18時限目 表と裏(3)
耳元でひそひそ声が聞こえる。その声は鳴り止まずに、頭の中で反響して、彼女の心を締め付けていた。
「ごきげんよう、マキネス(相変わらず陰気な面ね)」
「その服、可愛いわね!(とりあえず、ごきげんとってあげなきゃ。サイレウスの一人娘だものね)」
マキネス・サイレウスの世界には表と裏が存在していた。
朗らかな笑顔。耳に優しい言葉。丁寧なお辞儀。そのどれもが嘘で、マキネスにとっては全てが裏だった。
友人も、教師も。
「良いんですよ、サイレウス。ゆっくりできるようになれば(どうしていつまで経ってもできないのかしら。本当にグズね)」
「優れた治療魔導の守り手ですもの。強い力を持っていることの表れですから、何も心配しなくて良いんですよ(気色の悪い魔導。同年代どころか、年下にも遅れている。サイレウス家の人間とは思えないわね)」
あるいは家族さえも。
「マキネス、本当に可愛い子(どうして、この子はいつまでたっても成長しないんでしょう)」
「サイレウスの魔導は代々受け継がれてきた。お前もその一員になれることを誇りに思うと良い(本当にこの子は私の娘か?)」
年が経つにつれて、その裏は表になり、皆が見せる態度は徐々に辛辣なものになっていた。サイレウスとは思えない落ちこぼれ。貴族学校に入学して、その評価はますます確実なものとなり、辺境の『ナッツ』クラスにまで落とされた。
誰しもに見捨てられ、絶望したマキネスが耳にしたのは今までとは違う裏の言葉だった。
「初めまして! 私はリリア・フラガラッハ!(わぁ、緊張するなぁ)」
「僕はシオン・ルブラン(男だってバレていないよね)」
「ミミはただのミミだニャ(おなかがすいた)」
「……俺はイムドレッド・ブラッド(変な奴らばっかだな)」
この場所は心地が良かった。自分と同じような境遇のクラスメイト。表も裏もなく、ただのマキネスとして接してくれる数少ない友人。彼女は耳元で囁く声を気にすることすらなくなっていた。
「雨……」
マキネスの鼻の頭に水滴がつく。そのあと、すぐにサァアアと音が鳴って、木々の間からスコールが落ちてくる。
フジバナから逃げて森の奥まで駆けたマキネスは、すでに自分でのどこか分からない場所まで入り込んでいた。分厚い雨雲に覆われているせいで、森は夜半のような暗黒に覆われていた。
彼女は近くにあった大樹の幹の隙間に入りこんで、身体を丸めて座った。ほろりと涙が一滴、彼女の瞳から落ちる。
「……くそう……」
悔しかった。
何もできない自分が悔しくて、同時に恐れが湧き上がっていた。マキネスの頭の中には先日のリリアとブラムの決闘のことが浮かんでいた。
(リリア……すごかったな。きっともっと強くなるんだろうな)
あの戦いで彼女は確かに一歩前に進んでいた。フラガラッハとしての力を解放して、ブラムにすら引けを取らない力の片鱗を見せた。
……その点自分はどうなんだろう。彼女がそう不安になるのは当然のことだった。心地の良い場所に慣れすぎてしまって、自分が一歩も進めていないことに気がついてしまった。魔導の腕はもう何年も上達していない。
彼女の頬から再び水滴が伝う。
私は何一つできない落ちこぼれだ。リリアにも、シオンにも、ミミにも劣っている。落ちこぼれの中の落ちこぼれになってしまっている。
「怖い……怖いなぁ……」
このまま落ちて取り残されることが怖かった。
そして何よりも、彼女たちからあのひそひそ声が聞こえてくるかもしれないことが怖かった。いつの日か、そう遠くない未来、彼女たちはきっと私を見下すだろう。そう思うと、マキネスは自分の情けなさに耐えきれなかった。
(いつまでも成長しない……とか)
雨はどんどん激しくなっていた。足元に水たまりがたまり、森は徐々に夜の世界へと変わっていた。ふくろうの鳴き声と、獣がすぐそばを通りかかる音が聞こえてきた。
マキネスは一人、佇み続けた。いつまでこうしているのかは分からなかった。ただ彼女たちに会うのが怖かった。もしあの声を聞いてしまったら、もっともっと孤独になってしまう。マキネスは自分の涙を抑えることができなかった。
「……寒い」
コートの裾をぎゅっと握る。
スコールは止まなかった。葉の隙間から落ちてくる雨が、彼女の服を濡らしていた。黒い髪からつま先までずぶ濡れになって、凍えるような寒さがやってきた。意識がぼんやりとしてきて、やがて眠気がやってきた。
(誰にも見つけられなかったら、私はここで死ぬのかもしれないな)
身体がだるく、考えることすら億劫になってくる。マキネスは足を動かすことができなかった。叫び声をあげることすらしなかった。深い諦めが彼女の心を覆っていた。
目を閉じて、彼女は幸福な夢を見ることを願った。ひそひそ声も、裏も表もない世界。私がみんなと同じところにいられる世界。
それはきっと私にはもう二度と、手に入らないものだ。マキネスの心は暗い方向へと、深く沈んで行こうとしていた。
「……マキネス」
誰かが彼女の肩を叩いた。
彼女の目を覚まさせたのは、呆れたような男の声だった。
「おい、マキネス。起きろ」
彼女は泣きはらした目で男の姿を見た。血の気が引いて青くなった唇が、彼の名前を呼んだ。
「ダンテ……せんせい……?」
「……ったく、こんな奥まで逃げやがって。探したぞ」
ふっと息を吐いたダンテは、彼女にオレンジ色のレインコートを手渡した。




