追憶
2011年の春ごろに書いたもの
気が付くと僕は浜辺に立っていた。
潮の満ち引きが、浜辺の砂をさらっていく。風はかすかに生臭く、暖かい日差しと共に吹き抜ける。波の音は揺りかごのように穏やかだ。空は晴れ渡り、雲一つない。透き通るような空の青色は、海と水平線の彼方で混ざり合う。
目の前には薄暗い森が広がっていた。針葉樹が生い茂り、光も遮るほど葉を伸ばしていた。静寂に包まれ、何一つ聞こえない。土の匂いや、葉の青臭さが漂ってくる。砂浜や天候から、熱帯系の葉の大きな植物を想像したが実際にあるのは杉だった。僕の住んでいる町にも数多く植えられている。
なぜここにいるのだろう。朝、寝不足で体を引きずるように、学校へ行くため家を出た。五月病と思われる憂うつな気分は中々晴れることが無く、ぼんやりと歩いていた気がする。僕は通学路の途中にある交差点を渡ろうとして、そこから覚えがない。
「あれ? あなたは地元の方ですか?」
波打ち際を女性がおぼつかない足取りでやってくる。紺色のジャージを着て、左手には透明な液体の入った瓶を持っていた。黒く肩を覆う髪は乱れに乱れ、海藻を被ったようだった。なぜか背中にはくたびれた赤いランドセルを背負っている。
「いえ、違います」
「そう。私も違うのですよ。気付いたらここにいたの」
そう言い、座り込んだ彼女は瓶に口を付けた。
「ぐほっ……。あー、慣れないなー」
彼女は瓶を傾け液体を口に含むたび咳き込んだ。髪の間からのぞく彼女の白い頬と顎に、僕は目を奪われた。暑いのかそれとも酔っているのか、顔全体に赤みがかっていた。
「飲みますか? ウォッカと言うロシアのお酒らしいですよ。匂いとか味はしないの。だけど、すごくきつい」
「あ、未成年なので」
「奇遇ですね、私も。何歳なんですか?」
「十七です」
「あら、またまた奇遇」
飲酒はあまり良くないのではないだろうか。しかし、僕も飲んだ事があるので人の事は言えない。
「ここさ、孤島みたい」
「孤島?」
「波打ち際に沿って歩いたの、歩き初めに印を付けて。ほら、あれ。そしたら、一周しちゃった」
彼女の指さす先には流木を十字に組んだ物があった。
「さっき、気付いたらここに居たって言ったよね?」
「うん、気付いたらね」
「僕もなんだよ。朝、学校に行こうとしたら、ここに居た」
「気が合うのかしら、私たち。前にどこかで会った?」
小首を傾げ、彼女は微笑んだ。
「どうだろうね」
今一度、僕は彼女の顔を眺めた。頭の隅で何かが引っ掛かる。もどかしさを抱え、考えれば考えるほど収まりが付かなくなっていった。
それにしても、微妙に会話が噛み合わない。
「なんでここに来たんだろう」
僕は砂に埋まった貝殻を足で掘り返しながら言った。
「私の予想だと、ここに居るのは死んじゃったからなのかもね。……う、げほっ」
彼女が好きで飲んでいるのか疑問が湧いてきた。苦々しげな表情は、嫌々飲んでいるのではないか、と思わせた。
「死んじゃったから?」
「そう、死んじゃったから」
「うーん。まぁ、考えられなくもないか」
「でしょ。死後の世界、もしくは生前を振り返る場所なの」
僕の心は不思議と落ち着いていた。自分が死んでしまった、それが本当かどうか分からない。仮に死んでいたとしても、僕は自然に受け入れることが出来る気がした。
「死んでいるとして、僕は登校途中の交通事故かな」
「そう……。私は、えーっと、くうせい? くるせい? きゅるせい?」
呂律が回っていない。
「急性?」
「そう、急性。急性アルコール中毒。お酒の飲みすぎ」
瓶の口を持ち、軽く振ると中身が音を立てた。
「あまり飲んだ事無いの?」
「うん。初めて飲んだ。まずいのね」
「なんで飲んだの?」
「ん、ちょっとね。うーん、まあいいか。隣に来て。人と話したい気分なんだ」
彼女は砂をなで、僕を座るよう促した。
「普段はさ、嫌なんだけど酔っているからかな。おかしい」
小さな笑いは連鎖し、最後は彼女自身で止められないほど笑い転げている。落ち着いてくると涙を拭き、彼女は話し始めた。
「私ね、色々忘れたくてお酒飲んでいるんだー。家にあったの。たぶんお父さんのね。誰も居なかったから、貰っちゃった」
悪戯っぽい笑みは、いまだ残る彼女の幼さをより一層引き立てた。
「と言うのもね、私お薬飲んでいるの、せーしんあんてーざい。でもね、二年くらい前に大量に飲んで病院に運び込まれちゃった。それから薬の量を厳しく制限されちゃって、困っていたの」
「ああ、だからアルコール」
「うん、気持ちいい。頭がぶわーってなって、体がふわふわする。最近は毎日、毎日、部屋に引きこもってさあ……、ごめん暗いね」
「いいよ。気にしないから」
僕の彼女への既視感が高まる。聞いていれば何か分かるかもしれない。
「じゃあ、話すね。私半引きこもりなのですよ。高校には入学しているけれど、ちゃんと行ってないの。カーテン閉めて日にも当たらず、本ばっかり読んでいる。勉強は家でやって、問題なくついてけるけど、出席日数が危ないな。高一の時はギリギリだったし。もう疲れた。外に出るのが怖いよ」
「いつからそうなの?」
「興味ある?」
「少し」
彼女は瓶を置き、手近にあった細い木の枝を拾った。何やら砂に書いているようだが、丸や四角、取り留めもないものばかりだった。
「小学校五年生の頃だったな、最初に登校拒否をしたのは。元々、コミュニケーション能力に欠けているみたい。四年の春休みに転校してからますます加速してね。話しかけられても続かないし、遊びに誘われても断るし。ま、調子の良い時期もあったんだけれど」
「何で? 嫌だったの?」
「よく分からなかったんだ。私に話しかける意味も、誘う理由も。人が集まればそれだけ疲れるのに。想像つかないでしょ、孤立している私を」
「確かに」
「まあ、そんな訳で、周りの子から嫌味言われたりハブられたり、ますます学校に行くのが嫌になったんだ。そんな感じかな。面白くも何ともない話」
彼女はゆっくりと立ち上がり枝を握りしめ振りかぶった。そのまま投げられた枝は海に沈んでいった。顔にかかった髪がふり払われ、端正な顔立ちが露わになる。黒い瞳、長いまつ毛、決して高いとは言えないが小さく品の良い形をした鼻、薄く小さな紅色の唇、端々からのぞいていた白い肌。どれだけ身なりが乱れていても、元が良い人はそれなりの美しさを保てるのだろう。
「ところでさぁ、あなたは何でランドセルを背負っているの?」
僕は一瞬固まってしまった。あえて触れなかった彼女の背負っている物を、逆に僕が指摘されたからだ。
「それはこっちのセリフだよ。最初見たとき、触れないでおこうと思って言わなかったけれど……あれ本当だ」
背中を見ると、彼女の言う通り僕はランドセルを背負っていた。幾つか傷が付き、見覚えがあった。これは小学生の頃、僕が使っていた物だ。先ほどまで何もなかったような気がしたけれど。
「あれれ、私のじゃん」
彼女は背中から下ろし振り回し始めた。
「何してんの?」
「中身があるかなぁ、とか思って。からから音がする」
開けると小さな物が二つ、転がり落ちた。彼女は細い指先でつまみ上げた。
