統制社会の革命記
松西健司、年齢三四才独身。
彼の身に起きた事態を端的に述べると、人助けをして社会的に抹殺されたのだった。
事件を一から順に説明しよう。
ある激戦の日々から一年も経たぬ日の事だった。松西は職場から追い出された。窃盗による懲戒免職、身に覚えのない蛮行を理由にされて抵抗しないわけがなかった。
しかし、強大な権力に抗えるほど強くなかった。一二年間完璧に勤め上げた組織に裏切られた松西は失意のまま故郷へ向かった。海外からスカウトの声も掛かったが、松西にとってみれば日本という国以外での仕事は考えられず蹴った。
退職金もなく、職もなく。そして頼りたい両親は五年前に逝去していた。
いっそ、来世に願いを託して電車に飛び込んでやろうか。
電車を降りて改札口を降りた頃にそんな軟弱な願いが脳裏によぎったが、本気でやる気は毛頭なかった。
そんな思いが脳内で渦巻く中、駅のホームで一人の女性が目についた。
好みのタイプというわけではない。ただ女性は見るからに息が荒く、胸部を抑えていて今にも倒れ込みそうだ。
松西の推測は正解だった。立ち止まって様子を見ていると間もなく彼女は嘔吐し、直後タイルの上に倒れ込んでしまった。
誰かの命が失われようとしているのに、道行く人々は無関心だった。
そんなにクソみたいな職場が大事か。都合が悪くなれば人を見捨てる組織に何故しがみ付く?
人波に逆らい前進すると、松西は女性を仰向けにして容態を見た。
呼吸停止、脈もない。絵に描いたような心肺停止状態だ。
「誰か、AEDを!」
誰も止まらない。視線を向けたとしても関わりたくないと言わんばかりに目を逸らし、足早に立ち去る。
クズ共め。業を煮やした松西は明らかに視線を逸らした学生の襟首を掴んだ。
「駅員にAEDを頼んでくれ」
直接頼むとようやく駅員室へ向かった。
あとは、救急車の要請と間をもたせるための措置だ。スマホで緊急通報にコールすると、スピーカーモードにして転がし、気道を確保してから胸部圧迫を始めた。
「救急車を頼む! 羅宮凪らぐな電鉄甚目駅じんもくえき。患者は心肺停止!」
オペレーターに問われる前に叫び、ひたすら圧迫に意識を向ける。
何度か胸骨が割れる感触に気付きはしたが、心臓が止まっている状態の方が深刻だ。
「AEDです」
駅員は慌てた様子もなく歩いてきた。松西はいらついたが、怒鳴る暇もない。AEDの電極を貼り付けるために上着のボタンを外した。下着や肌が露わになるが、死ぬよりマシ。
トロい駅員に代わって松西がAEDを操作し、電極を必要な個所に手早く貼り付ける。
「下がってください」
AEDの電流によって、心臓が完全に停止する。ここからの処置が肝心だ。心臓の異常な脈動が停止した今、正常な脈動を取り戻す最大のチャンスなのだから。
そっと息を吹き込み、胸部がしっかり膨らみを確認。
「ううっ」
人工呼吸を終えると、女性が呻き声をあげた。
「蘇生を確認しました。救急隊員を待ってください」
AEDの太鼓判が太鼓判を押すとともに、救急車のサイレンが迫ってきた。
「もう大丈夫だ」
松西は女性に向けて囁くと、救急隊員に引き継ぎを頼むとそそくさとその場を立ち去った。
一週間後、松西のもとに現れたのは警察だった。
容疑は強制わいせつ罪。まったくの心当たりはなかったが、抵抗して容疑が晴れるようなものではない。無実を証明するため、任意同行に応じた。
痴漢の容疑で逮捕された人間に対して、警察という組織は冷酷で冷淡というイメージがある。現実ではどうなのかはまちまちだが、松西の場合警察官は非常に同情的だった。
「あんたは運がなさ過ぎた」
その刑事が語った逮捕の真実は、AEDで救助した女性が『男性に無理やり服を脱がされた』と騒いだというのだ。救急隊員も似たような理由で被害届が出されているという。
「なんで被害届受理したんですか」
「最近うるさいんだよ、男女同権だとかセクハラ撲滅とか……」
AEDによって生じた死亡を犯罪には問われないとの旨を厚生労働省が発表しているが、まさか強制わいせつで訴えるような人間がいるとは想定していなかったのだろう。
だとしても、受理する段階にまでいくとはどうなっているのだ。無理もない話だが松西は警察組織に対して強い不信感を抱いた。
「まあ、明日か明後日には嫌疑なしって事で釈放になると思うから我慢してくれ」
警察という組織は嫌疑なしという理由で容疑者を釈放することを強く嫌う。理由はシンプルで、法の番人が「ミスでしたごめんなさい」と謝罪するような決断を下せば、メンツが潰れるからだ。しかし、今回に限っては松西を拘留し続ける方が世間に対して恥を晒す結果になると判断したらしい。
