地下牢の恐ろしき魔女
御屋敷の中庭、庭園の木々が並ぶ隅にある古びた枯井戸を覗けば木製の梯子。
水こそないが、地中の湿気で蔓延り漂うかび臭さに鼻を摘まみたくなる程。だが生憎。左手は梯子、右手には夕餉を詰めた重箱の風呂敷包みを抱えているので、踏み外し井戸底へと落ちずに限りなく急いで梯子を下る日課。
壁を石組みで出来た立て穴の井戸の底は僅かに広がり御屋敷の居間の方角、南向きに
屈めば潜れる程の重厚な隠し扉があり、その扉を開く前に一度呼吸を落ち着けて――
「失礼致します……魔女様。本日の夕餉をお持ちしました」
屋敷の主より渡された、手垢と長い時間経過で黒くさび付いた鍵。
その鍵で解錠した扉の向こうに居るのは、何時も変わりなく艶めかしい銀髪、とてもふくよかで男の視線を釘付けする胸・肉付き、そしてその肉体から漂う甘く魅惑な香り。気を抜けば、襲うか引き込まれてしまいそうになるであろう男ならば……だが。
「今、御側にお持ち致します、よろしいでしょうか?」
側に寄るための了承を取る。いつもと同じ何度も繰り返される同じやり取り。
彼女は恐ろしく近づきがたい存在なのだ、だから了承を得てから近づく。こちらの問いかけには、何時もと同じように『えぇ、頼む』と彼女はまた答えるのだが。
「では、失礼します」
出来た始まり、数百年という年月は経っているだろうこの地下空間。今では地面に穴を掘られただけの土壁の洞窟から、強固な鉄筋コンクリートで表面を覆われた地下牢というべきか。それでも、近所周囲の人目を避け極秘裏に造られたこの地下牢は、浸透した雨水や風化により壁は所々剥げ落ち鉄筋はさび付き、入り込んだ蜘蛛の巣や埃で煤け、照らす炎の灯籠灯りで些か不気味である。
だが、それ以上に不気味で恐ろしさを抱かせるのは……。
「済まぬが、今日も食べさせて貰えるかな」
彼女は体が思うように動かない、それもそのはずだ。
地下牢四隅の柱と彼女の四肢に絡まる鎖はもとより、背中や胴体に貼られた朱色の紙に黒字で描かれた無数の札、背後には仰々しい神仏の掛け軸と彼女の穢れを清め払うという鏡やしめ縄・鈴などの神具。しかしそれら何より目に入り足を竦ませるだろうは、胸の谷間に深く背中を突き破り刺さり、柄が折れ炎が刀身に揺らめき浮かぶ太刀。
そうして半身が浮き上がるように正座させられ身を封じられる魔女。項から下胸に向かって刺さった切っ先から滴り続ける澄み切った赤い血だろうか、それは滴り床に深く刻まれ描かれた円形の魔方陣という図形に吸収される様にして血だまりになる前に消えていく。いつからこんな状態になっているのか知るよしもないのだが、吹き出しきらず、傷口が塞がる事もなく、和すかに滴りながらずっとすっと彼女は血を流し続ける。
そう、彼女は不老不死の魔女なのだ。
『殺すことは出来ぬ、だが生かして野に放つことも出来ぬ。よいか、お前達は彼奴を監視するのだ、生かさず殺さず。そして決して誰にも口外してはならんぞ』
この御屋敷の主は従者である自分たちに、半ば呪いの言葉のように言いつける。ただ少なくとも彼女をこうして地下に幽閉することは、代々のこの御屋敷の主にとっては当たり前のことで、それによって莫大な財を得ていると従者達は噂していた。
そんな従者の一人である自分の仕事は、この魔女様に夕食を運ぶ事。手足が思うように動かない彼女に、自分が箸を使って食事を口に運んであげること。それが毎日、毎日同じように繰り返される。だが最近では、この屋敷に仕える者達は彼女を恐れ恐怖し、密かに逃げ出す者が後を絶えず、今では自分は朝夕版と3食食事を出す事になっていた。
ただこんなにも異様な姿を見たのならば、逃げ出した他の仲間達が世間で風潮する噂話を聞いても良さそうなのだが……新たにこの屋敷に連れられてこられる従者達から一度もそんな話を聞いたことは無かった。
「ふむ今朝も、昼も、そして今夜もお主か」
「すみません。新人がまた逃げ出したようで」
魔女様ももう慣れた様子で特に呆れる様子もないが、最近では頻繁に何度も顔を合わせる自分に気安く声をかけてくる。恐怖もあるが、雑談を挟みながらの食事の介抱ももう慣れたものだった。
「主も相当に律儀で忠実な男であるな、役目とはいえ我が恐ろしくはないのか?」
「貴方が恐ろしい?」
「確かに暗く幽霊でも出そうなこの場所、その滴り落ちる鮮血は確かに恐ろしくありますが……生憎私は魔術や神術には疎く、それらはきっと何か意味があるのでしょう? それに、貴方様自身に一度たりとも恐怖を感じたことはありません」
「貴方はこれまで叱咤し、拳を付け揚げ、私に一度でも触れたことがありましたか?」
魔女様は過去を振り返り、指先と目口以外で僅かに自由の利く首を左右に振って体で否定を示す。私がこの地下牢で生きていた長い時間の中では、たかだか10数年を過ごした余りではあるが、確かに初めて対峙してから今に至るまで一度たりとも恐怖で顔を歪めたことは無かったと、鮮明な記憶から思い出して。
彼女自身、まだ外の世界に居た頃から考えても一度も自分自身を恐れない男、そのことに今更に気付かされた魔女。変わった男。
「では聞くが、お主は一体何が怖いというのか? 聞かせてはくれないかな?」
屋敷の地下に幽閉されて以来、思い起こせば不死ではるこそ痛みは感じる肉体に何と残虐で悍ましい行為をされ、殺意と恨みもした百年、二百年を越えるうちには次第に痛みそしてあらゆる感覚。やがては、ニンゲンの行為に対し何の感情も抱かなくなり、代替わりするニンゲンに興味など何一つなくなっていたのだ。
魔女は久々にニンゲン、この男に対して興味を抱いていた。
ここまでに至るに、どんな恐ろしい物を見てきたのか、一体何と答えるのか?