「消しゴム……そういえばこれ、返しそびれたやつか。あと、鉛筆も。こんな所にあったんだ」
虚ろな表情の彼女は、懐かしむように使いかけの消しゴムを捉える。
「思い出での品?」
「んーそんな大げさな物じゃないかな。私が周りから浮いていたって言ったよね」
「うん」
「物を隠されたりしてね。ある日、ペンケースごと無くなったの。困っていたら、隣の席の子が貸してくれたんだ。二つあるからって。その子、たまに私が隠されたもの探していると手伝ってくれたり、見つけてくれたりしてくれたんだよ。ふふ、変な子だったな。私なんかにかまって」
彼女は鉛筆と消しゴムをランドセルにしまった。
「ペンケースは戻ってきたんだけど、その子何も言わなかったし、私も引っ越しとかで忘れていた。たまにその子を思い出す事もあったけれど、これの事はすっかり頭から消えていた」
止めていたかのように息を吐き、彼女は手足を伸ばした。
「さっきから、私ばっかり話していてごめんね。あなたは何もないの? 話したい事とか、聞いて欲しい事」
「ああ、うん。そうだねぇ」
僕はランドセルを開けた。中には二つのヘアピンが入っていた。水色の四枚の花弁が付き、玩具のように安っぽい。
これは何だったろう。おぼろげな記憶をたどる。
「女装の趣味があったの?」
僕の手を覗き込み、彼女はそう言った。
「無いよ。これは小学校だった時に渡そうと思ったけれど、結局渡せなかった物だと思う」
「誰? 片思いの人?」
「うん、そうだね」
「お、素直ね」
「昔の事だから」
手のひらで転がすと、日の光を反射して輝く。
「小学校の時に、君みたいな女の子がいてさ。四年生の時に同じクラスになったんだけれど」
「……へぇ」
「プールの授業があった日、放課後にその女の子一人で何か探しているんだよ。話を聞くと、ヘアピンが見つからないらしいんだ。僕も手伝って、最終的に見つけたけれど壊れていてね……」
「で、そのヘアピンを買ったと」
「買ったのはいいけれど、迷って渡せなかった。相手からすれば、受け取る理由はないのだからね」
「プレゼントだ、とか言えば良かったのに」
「僕も考えたよ。でも、君と同じで転校してしまった」
頭の中で形を成さない記憶の断片が、少しずつまとまり、既視感の謎が解ける。彼女はあの女の子に似ていた。
「質問いいですか?」
彼女は手を上げ言った。
「いいよ」
「好きな理由は? あと、今も好き?」
当時の僕を振り返る。しばらくの後、記憶と共に感情も蘇ってきた。胸が苦しくなる悲しさと、懐かしさが僕を満たした。
「あの頃、僕は仲間外れにされるのが嫌だった。だからと言って、誰かと当たり障りのない関係を維持する事も苦痛だった。でもね、僕とは違ってあの子は嫌がらせを受けても毅然としていた。好きと言うより憧れに近いのかも知れない」
僕の胸の苦しさは強くなった。好きな子が嫌がらせを受けていても、助けられなくて自己嫌悪に陥った自分を思い出した。
「強さに魅せられたんだ。考えれば、全くもって平気ではなかったんだろうな。ただ表に出さなかった」
僕は目をつむった。瞼の裏にあの子が現れる。机に座り本を読んでいた。ページをめくりながら、涼しげな表情をしているのが印象的だった。僕は隣の席でちらちらと盗み見ながら話しかけようか悩み、いつも動けない。
「好きかと聞かれれば、どうだろう。ただ、もう一度会いたい。君はどう? 会いたい?」
彼女は顔を伏せていた。手は砂を強く握りしめている。
「私も……気持ち悪い」
飛び上がり、彼女は水しぶきを上げ海へと走り寄る。腹を抱えながら盛大に吐いた。波は彼女の吐いた物を運んで行った。僕は一連の動きを目で追っていた。
ランドセルを持ち上げると、次々に小学校の思い出が浮かんでくる。その大半は転校していった一人の少女の記憶だった。一年だけ同じクラスだったが、僕の小学校生活はそこに凝縮されていると言っても過言ではない。それだけあの子の存在は大きかった。
「いやいや、恥ずかしい所を見られました」
海水で顔を洗い、髪を濡らした彼女は僕の横に来ると仰向けに寝転んだ。
「ああ、すっきりした」
「大丈夫?」
「吐いたら良くなった。まだ酔いが残っているんだけどね」
僕も寝ころんだ。砂の暖かさが背中に広がった。彼女の息遣いが伝わってくる。最初は荒かったが、徐々に落ち着きを取り戻していった。
「あのさぁ」
彼女は太陽に手をかざし、ぽつりと呟く。指先は光を通し、ふやけた赤色をしていた。
「名前聞いてなかったね」
彼女の横顔を見つめると、濡れて頬に髪が張り付いていた。僕は胸の高鳴りを感じた。久しく浮かんでくる事の無かった感情だ。僕の心は干からびており、夏場に萎れかけた植物が水を得たようだ。
「名前は……」
乾いた唇を湿らせた。乾ききってしまい、皮がめくれ始めていた。
「あー、やっぱいいや」
彼女はゆっくりと立ち上がる。
「お互いさ、何となーく予感めいたものがあるだろうけど、答え合わせは少し待ってくれないかな。当たってようが、外れていようが心の準備がまだなので」
髪をかきあげた。彼女のまつ毛には水滴が付いていた。
「それより、あの森に行こうよ」
彼女の細い指先は冷たい風が漂う杉の森を指していた。
杉ヤニの、鼻が通るような匂いが森の中を満たしていた。木々は空を覆い、浜辺の青い空は見えず薄暗い。丈が低く、葉が丸い草が足に絡みついた。小枝を踏みつける度、乾いた音が足裏から伝わる。二人分の重さなので余計に折れやすい。
「ごめんね、私から誘っておいて……」
彼女は僕の背中に居た。素足で森の中を歩いて、怪我させるわけにはいかない。だから、おぶることにした。僕はランドセルを前にかけ、彼女はそのまま背負っている。
「いいよ」
彼女は不思議な程に軽い。ちゃんと食べていないのだろうか。体の端々から骨が当たり、背中が若干痛んだ。
「私、重くない?」
「心配なくらい軽い」
肩の骨が俺の肩甲骨の辺りで擦れた。
耳元に吐息がかかり、耳裏がほんのりと湿る。鼻先まで漂ってきて、アルコールの匂いがした。
「ご飯、ちゃんと食べている?」
「食べたり……食べなかったり……」
僕らは殆ど話さなかった。風音や、木々の擦れる音が異様に響く。森は同じような景色で、どれくらい進んだのか分からなくなる。目的もなく彷徨う僕らはどこへ向かおうとしているのか。
肌寒さが震えに変わり始めたころ、彼女が口を開いた。
「学校には毎日ちゃんと行っているの?」
「行っているよ。たまに休むけど」
「楽しい?」
「別に……」
語る事は何も無かった。朝起きて、学校へ行く。授業が終われば、逃げるようにして家へと帰り、眠くなったら布団に入る。部活は文芸部だが、幽霊部員同然で顔を出していない。そもそも、あの部活自体ろくに活動をしていないはずだ。放課後になると集まり、好きな作家の話でもして時間を過ごしている。僕が居ても居なくても変わりが無い。もしかすると、居ない方が空気汚染されないので有意義な時間を過ごせるのでは、と思う。特に仲が良い友達は居ないので行く意味が無い。
「別に、か……まあいいや」
彼女はため息を漏らした。首筋をくすぐられた。
