第24話 見るんじゃなかった
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「渋沢様。『加賀兆』においで頂き誠にありがとうございます。女将の慶子と申します。」
山田社長がテーブルの上のボタンを押すと待機していたのか襖が開けられた。女性が畳の上に正座し深々と挨拶した後、面を上げる。中々の美女だ。隣の紫子さんも視線が釘付けでそっと俺は視線を戻す。紫子さんよりも若干若い女性はすぐに嫉妬の対象になるのだ。気を付けなければいけない。
「ここが首相夫人お薦めの『加賀兆』なのね。床の間の掛け軸も素敵だけど、その前に活けてあるお花も斬新かつ色バランスに優れているわ。こちらは女将が?」
流石に社交界では顔の広い紫子さん、首相夫人とも知り合いなんだ。改めて凄い女性と近しい関係になったものである。掛け軸に視線を移すと水墨画と日本画の中間のような、それで荒々しくも繊細な線描がなされている。
「『新利休流』に師事させて頂いております。」
さらにその隣に活けてある花が凄い。どういったバランスになっているのか不思議な感じがする。名前からすると千利休に関係するところなのだが前世では茶道しか無かったはずだ。そんなに詳しくは無いが華道で利休を名乗った流派は無かったと思う。
「それでここは茶室が備え付けられているのね。後で点てて頂けるのかしら。」
紫子さんが手首を振って、お茶を点てる真似をする。
「ええご希望でしたら。」
女将さんは茶道も出来るらしい。何から何まで京懐石の女将さんは大変だ。
「それに能登のお料理を頂けるのですよね。楽しみだわ。」
加賀と言えば日本海側だ。日本海の海の幸を京懐石で頂ける。とても贅沢な感じがする。
「お伺いしております。本日は加賀会席『宙』となっております。こちらがお品書きでございます。」
女将は懐から紙を取り出すとテーブルに広げてみせる。だけど懐にはまだ紙が入っている。複数枚用意したら各人に渡しそうなものなのに何故だろう。
テーブルの下で紫子さんに腕を抓られる。失敗した女将さんの胸を注視していると思われたらしい。何をやっているんだか。
「山田様。お飲み物は如何いたしますか?」
女将さんは自然にお酒の注文に移る。こちらの様子には気付いていないようだ。
「俺はいつも通り、純米大吟醸の『もっきり』とおすすめの純米酒にします。」
「あら。日本料理店で『もっきり』とは珍しいわね。」
あー痛かった。ここでようやく抓った指を離してくれた。『もっきり』という言葉に引っ掛かったらしい。俺はその言葉に助かったようだ。だけど俺も知らない言葉だ。紫子さんに年の功とか言ったら叱られそうなので黙っていることにする。
「俺が貧乏性なだけですよ。どうしても料理が進んでくると大吟醸の1合とっくりだと持て余して残してしまい次のお酒を頼んでしまうので女将に頼んだところ、お祝い用の漆の升にガラスの器を載せて女将みずから酌までして頂ける演出付きで1合とっくりと同じ値段だったかな。」
俺が疑問に思っていたのを見抜いたのか山田社長が詳しく説明してくれる。なるほど酒蔵などにある升酒をやや上品にしたものらしい。
「もう社長ったら。一升びんから器ギリギリまでお酒を注ぐのは難しいのよ。100回くらい練習したんだからね。・・・あらごめんなさい。女将のセリフじゃなかったわね。」
何か水商売臭いが飛び出してくる。この女将、昵懇の間柄っぽい。山田社長は嫌な顔をしていると一方通行みたいだ。
「へえ一升びんからじゃあ私も同じものを貰えるかしら、大葉くんも同じでいいよね。後は白ワインがいいわ。銘柄は何があるのかしら?」
部屋に備え付けられたタブレット端末を取りに行った女将さんが紫子さんに手渡す。紫子さんはとにかくワインに詳しい。白の砂糖水のような甘すぎるワインから魚料理に合うものまで、良く付き合わされるのだ。
「ワインはこちらからお選びください。」
逆に俺はぜんぜん詳しくない。紫子さんに任せておくのが正しい。料理に合ったものを選んでくれるに違いない。ただ横目で覗き込むかぎり、料金が気になる。いや高いのだ。まあこういった高級料理店なら普通かもしれないが庶民の俺には絶対に無理だ。
「後で詳しい説明をするがマンションの部屋からも同じようにワインサービスを受けられる。」
このタブレット端末がマンションの部屋に置いてあるらしい。俺には怖くて手が出せ無さそうだ。まあ頼むのは紫子さんだろうし、一緒に飲んで欲しいと頼まれれば気にならない。だけど彼女との記念日に1本くらい頼みたかったけど無理そうだ。
「ホテルのルームサービスのように?」
ここまでくると別世界だ。いくら宝くじで金を持っていてもこんな使い方は出来そうにない。ちょっと情けなくなってきた。あるところにはあるものだ。
「ああ事前予約すれば『加賀兆』の松花堂弁当も頼めるはずだ。」
料理も届けて貰えるらしい。バンケットルームがあるということならば、あらゆる料理が用意されているに違いない。
料理が並び始め、『もっきり』と呼ばれる日本酒がなみなみと注がれる。
「おおっと失敗しちゃった。代わりを持ってくるから待っていてね。」
俺と紫子さんのグラスには表面張力ギリギリまで注がれたが、山田社長相手は緊張したのかお酒が零れる。
「女将。これでいいよ。」
山田社長はグラスを持ち上げてみせる。グラスの底から零れ落ちるほどでは無い。グラスの横に流れが見られる程度である。1分くらい待っていれば1滴くらいは落ちるかも。
「そうはいかないの。お客様がグラスを持ったときに底から滴り落ちるなんてありえない。この店は接客業じゃないから、傍についていてグラスを拭くなんてできないからね。」
やっぱり水商売出身のようである。傍についてグラスを拭くこと自体、そこそこ高級なバーに行かないかぎりやらないだろう。
「それ陽子ママのルールだろ。銀座には銀座のルールがあるようにこのマンションのプライベート空間にはプライベート空間なりのルールがある。そんなに肩肘張っていては楽しめるものも楽しめないだろ。」
イライラするように山田社長が言い放つ。キツイ物言いだが山田社長にとってはサービスする側なのだろう。




