、月の明かりが山を照らしていく。
柔らかな光を受け、桜は仄かに発光を始めた。
「睦月様……彼をお願いしてもよろしいでしょうか?」
彼とは鬼の事だろう。睦月は一つ頷いた。
「ありが…う……ざいま……」
光に呑まれて消えていく声。垣間見えた、微笑む桜の表情。
月の光と桜の光が繋がり、煌めく架け橋が渡される。
詠い終えた睦月は少しの間、光を見上げていた。
「どうか、安らかに」
彼女の安息を願うと、背を向けて山を降りた。
その途中、睦月は一陣の風とすれちがう。
風を追って振り返れば、小さくなっていく背中が見えた。
「あれは……」
「睦月様!」
山頂に消えた背中に、少し遅れて呼ばれた。
視線を向ければ瑪瑙が立っていた。息こそ切れてはいないが、多少疲れた様子だった。
「鬼か?」
睦月の質問に、瑪瑙は頷いて答える。
「いかにも。儂は奴を追います。睦月様は山を……」
「よい。放っておけ」
瑪瑙の言葉を遮り、睦月は再び頂上を見た。
桜を包み、月へと昇る光の道。
頂上に辿り着いた鬼は、即座に左脇に納められた刀に手をかけ、駆けていた勢いを殺さぬまま突っ込んだ。
雷鳴が走り、弾かれた刀は弧を描いて後方に飛んで地に刺さる。
鬼はそれを拾わず、代わりに爪を立てた。
「ッアアアア!!」
散る火花に指先を焼かれても尚、阻む光の壁へ爪に力を込める。
ゆっくりと、確実に光りに食い込んでいく爪。
そのまま左右に裂いて入り口を作りだした。
肌を突き刺す火花が内側から吹き出す。
弾き飛ばされそうになる圧力に耐え、光りの中へと身を投じる。
鬼の手が離れた入り口は、瞬時にして閉じられた。
日が昇り始めたばかりの早朝。
朝日に照らされて、生命が目を覚ます。
薄く霞みがかった頂。
渡里が行われたそこには、小さな若い桜の木が立っていた。
「主の交代は無事行われた。しかし、幼い桜は邪にとって滑降の餌食。数年は境界を張っておく必要があるだろう」
早朝の冷たい空気に満ちた静かな一室。睦月と老巫女は向かい合い、座っていた。
睦月は懐から珠を手にして、老巫女へと差し出す。
「こちらは……?」
「護符だ。桜の側に祠を立て、納めておくと良い」
「お心遣い感謝します」
その後、老巫女は吹雪の事を話してくれた。
三十年前の雪の降った翌朝、村の外れで行き倒れていたらしい。
記憶を失い、行くあてもなかった彼を当時の巫女が引き取り、吹雪と名を与えた。
その年の春。邪によって汚され、桜が朱く染まる現象が起きた。
村の者達は吹雪が邪を連れてきたとして責め立てた。
巫女らが桜を守る事に苦難していた時、自責の念にかられていたのか、吹雪自らがその身を犠牲として捧げる案を提示した。
三日目の朝。
睦月と葵は白狼に跨り村を出た。
帰り道にはあの山脇を過ぎる必要がある。
そこへ差し掛かった頃、道の中央に人が立っていた。
艶のある黒髪を束ね、左手に刀を携え、古びた衣を着た青年。まっすぐと睦月を見つめる。
睦月は警戒する葵に視線を送り、白狼を立ち止まらせると前に出た。
「僕も連れて行って下さい」
暫しの沈黙を先に破ったのは青年。
「何故?」
「貴女を衛りたい」
迷いもせず、青年は問いに答えた。
睦月の唇が弧を描いて更に問う。
「それは桜の指示か」
「……はい。ですが、僕自身の意志でもあります」
「そうか。だが、我には既に優秀な近衛が居る。其方は彼等よりも優れておるか?」
刀を交えた一夜。勝てなかった一戦を思い出し、青年の瞳が少し陰る。
睦月は止めていた白狼の足を歩め、黙った青年の脇を通りすぎる。その後に葵が続く。
「彼等よりも強くなれる自信があるのであれば、付いてくるが良い」
青年は振り返り、睦月の背を見た。
驚きを隠せずに呆けた顔をして。
「丁度、葵の弟子枠も空いておるしな」
「睦月様ッ」
葵は抗議の声は聞き流され、歩みを止めて振り返った睦月の表情は笑っていた。
―其方の名は?
―吹雪。吹雪桜です
投稿テストも兼ねて、2004年くらいにホームページで公開していた作品を、添削せずに掲載しております。
造語が激しいです。
三話までしか書いていない未完の作品の一話。
いつか終りまで書いてみたい作品ではあります。
ここまで読んで下さり、ありがとうございました。