「本は読む?」
「読むよ」
「どんなの読むの?」
あの少女が転校した後、僕は影響されたのか本を手に取るようになった。いつしか習慣となり、多読というわけではないが月に二三冊のペースを維持していた。ただ、ふとした瞬間にあの少女が浮かんできて、その都度自己嫌悪に襲われた。それでも尚、習慣を止める事は無くずるずる続いている。
思い出せるだけ過去の読書記憶を想起する。しかし、おぼろげな記憶しかない。普段、僕は何を読んでいただろう。本屋で目についた文庫本を直観で選び、読む時も活字を目で追いながら内容は頭に溜まる事が無く、読み終わってしまった途端流れ出てしまう。楽しいかと聞かれれば、自身を疑わざるを得ない。
「決まったジャンルは無いかな」
僕は疲れてきた。彼女の体重で足が重いのではない。口と舌が上手く動かない。人と話す機会に乏しいので、顔が全体的に錆びついている。その内、声が出なくなるのではと感じていたので、彼女が話を振ってくれるのは助かる。
酔いは収まったようだが、会話の波に乗っているようだった。すまないことに、僕は会話に慣れていないため言葉のキャッチボールが円滑に進まない。僕の投げるボールは手からすり抜けて、地面を転がり彼女は拾うのに苦労する。
「開けてきたね」
光が緑葉を照らし、葉の光沢が一帯を明るくしていた。地面の草むらは丈が低くなって行き、湿った焦げ茶色の土が露出する。最後はアスファルトで舗装され草木は無くなり、鉄網フェンスに囲まれたプールが姿を現した。小さな更衣室や道具置き場の屋根はペンキが剥がれ、どことなく時間の流れを感じさせる。
明らかに周囲の景色と合致しない。森林に無理やりこのプールを押し込んだようだ。フェンス越しでも一瞬一瞬形を変える水の煌めきが分かる。プールはしばらく見た事さえなかった。塩素の匂いが懐かしさを助長させた。
「私は泳ぎ、得意じゃないんだよね」
苦々しげに彼女はささやく。
「ね、入ってみよ」
入口はすぐに見つかった。フェンスの一部を切り取り、そのまま蝶番を取りつけたような扉を押すと、錆がこぼれ落ちつつ呻くような音を発した。曇りガラスの付いた引き戸が右側にあり、そこは更衣室だった。左側は高い壁になっており、奥に行くと三段の小さな階段があった。登るとプールへ続き、サイドには緑色の滑り止めがひかれていた。隅には五つのシャワーがあった。レバーを下に倒す形式のもので、簡単に折れてしまいそうな水道管だった。
「あのテントへ下ろしてちょうだい」
彼女はすぐ傍にあった監視員用テントを指さした。濃い影を落としていた。
僕は指示通り下ろし、そのまま座り込んだ。じわじわと冷たさが伝わってくる。一面に張られた水は、入れられたばかりのように澄んでいた。底は水色に塗られており、レーンごとに深い青色のラインが引かれている。水面が動く度にそのラインが歪み、しばらく不規則な変化に目を奪われた。
「綺麗……」
彼女は膝を抱えながらそう言った。
――綺麗。皆がプールに入れば壊れるんだろうな。
一、二、三、四と二人の日直が準備運動の掛け声をかける。五、六、七、八、続いてその他の生徒も続く。僕は監視員用のテントで見学をしている。隣にはあの少女が居た。たまたまその日、二人とも体育の授業を休んで見学していた。僕は朝から下痢で泳ぐ気力が無かった。水面を見つめる少女については知らない。邪魔が入らないこの状況は僕にとって話しかけるチャンスであったが、二の足を踏んで声にならない。
――泳ぐの好き?
僕はやっと言えた。
――嫌い。見ているだけなら綺麗で良いけど。
準備運動が終わったらしく、教師が指示をしながら順番に水中へと入って行く。プールは波打つ。穏やかに日光を反射していた水面が、ナイフのように鋭利な輝きを放った。ばた足をし始め、あちらこちらで白く泡立つ。
――でも、見るなら海の方が綺麗じゃない?
後に狭いプールも懐かしさを思い起こすので、中々に捨てがたいと思うようになるのだが、小学生の頃は別段これと言った感情は持ち合わせていなかった。海は毎年のように家族で行っていたので、広大な海原と小さなプールとを比べてしまった。
――私、海に行ったことないから。
少女の瞳は感情が籠っていない。
――行ってみたい?
――少し。
思えばあれが一番長い会話なのではないだろうか。
「海は行った?」
あの少女が彼女だと決まったような聞き方だ。あくまで答え合わせはまだである。
「さっき初めて浜辺を歩いた。海にも入った。あーあ、綺麗だったのに私が吐いちゃって」
足を延ばし、ぶらぶらさせた彼女は寝転がった。
「お父さんもお母さんも忙しくて家に居ないし。私は家から出ないし。海は行った事が無かったな」
僕はここ数年、家族と海に行かなくなっていた。すっかり外に出ることが嫌になってしまい、多数の人が集まる場所を避けていた。
「それにしても、こんな森の中に何でプールがあるんだろう。深く考えない方が良いのかな」
彼女は目を瞑っていた。
「私は泳ぐの得意じゃないから、毎回休める理由が無いか探してたけど、あまり見つからないんだよ。こういうテントの下で、口を開けて、馬鹿な顔で見学するのが好きだったのに」
彼女の馬鹿みたいな顔を見てみたい。どうやったって、美しい顔立ちが崩れるところは想像出来ない。
「……あ」
僕は小さく声を漏らした。
「どうしたの」
彼女は起き上がった。
水に鱗のような波紋が広がる。風は無い。意思を持っているかのようにうごめく。
「不気味だ」
僕は立ち上がり、全体を見渡した。
不意に動きが止まり、辺りが暗くなる。水面は弱く光りながら、スクリーンに投影された映画のように映像が流れる。音は無く淡々と知らない町が映し出された。
まず、町の俯瞰風景。高層ビルが幾つも建ち、中心から離れれば離れるほど建物の背は低くなり、後は畑や田んぼ、紅葉した森林が広がっている。次第に視点は降下し、街の中へと入って行く。忙しげに行き交う人々を縫うように通り抜け、郊外へと近づく。敷地の広い学校が住宅街の隅にある。映像は校門をくぐった。
「これ、私が通っていた中学」
「ああ、通りで知らないわけだ」
「いよいよ死後の世界みたいに成ってきたね。走馬灯かな」
放課後らしく、帰る生徒や部活動に勤しむ生徒がいた。夕焼けに染まり、職員用の駐車場は影を落としている。
「んー、中学はプラスマイナスゼロ。良いことも嫌なこともあった。大部分は部屋に居たのが多いんだけど」
図書室に入る。隅の席に座る女子生徒が一人。
「私だ。何をしているんだろ」
中学生の彼女は今より髪が短く整えられていた。A4用紙を食い入るように見つめ、微笑んでいる。
「思い出した。これ、二年生の時だ。あれは選考結果だね。私、中学の頃文芸部に入っていて、賞を取ったこともあるんだよー。この時は野球部で言うと、県大会でベストスリーに入った感じだね。私の調子が良かった時期。勉強は嫌いじゃなかったから、家で一人でも出来るし、賞を取れば先生褒めてくれるし。褒められるから書いているわけじゃないよ。でも、やっぱり嬉しいことは嬉しい。ちなみに、私は詩と小説部門ね。詩はだめだったけど」