松西の幸運はこの一点で尽きた。
三日後、刑事の言った通り嫌疑なしを理由に釈放が決まった。それを聞いてよほど怒り狂ったらしく、件の恩知らずは民事訴訟に踏み切った。松西と同時に被害届を提出した救急隊員に対しても、恐らく似たような訴状が届いていることだろう。
前職の蓄えはさほど多くなかったが、やられてばかりではいられず、弁護士を雇って徹底抗戦を決意した。
裁判所の前に集うマスコミと人権団体。驚くことに、人肌を大衆に晒す行為は人命救助であろうと罰されなければならないと考えた人間は少なくなかったらしい。恩知らずが最大野党の有名政治家とカメラの前で仲良く肩を組む映像もメディアで報じられていた。のちに松西は知ったが、彼女は極度の男性不信でフェミニズム団体の重鎮にまで祭り上げられたそうだ。
メディアといえば、まるで松西が女性の服を無理やり脱がせたかのような報道が世間では流れていた。人命救助どころか、AEDの文字が出て来る記事は稀。松西の側で報道するメディアは存在しないといって過言ではない状態だった。
そしてどこで撮られたものとも知れぬ写真によって素性が割られ、素顔が世間に晒された。
元自衛官が強制わいせつ。あとは、ライターの適当な推測と雑な薀蓄が並ぶ記事。そこにエビデンスはない。
これで裁判に勝とうが負けようが、松西健司個人の名誉が地に堕ちるのは確定した。この現代で一度流れた中傷の名誉回復は不可能に等しい。人々は他者の悪事を曖昧に記憶し、メディアは失敗の周知を避けるため聴衆に忘れるよう仕向けるからだ。
終わり良ければすべて良し。裁判に勝てば良い話なのだが、不幸な事に裁判には負けた。
退職間近の裁判官は一体何を考えたのか、男性が女性に対してAEDを使用した場合、強制わいせつで賠償金支払いが命じられる判例を遺してしまった。
日本に善きサマリア人の法が存在しなかった弊害であり、その否定でもあった。
控訴すれば破産してしまう。松西は敗訴という事実を受け入れざるを得なかった。
あらゆる物理的困難を突破してきた元自衛官のエリートも、古巣である自衛隊と同じく財政事情が最大の弱点だったのである。
三千万円の賠償金と弁護士費用。口座の預金は消し飛び、残ったのは趣味として宿舎から持ってきたフィギュアやアニメのディスクに、ゲーム類とパソコン程度。
やはり、つまらない意地を張らずに海外のスカウトに応じるべきだったのだろうか。
そんな事を考えながら各務町郊外の実家で寛いでいると、不意に松西は外で動く気配を感じた。
足音を殺してはいるが、足音が持つ重量感と装備が擦れる音からして窃盗団の類ではなく、完全装備の一団と推測できた。
この手の仕事をするのは警察の特殊部隊だ。だが、なぜここにいる?
松西が床に伏せるのとほぼ同時に玄関と部屋の窓が破られた。
「特警だ!」
予想と少し違う名が、松西の耳に飛び込んできた。
特別警備隊、国家公認の傭兵集団だ。まさか警らだけでなく、突入作戦に耐えうる人材も揃えているとは。
規則正しいブーツの足音が家中で鳴り響き、即座に松西の両手はプラスチック手錠で拘束された。
「青少年育成保護法違反により逮捕する」
政治家とミーイズムの犠牲となった松西に、続いて曖昧で不透明な法律が牙をむいた。わずか三日前に施行された法律は松西に罰金刑を言い渡したのだ。
つまり泣きっ面に蜂。口座の預金を個人に奪われたところで、今度は国家が奪いに来たのだ。
ギリギリ六ケタの預金で多額の罰金を支払えるわけもなく、家財一切は差し押さえられた上に、半年間の労役場での労働も強いられた。
労役から解放された頃には家の中はがらんとしていて、PCはもちろんテレビさえ残っていなかった。耳鳴りが響く静寂の中にある文明は、冷凍できない冷蔵庫と一〇年ほど前に買い換えた電話程度のもの。
差し押さえを担当した者の温情か、かろうじて残っていた二万円のPCチェアに腰かけた。レザーの柔らかい感触が背を包む。久々の安堵と共に、消えかかっていた松西の心に炎が宿った。
「ふざけやがって」
俺は国のために戦った。その仕打ちがこれか。自衛官として戦った一二年間はこんな結末を迎えるためのものだったのか。
溶岩のような怒りが松西の体内を駆け巡った。日本という国は嫌いではないが、巣食っている寄生虫共や、その生存を後押ししている政府をぶち壊さなければならない。
一見その場の思い付きのようにも見えるが、彼は本気だ。自衛隊の訓練と座学で学んだ知識をフル活用し、思案した。
組織を破壊する方法を。国家を破壊する方法を。
最初の一歩はクリア。あとは、千里の道を共に歩む仲間だ。
同志を募るため、古い電話の受話器を手に取った。