「怖い物ですか。そうですね……」
顎に手を当てて考える。何が怖いか?
「僕は雇われの身ですから……ここの主が怖いです。ん……いや。この御屋敷に仕える従者方々がみんな怖いです。鈍くさい僕はよく怒られますから、怒られるのは怖くて…………あッ」
「けれど、一番怖いのはあの。家で待っていいてくれる許嫁の……あッ、これは秘密でした。誰にも言わないで下さいお願いしますっ。でないと、ここで働けなくなってしまします。それだけはどうか――えっと魔女様?」
いつの間にか静まりうつむく彼女は、誰かに似て少し恐ろしく思えた。
相手は人の命など道ばたの石ころ程にも思わないという、そんな魔女を怒らせてしまったとしたら――。
「ッッつ。ふッははっはははははぁはは~~!」
魔女は突然声を上げ、お腹を抱え今までに見たこともない様な抱腹絶倒な様子で笑い転げている。その余りの可笑しさに、激しく上下するお腹が吊って痛みを感じる程、心の奥底から吹き出す可笑しさが止めどなく溢れるのだ。
何故そんなに笑っているのか、キョトンと首をかしげたまま硬直してしまう。
「ふひッ、ふくくくッ。くはッー……はぁ、はぁ。そうか、そうかお前は怒られるのが怖いのか。ふッはは」
「そんなに可笑しなことでしょうか? 魔女様も怒られるのは怖いことでは、違うのですか?」
魔女様は首を一度、左右に振ったあと僅かに間を置いて今度は縦に首を振る。
「いやいや。しかし、確かにそうであるのだろうな。お主にとってはそれが恐怖か」
「ふむ、親身に怒られたことがない我には決して理解し得ることが出来ないだろうが……。だが主のその声に言葉で多少の理解は出来た、感謝するぞニンゲン……ふッはは、そうだ名はなんと申すのだ?」
「おっと、何を気にすることはない。真名を名乗るのが嫌と言うのならば主の好きな呼び名を名乗ればよい。名を使い、魔術で陥れるつもりはないからな」
日々の仕事として、食事を運んだ時々にたわいの無い会話をしたりするのだが。自分の名前も魔女の名前も一度も聞いたり名乗ったことは無い。
何故ならば、屋敷の主より魔法を使う魔女にとって真名を知られることは禁忌だと、何度も注意忠告されていたから。もし知られれば、幾ら力を封じられた魔女であってもその姿や声を聞いただけで精神を支配される。末には封じられた手足に変わり操られ封印を解き、その後も永劫に渡って従者にされると。また従者達が囁く、魔女の名をしればその魔力に当てられ狂ったように幻惑を見続けるなんて噂も。
けれど、果たして目の前にいる魔女は本当にそうなのだろうかと男は思う。
「どうした、ここにきて真名を言うのが怖くなったか? んん?」
「いえ決してその。では、私の名前は――」
それでも多少なりとも忠告を受けていただけに、意を決して真名を言いかけたその時。
魔女は手を拘束された体を撓らせるように揺らし、僅かに手首を上下させ手の平で床を叩く。
「いや、良いぞ。怖がれ、怖がるがよいぞぉふくくッ」
「まぁそこに座るのだ。ほれほれ、たっぷり聞かせてやろう。この座敷牢で我が受けた血肉裂け涙も涸れる悍ましい仕打ちに、まだ我が外界にて魔術で好き放題暴れ回った懐かしいあの頃の話などな」
「なに、朝まで時間などたんまりとあるだろう。朝日が登るまで、身の毛もよだつ怖い話をしてやろう、覚悟せいよお主ッ泣いて喚いても知らぬゾ。ふッくはははー」
先ほどまでの含みを持った高笑いとは違う、無邪気でちょっと人を馬鹿にしたような子供っぽい笑い声。男にとって初めてみる魔女のその様子はとても新鮮で、封印のための神具や痛々しい姿も忘れてしまうような姿に思えて。だから魔女の話す怖い話が、思わず面白そうと興味深く思えてしまって。
持ってきた食事の入った重箱を押しのけ、前のめりの姿勢で魔女の直ぐ前に男は胡座を描いて無作法に座る。
「心の準備は……大丈夫ですよ。さぁ、どうぞ!」
「あぁ、では始めようかのう? 我、魔女の怖い話をな!?」
幽閉魔女と従者の男、二人だけの地下牢会談話は夜明けまで続いたとさ。