映像が切り替わる。体育館に生徒が整列していた。全校集会だろうか。中学生の彼女は緊張した面持ちで、校長らしき人物の前に歩いて行く。
「全校の前で表彰されたの。人前に出るのは嫌だから休めば良かったんだけれど、私は全校朝会があるのも知らずにのこのこ登校しちゃった。私だけだったんだよね、表彰されたの。私のいた中学の文芸部は殆ど活動していなくて、廃部寸前だったんだ。何でだったんだろう、コンクールに応募したくなってね。顧問の先生が許可してくれたから送ったんだけど、まさか入賞するとは思わなかった」
彼女は恥ずかしそうに笑った。
「今は?」
「今って?」
「書いてないの、小説とか」
「ずっと家に居るから書いているよ。すごくゆっくりだけど」
「今度読ませて」
「生きていたらね」
自分が死んでいるかもしれないということを忘れていた。
「ここで終わればいいのに」
彼女がそう言うと映像が変わった。林に囲まれた古びた神社がある。人々から忘れ去られた印象を受ける。向こうからブレザー型の制服を着た女生徒が現れた。その中には中学生の彼女が居た。
「中三の秋か」
彼女を取り囲み、何やら話し始めた。音が無いので内容は聞き取れない。
「何を話しているかと言えばね、くだらないことだよ。私が定期テストであの子達の成績を抜いちゃったの。言われたんだ。何であんたみたいな奴があたしより点数とっているのって。受験が迫っているのに成績上がらなくてイライラしていたんだね。私は何も言わなかった。怖がっていると思われて、その後も悪口を沢山言われた。こんなことは典型的すぎて小説でも漫画でも流行らないよ。面白くないもん。だけど、あの子達はそれで気を晴らしているみたい」
僕の横に居る彼女は一切の表情を無くしていた。
「悪口ぐらいなら私は慣れているから良いんだけれど、陰気な嫌がらせがしつこくて」
囲まれた彼女はずっと俯いていた。
「この神社が出てくるってことは、私は相当にまいっている時だ」
四人のリーダーと思われる一際表情を歪ませた女生徒が彼女を突き飛ばした。続いてみぞおちの辺りを蹴る。彼女は胎児のように丸くなり小刻みに震え始めた。
「あの子力加減が絶妙なの。病院送りにならないギリギリのラインで蹴るんだ。痛いけど、痣も傷も出来ない」
数度攻撃を加えた後、四人は彼女を置いて立ち去った。日はすっかり傾いていた。
「調子の良い時期が終わった瞬間だよ。賞を幾つか取って、家で勉強をして成績も上がって、それで終わり。親友が出来たとか恋人が出来たとかそんなことは無かったけれど、私はそこそこ楽しかった。人に褒められるのも悪くないと思えた」
ゆっくりと中学生の彼女が起き上がる。汚れを払落し、おぼつかない足取りで神社を後にした。
場面の転換。彼女の部屋のようだった。暗い部屋の中で彼女は白い錠剤を見つめていた。右手にうず高く積まれ、左手にはコップが握られている。
「一年ぐらい薬を飲んでいなかったから、大分余っていたの。死ぬつもりは無かったよ。というか、死ぬことは出来ないんだ、私の貰っていた薬だと」
中学生の彼女は一度に口へ放り込み、コップに入った液体で流し込んだ。
「ちなみに水だから」
ベッドに横になり、天井を見つめて動かなくなった。
「頭の中がグチャグチャで、どうしたら良いのか分からなかった。あの子達が私にかまうのは誰が悪いからかな。私? そうなの? だったら、私は死んでしまえばいいの? けど、私は面倒だった。指一本動かすことが、酷く疲れるの。だから、眠ることにした」
映像は終わった。辺りは未だに暗い。彼女の息遣いが伝わってきた。
「あの後、私は病院に担ぎ込まれた。いつもは仕事で帰りが遅い両親が、たまたま早く帰ってきたの」
あまり時間が経っていないようにも思えたし、何百年も時間が経ってしまったようにも思えた。本当のところ、時間なんて流れていないのかもしれない。
「私の走馬灯は終わり? こんな程度しか無かったかな。……そうかもね。後にも先にも思い出に残っているのはあれくらいだし」
また、水面が光りはじめる。映し出されるのは小学校の教室。その隅の席。僕が座っていた。小学生の僕は本を広げ、黙々と読み進めている。
「あの子が転校して、あまり時間が経っていないみたいだ」
隣には誰も座らない席があった。小さな僕は変わらず本を読み続けた。窓の景色で季節の流れが分かったが間違え探しでしかない。
「あ、変わった」
彼女が言った。
中学生の制服を着ていた。しかし、小学生と比べれば、体が成長しているくらいで変化が無かった。退屈な同じ映像が流れる。周囲では他のクラスメイトが会話をしている。僕は息をする度に肩が少々動くのみであった。眼球が活字を追う。自分で思っているより視線は分かりやすい。僕の視線はぶれない。上下移動を繰り返すのみ。
「あの子が転校してから、僕は無理するのを止めたんだ。人の輪へ入らなくなった。人の話を聞かなくなった。自分の事を話さなくなった。でもね、そんな事を繰り返していると分からなくなってくるんだ。自分が希薄化するって言えばいいかな。僕はあの子ほど自分をしっかりと持っていなかった。だから、迷った。人付き合いから解放された代わりに、僕は僕自身でも正体の見えない物を無くした気がする。何となく感じるんだ」
つまらない。自分を眺めるのは吐き気がした。すぐにでも搔き消してしまいたい。だが、僕は動かなかった。彼女の映像を見たのだから、僕も見せるべきだ。
周囲のクラスメイトが笑い合っていた。
「不思議でたまらない。彼らは楽しいのか? 深い友情で結ばれているのか? だから、いつも笑っていられるのか? どこをどうすれば毎日隣に人が居て耐えられるんだ? 苦痛にしか感じられない。言動一つ一つに気を使って、場の空気を保つのはどこが楽しいんだよ。それとも、僕がおかしいのか? 僕がおかしいから苦しいのか? 知らないよ、もう嫌だ」
僕の口は止まらない。
「いつの間にか考えることを止めて、気が付けばプログラム通りに動く機械だった。不完全な機械だ」
彼女は黙っていた。
「僕は時折、人間に戻った。戻っても懲りずに同じ所を巡る。何で笑っているんだ? 僕はおかしいのか? 一定の時間が経つと、また僕は機械になる。繰り返して、繰り返して……」
唾を飲み込んだ。喉が渇いて、くっついてしまいそうだった。
「……疲れた」
ぶつけようの無い怒りと悲しみが込みあがってくる。人の中に入って行く度、完成された絵の中にある落書きのように自分を感じた。
「消えてしまえばいいのに」
僕の体を、僕の記憶を、僕の生きた痕跡を、全部全部壊れてしまえば良い。皆、皆、僕の事を忘れてしまえば良い。最後は僕自身も僕を忘れる。それで終わる。僕の世界は消滅する。自殺のように迷惑を掛けない。誰一人悲しまない。
「消えてしまえばいいんだ!」
僕は地面を殴った。痛みは感じなかった。
「消えろ!」
一発、二発、三発。
「消えろ、消えろ、消えろ! 消えてしまえ!」
僕の頭はそれで一杯になる。他の事は考えられない。
「止めてよ……」
背中を強く締め付けられた。彼女だった。
「手、痛いでしょ」
痛いのか?
握りしめた拳は血がにじんでいた。皮が擦り剥けている。傷口は赤く、ざらついていた。指が折れているかもしれない。殴った地面にも僕の血がこびり付いていた。
「私にも分からないけど……」
さらに強く僕を締め付ける。
「分からないけど……分からないけど……分からないよ!」
彼女は僕の腕を取り、立ち上がらせた。途端に駆け出す。先には暗いプール。視界が乱れ、めちゃくちゃに混ぜられる。空も地上も無くなる。あるのは彼女の感触。
「ああああー!」
彼女が叫ぶ。悲痛な切り裂き。
僕らは水の中へ転落した。水泡に埋め尽くされ、一瞬で空気を奪われる。
僕はもがきながら水面へと一気に飛び出した。
空が青い。水も青い。暗闇に光が流れた。
「泳ぐのに丁度いいね」
彼女が横で浮かんでいる。僕も浮かんでみた。
「手は大丈夫?」
傷口に水がしみた。
「あまり大丈夫じゃない」
「馬鹿だよ」
「うん」
「私もあなたも馬鹿だよ」
制服が水を吸い始める。僕は沈み始める。
「溺れるから起き上がりなよ」
「君こそ起き上がった方がいいよ」
「私は問題ないから」
「嘘でしょ。ほら、早くしないと」
口に水が入り込んできた。僕はむせた。
「だったら一緒に起き上がろ」
彼女が言った。
「そうしようか」
僕は彼女の手を掴んだ。痛かった。
「私がカウントする」
息を止め、痛みを堪えて彼女の手を握った。
「一、二、三!」
水粒を跳ね上げ、僕らは飛び上がった。体中を水流に引っ張られている気がした。底は滑りやすかった。
「久しぶりに入った。気持ちいいね」
彼女の髪は絡みつき、服は張り付いて体のラインを強調する。僕は水を吸った制服の重みを感じながら、そのしなやかさに吸い寄せられた。
「いきなり引っ張られたから驚いたよ」
「あはは、ごめんね」
先に僕がプールから出て彼女を引き上げた。濡れてしまった衣服はどうしようもなく、自然乾燥を待つことにした。
「ん? あんなのあったかな」
彼女はプールの向こうを指さした。
「いや、無かった」
先には学校があった。三階建てであり横に長かった。暗闇に包まれている間に出現したらしい。僕は特に動じることもなく、あれは僕の通っていた小学校なのだろうと考えた。ここは僕に関係する場所なのだろう。それとも僕ら、か。
「行こっ!」
彼女はジャージの上着を振り回し、裾を捲り上げて勢いよく最初の一歩を踏み出した。そのまま駆け出した彼女は小学生のようだった。露出したふくらはぎは筋肉など付いていないようで、か細くしなやかだった。
「プールサイドは走らない」
懐かしさに任せて言った。
「ごめんなさい、先生」
制服の上を脱ぎ、Tシャツになった僕は彼女の後ろを追った。二人とも背中にはランドセルがあった。
「小さい靴箱。小学生用だね」
広い校庭を抜けて、児童専用と思しき玄関に入る。彼女は校庭を渡る間、砂の感触が気に入ったと言って素足で歩いてきた。
背の低い靴箱が並び、隅にはサッカーボールの入ったカゴがあった。泥で汚れていた。光源はガラスの張られた扉から射し込む日光だけで薄暗かった。乾ききっていない服に玄関の冷気が染み込む。
「私の所はここだったかな。あ、やっぱりある」
二人分の靴箱を除いて他の所には入っていなかった。
「二十四番が私の出席番号」
彼女は入っていた内履きを取り出した。
僕は十番だった。中には履き古された学校指定の内履きがあった。履いてみると、きつかったので踵を折るしかない。彼女もそうして履いていた。
「4年ぶりくらい、か」
「うん。今、高2だから」
僕らは廊下を歩いた。二人分の足音が廊下の奥深くまで響き渡り、物寂しさを強調する。隅に潜む影は見る角度によって不安定に形を変える。埃っぽい匂いが充満し、意外とそれは不快でない。
「お道具箱、まだ家にあるんだよ」
「僕は無くした」
足は自然と五年生の教室へ向く。
「……」
たどり着いたとき、僕らは何も言わなかった。
所々に木製の傷ついた引き戸を開ける。
懐かしき光景が広がる。整然と並ぶ机、低く設置された黒板、画鋲の刺さった掲示板、後ろには正方形に区切られたロッカー。
「ランドセルはここに入れるんだよね」
彼女が先に教室へ入った。僕も後へ続き自分のロッカーを探す。番号が付されており、背負っていたランドセルをしまう。窓辺へ寄ると僕の席があった。僕が窓寄りで、あの子がその隣。彼女は無言でその子の席に座った。
僕の時間はここで止まってしまっている。流れの止まった川は淀んで腐る。ならば、止まった時間を進めなければ僕は腐って行く。
彼女と共にプールへ飛び込んだ時、僕は許されたような思いだった。誰にも責められてはいなかった。しかし、すべてが軽くなった。
「時計が無いね」
「本当だ」
正面にあるはずの丸い壁掛け時計が無かった。
「先生は来ないのかな」
「今日は休みじゃない?」
僕は彼女の言う事に反応する事しか出来ず、自身の時の進め方が分からない。
「二人とも休みに学校来ちゃったんだー」
彼女は無邪気に微笑む。
「あのさ、プールで取り乱したりして……ごめん」
唐突だろうか。でも良い。僕から離し始めなければ。
「うん、びっくりしたよ」
「普段はあんなことしないんだけど」
自然と話しの流れを受け入れてくれた彼女は僕の手を取り、まじまじと見つめ立ち上がった。手は血が渇いてこびり付き、人差し指は青黒く腫れていた。
「ちょっと待ってて」
平坦な足音を立てて彼女は教室から出ていった。踵を折った内履きは成長した彼女の体に不釣り合いで、気を抜くと足から抜けてしまいそうだった。馬の尾のように揺れる黒髪は乾き始めているようだった。
足音が遠くなる。どこへ行くつもりなのだろう。
窓を見やる。僕はその光景に息を飲んだ。桜の木に囲まれた校庭が夕焼けに染まっていた。通り抜けてきた森は無い。田んぼや畑の中に人家が点在し、整備された道路の脇に街路樹が植えられている。遠くに一本の川が横たわっていた。その川に架かる橋を渡れば住宅街に続く。何度も見た景色だった。僕の住んでいる小さな町だ。栄えていないと言えば嘘になるが、自動車を使わなければ商店街や中心街には少々遠い。
あの子と僕の帰り道は途中で別れる。僕は橋を渡らず、あの子は渡る。一度も一緒に帰ったことは無い。
彼女は十分程で戻って来た。
「どこ行っていたの?」
「保健室。手当してあげる」
手には救急箱があった。
彼女の手際は良いとは言えないが一つ一つの動作が丁寧だった。僕の手は消毒をされ、傷口にはガーゼをあてて包帯を巻かれた。腫れた指には湿布を貼ってもらった。
「不格好でごめんね」
「いいよ。ありがと」
彼女は後片付けをして、元の通りに隣へ座った。
僕は深く息を吸った。
「頼みが、あるんだけど」
「何?」
時間を進めたい。正しい方法は分からない。ならば、僕はあの過ぎてしまった時間にやり残した事をやってみよう。それしか考えつかなかった。
「一緒に帰ろう」
間があった。彼女は戸惑っているようでもあったし、僕の言った事を咀嚼しているようでもあった。彼女の返事を待つ間、きつめに巻かれた包帯を緩めようと小刻みに指を動かした。湿布の貼られた指が痛む。
不思議と緊張していない。穏やかに彼女の答えを待った。
静寂が漂い、柔らかい空気が僕を包んでいる気がした。
「もう日が沈むね」
彼女の言葉は教室に溶け込んだ。
「皆帰っちゃった」
溶け込んだ言葉は僕に浸透する。
「私達も帰ろうか」
「うん」
僕らは席を立ち、ランドセルを背負う。
「靴どうしよう」
「また背負おうか?」
必要は無かった。靴箱には彼女が小学校で履いていたらしいスニーカーがあった。僕の履いていた靴も無く、同じように小学生の時に履いていた物だった。きつくは無い。
「あれ?」
彼女はその場でくるりと回る。伸ばしたままの髪は肩に辛うじて触れる位の長さだった。僕らは小学生の背丈になっていた。
「変なの。今に始まった事じゃないから、あまり驚かないけど」
「僕もそう思うよ」
「帰り道、どこまで一緒だっけ?」
「橋の所までじゃないかな」
「ああ、そうだったね」
世界は朱色だった。日は沈みかけ、校庭に二つの影が伸びる。風は吹いていない。細かい砂が踏み込む度に軽快な音をたてた。僕ら以外誰も居ないようで、実際にそうなのだろう。皆帰ってしまったから。
僕はゆっくりと歩いた。この時間が惜しかった。いつまでも歩き続けたかった。
校門として立っている二本の石柱の間を通り、田んぼを横目に歩道を進む。低い苗はまだまだ青い。
「季節はいつかな」
小学生の彼女は言った。
「田んぼとか畑を見ると、まだ春みたいだけど」
彼女の視線はずっと田畑に向いていた。
「面白いよ。しばらく苗を見ていて」
僕は歩きながら彼女と同じ方向を眺めた。
植物が歩く度に成長していた。劇的な伸びをしているわけではないが、苗はほんの少しずつ大きくなっている。田の中にある雑草も共に成長し、歩道の脇に植えられた街路樹も葉の色を次第に変えた。
小学四年生の一年間をやり直していると言う事だろうか。季節は足早に過ぎるのは、この帰路に僕の願いは凝縮されているからなのかもしれない。
春には肌寒さを感じながら田の泥臭さを嗅ぐ。夏はうず高く積もった雲を見ながら長期休みを待ちわびる。秋は重たげに頭を垂れた稲穂に止まる赤とんぼを目で追う。季節の移ろいは、それだけ別れが近付いているので僕は悲しくなった。
分かれ道へ近づく度に歩みを止めそうになるが、どうにか抑え込む。きっと、このために僕は居るのだ。彼女と二人だけの世界で心残りを無くすために。もし、僕が死ぬのだとしたら惜しい気もする。彼女の書いた物を読みたかった。長い間感じなかった未来への淡い希望がこみ上げてくる。
顔の筋肉が緩んだ。
「何笑っているの?」
彼女は不思議そうに首をかしげる。
「笑っていた?」
「ちょっとね」
「歩くのが楽しいからかな」
「実は私も歩くの好きなんだよね」
彼女は鼻歌を歌い始める。懐かしいメロディーだった。思い出せないけれど、いつか音楽の時間で歌った曲だ。
「それ何て曲名だっけ」
「忘れちゃった。けど、頭に浮かんできたの」
ゆったりとした旋律はいつまでも続くようだ。彼女の視線は遠くにある山並みに向けられていたが、葉が散り始めた木々を通り抜けて僕の知らない所を見ているようでもあった。
彼女も死んでいるのだろうか。例えば僕だけが死ぬ事になっていて、最後に僕があの子に会いたかったから引き寄せてしまった、とすればどうだろう。彼女は僕の記憶の中に居る少女という事になる。
横を歩く彼女は瓜二つだ。多くの感情が蘇る。僕には彼女があの子にしか思えなくっていた。
「あの時ああしていたら、みたいに後悔する事はある?」
性懲りも無く、もっと仲良くなっていたらなどと妄想に浸ろうとしていた。もしかしたら、かもしれないを考えてもどうにもならない事は分かっている。だが、僕の学習能力は乏しく、同じ事を繰り返すのだった。
「唐突だね。……まあ、そりゃ一杯あるよ。けど、私は思うだけで後悔はしない。勘違いしないで欲しいんだけど、前向きだから後悔しないんじゃない。ただの空想。そういうのを小説にしてみたりするの。後悔しても私の現状は変わらないし、正直どうでもいい。諦めているんだよ。私が私を遠くから見ている感じ。見ている自分がどうなろうと、私は知らない。ご勝手にして下さい、ばいばいさようなら。投げやりな態度なの」
彼女は笑い、その笑みは無垢な少女のものだった。
「でも、ちょっとは期待してもいいかな」
僕は小学生のあの子が笑うのを見たことが無かった。いつも本を読んでいて、涼しげな表情で座っている。拒絶されているようだった。笑っている顔を見るとそれだけで僕は嬉しくなった。
「何に?」
「何だろうね。想像にお任せって事で」
彼女は本当にコミュニケーションが苦手なのかと疑問を感じざるを得ない。彼女は僕の知っている少女が成長した姿なのか、あるいは僕の願望が具現化したのか。元から僕はこの世界で一人という事もあり得る。夢の中で自分を慰めるために、笑顔の彼女を映し出して……。
傷ついた手のひらを強く握った。痛みが鮮明になる。
疑いだしたらきりが無い。ただ無条件に幸福感を受け入れることにした。
「ちょっと寒いね」
彼女は手をこすり合わせた。
紅葉は落ち、稲穂は刈り取られ冬がそこまで迫っていた。夕焼けは薄れ、灰色の厚い雲が空を覆う。すぐにでも雪が降り出しそうだ。
住宅街へと続く橋へ来ると、いよいよ寒さは厳しくなった。吐く息は白く、冷たい空気が肺に流れ込む。
「私この橋渡るから」
彼女は止まった。
「うん。僕はこっち。……そうだ」
ランドセルからヘアピンを取り出した。氷を握ったようだった。気を抜けば滑り落ちそうだった。指先が震える。関節が曲がりにくい。ゴムのように固くなった皮膚はひび割れていた。
「これ、受け取って」
彼女に渡すことが出来れば、僕は小学生を終えられる。止まった時間が動き出す。
差し出すと彼女は困惑を浮かべた。
「受け取れないよ」
僕は腕を下した。
「やっぱり、受け取る理由が無かったよね」
「そうじゃない!」
鼻と鼻がぶつかりそうになるほど彼女が迫る。彼女の体温が触らずとも伝わった。僕と彼女の背丈は同じくらいだった。
「答え合わせはまだだよ」
「僕は君があの子にしか思えない」
「間違いだったら?」
彼女の口からは白い息が漏れ空へと昇って行く。
「間違いのはずが無い」
僕は彼女の頬に触れた。
「覚えている。目元も鼻も口も、頬も髪も」
記憶に触れている気分だ。冷たくなった彼女の頬は滑らかだった。
「だったらさ、私が貰ったらそれで終わり?」
静かに彼女は語る。
「私はこれで最後にしたくないよ」
「二人とも死んでいるかもしれない。ここが死後の世界だったら、僕は心残りを無くしたい」
自分勝手なのは重々承知だ。彼女の事を顧みず、一方的に押し付けているだけだ。もう抑える事が出来なかった。
「大丈夫。死んでいない、死んでいないから。私が行った事だけど、全部撤回します。私の勘違い。私は酔いつぶれて眠っているだけで、あなたは事故にあったけれど目を覚ましていないだけ。怪我はしているけれど、命に別状はない。そろそろ意識を取り戻すから私達は分かれ道に来ているの」
彼女は微笑んだ。
「私の持っている鉛筆も消しゴムも返さないよ。あなたが違う人かもしれないし、仮に会うにしても高校生の私で会いたい。もっと身なりを整えてからじゃないと恥ずかしいよ」
彼女が僕の作った幻影なら、僕の自己満足でこの世界は閉じていただろう。しかし、意に反して彼女は僕の差し出したものを断った。彼女はちゃんと存在している。
「お願い」
これが彼女の言っていた期待なのかもしれない。
「……分かった」
「ありがとう」
彼女は僕から離れ、二、三歩後ろに下がった。
「もし、また会えたら君の小説を読ませてよ。僕が鉛筆と消しゴムを君に貸した子じゃなくても」
彼女は無言で頷いた。
「あっ」
雪が舞っていた。大きな牡丹雪だった。ゆっくりゆっくりと降りてくる。自分が浮いているような錯覚に陥る。目を凝らすと、結晶の形がよく分かった。
「小説とか、映画だとべたな展開だね」
「嫌いじゃないよ、僕は」
「私も。いよいよクライマックス。物語の終わり」
しばらく僕らは空を見上げていた。
「さて、風邪をひかない内に帰ろう」
僕の言葉は雪に吸収され、思ったほど響かなかった。
「じゃあ、同時に帰る方を向こう」
「いいよ」
「せーの、だよ」
切なさに襲われる。果たして迷わず帰れるだろうか。
「せー」
足に力を込め、素早く動けるよう身構える。
「のっ」
迷いを断ち切るために一息で動く。
刹那、僕が彼女に背を向けるとすべてが雪に覆われ、感覚が消えていった。ただ暖かいばかりで、眠くなってきた。意識が薄れる。後ろを振り向いてしまえば、二度と彼女と会えない気がした。
「また会おうね」
彼女の声が聞こえた。
「うん、またどこかで」
最後に残ったのはヘアピンの感触だった。僕は離さないように、壊してしまわないように、しっかりと握った。
私は家の廊下で眠っていた。目を覚ますと酷い吐き気に襲われ、トイレへ駆け込んだ。吐き出す物は水分と胃液だった。朝食と昼食を抜いた私の胃には何も入っていない。
すでに日は暮れ、時刻は午後七時を過ぎている。幸い、お父さんもお母さんも帰宅していない。
私は手早く未成年飲酒の証拠を隠滅した。すっかり空になった瓶を私の部屋に隠してからシャワーを浴びた。飲んでしまったお酒は問題ない。お父さん宛にお歳暮が送られてきて、それ以外にも貰い物が沢山あった。私の飲んだ物もその一つで、お父さんはどういう物があるのか把握していないはずだ。
私が体を拭いていると電話が鳴った。お母さんだった。
「何度も電話したのにどうして出ないの?」
「ごめんね。眠っていた」
「……ならいいけど。お父さんもお母さんもまだ帰れないから、夕食は好きなように食べて」
私は両親の仕事を知らない。同じ仕事をしているらしいが、両親が言う事は無かったし、私自身興味を持っていない。ただ、私は中学、高校共に私立に入れてもらったのでお金はあるのだと思う。小学校の頃はそれほど裕福ではなかった。並みの賃貸住宅で公立学校。会社経営をしているのかもしれない。
「あと薬だけど」
「ああ、お母さん。薬は要らないよ」
「何よ、急に」
「お医者さんも言っていたでしょ。少しずつ減らした方がいいのよ」
「でも、急に減らすのも」
「大丈夫だから」
私はどうにかお母さんを納得させ、電話を切った。
空腹で気持ちが悪い。吐いた事により体力が余計に消耗され、軽いめまいがする。何か食べないと。
私は宅配ピザを頼み、届く間テレビを見ながらコーラを飲んだ。炭酸が喉に心地良かった。
お笑い番組は騒がしい歓声を上げ、私はどこで笑って良いのか分からずチャンネルを変えた。しかし、興味を惹かれる番組が無く最後は電源を切った。
私はテレビの前に置かれたソファーの上で寝ころび、さっきまでの出来事を探った。
あれは現実だろうか。
私の部屋の押し入れを探ると、埃を被ったランドセルをどうにか見つけた。中には鉛筆
と消しゴムがあった。もし、私が彼のヘアピンを受け取ったら鉛筆と消しゴムの代わりに
ヘアピンがあったのかもしれない。
感慨に耽っていると家のチャイムが鳴った。ピザの宅配だろう。届けてくれたのは爽やかな男の人だった。
「千五百円です」
私は代金を支払い、熱いピザを受け取った。予想より大きく、食べきれるか不安になったが、美味しかったので問題なかった。
「はー」
食べ終わり息を付きながら壁掛けカレンダーを見て日付を確認すると、六月を一週間ばかり過ぎていた。五月病をこじらせて、最後に学校へ行ってから二週間が経っている。その二週間で考えたのだが、私は意外と前向きなのかもしれない。しばらく一人で居ると気力が回復し、学校にも行けるようになる。完全に部屋から出られないわけじゃない。私は半引きこもりどころか、四分の一引きこもりなのだ。
きっと、私は暗くて人見知りの自分に飽きてしまっている。中学を卒業して、それが自分だと客観視し、諦めた。
「学校、行こうかな」
だからこそ、私は外に出られる。扱い方法を知れば、さほど苦ではなかった。そろそろ学校に行く日数を増やしても良い頃だろう。さっき見た夢でどことなく元気付けられ、私はまた人の中へ行ける。
お父さんもお母さんも、私が学校に行かなくても何も言わない。放任主義というこうだろうか。嬉しくもあったし、寂しくもあった。しかし、見放されているようには思えなかった。
明日使う教科書を揃え、制服に軽くアイロンをかけると後はする事が無くなった。目覚まし時計をセットしてベッドに入った。
翌朝、私がリビングに行くと、お父さんとお母さんはスーツを着てトーストを食べていた。
「おはよう。お父さん、お母さん」
二人とも無愛想に返してくれた。
「私、今日は学校行くからね」
「そう」
お母さんは興味が無さそうだった。
「お金、あるの?」
「ごめん。もう無い」
「先月はやってなかったからな。母さん、五千円くらい渡しておいて」
お父さんはそう言った。
私はお母さんが差し出した千円札六枚を受け取った。
「あのさ、お父さんとお母さんの仕事って何なの?」
私はトーストにブルーベリージャムを塗りながら聞いた。
「あら、言ってなかったかしら?」
「うん。二人とも同じ仕事をしているのは知っているけど、何をしているのか知らない」
「確かにそうかもな」
お父さんは緑茶を飲んでいた。和洋折衷である。
「父さんは社長だ」
さほど驚きはしなかった。
「どんな社長?」
「秘密だ」
「それは言えないわねぇ」
クスクスと笑いながら二人は顔を見合わせた。この夫婦は仲が良いようである。結局、社長以外は分からなかった。
学校は家から歩いて十五分。近くなってくると、生徒がわらわらやってくる。私は歩道の隅に寄りながらやり過ごす。
朝があまり得意でない私は、ふらふらとした足取りで生徒玄関に入り、内履きに履き替えた。和気あいあいと横を通り抜けた女子グループは、私にぶつかったことに気が付かない。むっとしたから、速足で追い越してやった。
真っ直ぐに教室へ行かず、職員室で担任の先生を探した。先生は缶コーヒーを飲みながら新聞を広げていた。
「先生、おはようございます」
「おお、久しぶりだな」
嫌味だろうか。三十五歳、妻子持ち、現代文担当。生徒受けが良く、他の教師とも関係が良好らしい。親ばかで、授業中に娘を自慢する。一年の時も同じ担任だった。
「元気だったか?」
「まずまずです」
「だったらいい」
少々ルーズな面があり、そこが人気の秘密かもしれない。
「先生、私はあとどれくらい休んだら留年しますか?」
「留年したいのか?」
「あまり……」
出席表を取り出した。
「うーん。殆ど休めないぞ」
「これからは頑張ります」
「まあ、無理しない程度にな」
私が職員室を出ようとすると、担任が呼び止めた。私は担任の名前を忘れてしまった。
「部活に顔を出せよ」
私は文芸部の幽霊部員だった。文芸冊子を年に二回発行し、コンクールへの応募もしている。私は参加するのが億劫なので、書くだけ書いて提出はしない。
「考えておきます」
部活で思い出した。私は小説を見せると彼に約束した。書き溜めている物でも良いのだけれど新しく書き始める事にしよう。
このところ歯茎から血が出やすい。口内炎もあった。ビタミン不足を補うために昼食は野菜ジュースを飲んだ。昼はあまりお腹が空かないのでそれだけで十分だった。
私の席は窓側で、空を見上げながらぼけっとするには都合が良い。梅雨入りしているらしいが、お構いなしに快晴だ。彼に見せる小説の内容を考えていると、ふと疑問が浮かぶ。彼は目を覚ましたろうか。
「うぐっ」
柔らかくて硬い物が頭にぶつかった。表面はふわりとしていて、中身は詰まっていた。ぶつかった物は私の机に落ち、すかさず占領した。さほど痛くは無かったが、反射的に頭をさすってしまった。机には黒いスポーツバッグあり薄汚れている。運動系の部活に入っている人が持っていそうだ。
「あ、ごめん。怪我は無かった?」
非常にすまない事をした、という顔をして短髪の青年が寄ってきた。この人は確か同じクラスの何とか君。外見はかろうじて見た事があったけれど、名前までは記憶にない。新たなクラスになって自己紹介をした日に私は休んでいた。そうでなくても、元々名前を覚えるのが苦手だ。ここでは仮にAとしよう。
「……うん」
人見知りが激しいので私は無愛想になる。
Aは友人とふざけ合い、なぜかバッグを投げて遊び始めたらしい。運悪く友人の投げたバッグは私の頭へ飛んできたのだ。
「ほらお前も謝れって」
Aは友人を呼び寄せた。謝罪はいらないから、早くどこかへ行って欲しい。私はコミュニケーションを長時間すると疲れてしまう。
「あの、本当に大丈夫なんで」
私の声は小さくて聞こえないようだ。Aの友人はヘラヘラと簡単な謝罪を述べ、バッグを抱え教室を出ていった。
私は野菜ジュースのパックにストローを通し、また飲み始めた。最初に飲んだのとはミックスされている野菜が違う。
「野菜ジュース好きなの?」
Aは隣の席に座り、私と会話を試みる様子。
「そこそこ」
「俺は結構好き。それ、最近発売されたのだよね」
「さあ? 適当に選んだから」
私にかまうとは変な人だ。
昨日の彼が脳裏に浮かんだ。
そうだ、昨日の出来事を小説にしよう。不思議な体験だったから、記念に何かしらの形で残しておきたい。私の視点であの世界を表現し、彼にも見せることにした。
Aは尚も私に話しかけた。気さくな態度で私の無愛想を押し切り、昼休みが終わるまで笑顔を振りまいていた。
私は家に帰ると、さっそくパソコンを起動し画面と向き合った。まだ書き始めはしない。最初は大体の構想を練る。話の流れは決まっているから、あとは細部を詰めれば良い。
パソコンを付けたのは住所の調べ方をネットで探すためだ。住所、調べ方、と入力し検索をかける。何万件もヒットするが、他人の住所は個人情報なので教えてもらえないらしい。
机にノートを広げるけれど、シャーペンを動かす気にはなれなくてベッドに飛び込んだ。
書き終わったとしても、どうやって届けよう?
小説は一か月とちょっとで書き上がった。私はプロの作家じゃないから、不格好な作品になってしまった。彼に鼻で笑われなければ良いけれど。
「お母さん、私行きたい所があるんだけれど」
珍しくお母さんは早く帰ってきていた。夕食は私が作った。このところ、私は料理をするようになり、出前や出来合いの物を買う事は無くなった。
簡単に野菜炒めを二人分作り、スープとご飯と共に食卓へ並べた。
「美味しそうね。で、どこに行きたいの?」
「四年生まで住んでいた所」
「小学校の頃の?」
「うん、そう」
卵のスープは胡椒辛かった。
「ちょっと遠いわね。いつ行きたいの?」
「夏休みにしようかな」
「夏休みねえ。お父さんもお母さんも仕事で無理よ。どうする? 一人で行ける?」
「最初からそのつもりだよ。日帰りは厳しいから、泊ってきていい?」
「お父さんに聞いてみなさい。たぶんいいって言うだろうけれど。ただ泊りはどうかしら? 何をしに行くの?」
お母さんは十分胡椒辛いスープにタバスコをかけた。
「急に見たくなった場所があるの」
「へぇ」
私の小旅行計画は受諾された。お母さんの知り合いがいるので、その人の家でお世話になることになった。よく知らない人と過ごすのに若干の不安が残るが、社会へ慣れるための練習としよう。
結局、私は彼の住所を調べられなかった。とりあえず、彼と最後に分かれた橋の元へ行けば会えるような気がした。会えなかった時の事は考えていない。お母さんの知り合いに尋ねてみるのも良い。
夏休みに入り、すぐに私は出発した。新幹線で三時間かかる道のりは意外と短く、景色を眺めたり本を読んだりしていれば退屈する事は無い。一人で遠くに行くのは気分が高揚する。部屋で籠っていては感じる事が無かったろう。まるで以前の私は居なかったように思える。
到着まであと三十分と迫ると、Aからメールが届いた。何度か名前を聞いていたが、私は覚えられていない。Aと昼休みに話す事は半ば習慣となっていて、Aの方から隣の席へ寄ってきた。
メールの内容はこうだった。
――今度、一緒に美術館に行かない?
Aは空手部らしいけれど、運動だけでなく文化面にも興味があると言っていた。本を貸すと、二三日で読んでくるし、感想を聞けば具体的に答える。嘘ではなさそうだ。
私には女友達が出来た。相変わらず人が苦手だ。けれど、親しくしてくれるその子は私と真逆の性格で非常に明るい。一人で楽しそうに話すので、私は聞き役に徹し、随分負担が減っている。
その子によるとAは私の事が好きらしい。クラスではそういう噂が流れている。噂はあくまで噂だと割り切ってしまいたいが、火の無い所に煙は立たない。Aとの距離を測りあぐね始めていたので、夏休みに入ったのは好都合だ。
それらの要素を踏まえ、このメールの意味を考察する。恋愛小説によくあるデートの誘いと捉えるべきだろうか?
メールの返信をどうしようか悩んでいると、目的地の到着を告げるアナウンスが入った。緩やかに停車を始める新幹線は揺れを殆ど感じなかった。私は荷物をまとめ、降りる準備をした。
駅へ降り立つと気温の違いに驚いた。晴れているが、今住んでいる場所より涼しい。暑いのが好きではない私には過ごしやすそうだ。人も思っていた以上に少ない。
改札を通り、見慣れない駅ビルの中を彷徨いながらも外に出た。事前の打ち合わせだと、お母さんの知り合いが迎えに来てくれる事になっている。私が赤ん坊の頃、何度か会った事のある人らしいが覚えていない。
私の住んでいた場所は、この駅から車で一時間くらい。時刻は十二時を過ぎていた。今日はついて早々あの橋へ行けそうだった。焦らなくとも滞在期間は二泊三日であるが、なるべく早く彼を探したかった。
駅の外にあったベンチに腰掛ける。大きな広葉樹が影を作り、私を日差しから守ってくれるので快適だった。
携帯を取り出し、Aのメールを読み返した。近くのコンビニで買ったおにぎりを食べながら、返信の文面を考えるけれど、いまいち纏まらない。美術館へ行くのは構わないが、噂の事が気にかかった。私はAに特別、恋愛感情を抱いていない。さて、これはどうしたものだろう。
――良いよ。
とりあえず、誘いには乗っておくことにした。私の勝手な思い込みかもしれないし。
ほろ苦い緑茶を飲み干すと、手を振って誰かが近付いてきた。