⒐終章
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電子レンジがピーッと鳴った。
それで時間の束縛から解き放たれた記憶旅行より強制帰還させられたぼくは、回転をやめたバーバパパのマグカップをレンジ内から取り出して、その縁にひょっとこ型にした口元を近づけながら、バーバパパのあとでも継ぐかのようにくるりと身体を回転させた。そうして回転させ終えて居間の方を向いた瞬間、そこにあるテーブルにいつの間にか頬杖をついて座っていたミロの姿にすわっと気が付いて危うくカップをひっくり返してしまいそうになったけれど、オップス、という無駄に外国人のような声を発したただけで、なんとか堪えることができた。
ふうと一息ついたあとに改めてミロを見ると、どうやらミロは窓越しに、今座っている場所&角度からギリギリで見ることのできるアイラをぼんやりと眺めているようだった。
ぼくはそんなミロを見ながら彼女が七年前からずっと実家にいて大学へは進学せずに、高校を卒業すると同時に隣り町にある会社でOLとして働いていることや、今は正月休みで年明けの四日までは休みだと言っていたことをなんとなく考えた。あとはまだ就寝中の両親のことなんかも。
ちょっと熱くしすぎてしまったらしいゆけぶった豆乳へ息を吹きかけているぼくに向け、アイラの方を向いたままのミロが眠たげな感じで声をかける。
「ねえニジ兄」 「なんね」 「わたしが中一の頃、学校に行かんくなったときのこと憶えちょっけ?」 「あったねー」 「そん頃ね、実はわたし、いじめられちょったんだ。そんでなんかもう嫌んなって」
ぼくはその場に立ったまま豆乳を舐めるように一口飲んだ。まだ少し熱い。
じゃっどんね、とミロが続ける。
「引きこもっちょった理由はね、そんだけじゃなかったとよ」
「なんがあったのね」
「なんかね、夜になっと、身体のどっかがおっきくなっとよ。手とか足とか、頭とかが。夢とかじゃなくてマジによ。戻れ戻れ必死に念じながら寝て、朝になったら普通に戻るんやけど、それが昼間もなったらどうしようかと思って……。それが怖くて部屋にこもるようになったとよ」
確かミロが引きこもっていた時期は、アイラがまだ普通の大きさの頃だった。
それを言おうと思ったけれど、やっぱり何も言わないで待つことにした。また豆乳に息を吹きかける。
あえてそうしているのか、ミロはあくまでも眠たげな声でしゃべり続ける。
「やっけどちょー不安やったから、アイ姉に相談しに行ったとよ。そしたらアイ姉、ロリ服の雑誌見ながら、そんなん大したことじゃなかがって顔で、『大丈夫、もうならんよ』って、それしか言わんかった。そいでなんか頭にきてすぐに帰ったんやけど、でも、ほんとにそれから一回もおっきくならんくなった。そん代わり、アイ姉がおっきくなり始めたと」
──と。目の前に粉末ココアの袋があることにおっと気が付いたぼくは、豆乳の中に投入、と心の中でダジャレを言いつつ粉末ココアとついでにその横にあった砂糖もスプーンでカップに入れた。ぽっかりと塊になって浮かんだ砂糖まみれのココアをスプーンの先でつついて崩し、ねじ伏せるようにしながらぐるぐるとかき混ぜる。なかなか溶けなかったけど、しつこく混ぜているうちに結局は全部溶けた。その間もミロは眠たげな声でしゃべり続けている。
「でね、もしかしたらアイ姉がおっきくなっていくのと、自分がならんくなったのが何か関係あるんじゃないかと思って、気になっていろいろとネットで調べてみたんやけど。そしたらさ、あん頃ってうちらと同い年くらいの女子がけっこう荒れてたやろ? なんか伝染したみたいに、何人かの女子が続けて事件起こしとったが。アイ姉がおっきくなる前によ。で、なんとなくそれ関係のことも調べとったら、たまたまその中の一人の子が事件起こす前に書いてたブログのコピー見つけたと。でそこに、毎晩頭がおっきくなって破裂しそうだって書いちょった。比喩じゃなくて物理的に。日付は、わたしがそうなってた頃と同じやった」
ぼくはちゃんと話を聞いていたし、ミロが何を言いたいのかもなんとなくわかったのだけれど、何をどう答えればいいのかがわからないこともあって、んで? とだけしか答えなかった。クリーミーなこげ茶色をしている液体を一口飲んだ。
とそれとは別に、思い付きで作った豆乳ココアがなんだかやけにおいしかったから、ぼくは独断でミロのためにもう一杯作り始める。ただしむっちゃくちゃに熱くしてやろうと内心でほくそ笑みながら。
ぼくが自分の豆乳ココアを飲みながらミロの分を作っている間、ミロは一言もしゃべらなかった。むくれているようにも聞こえる電子レンジの稼働音だけが朝の台所にしばらくの間響き渡った。
そうやってとうとう出来上がった史上二杯目のちんちん激熱豆乳ココアを、ほれ、と言いながらミロの前に置くと、ミロは一瞬だけ泣きそうな感じの顔でぼくを見上げたあとでさっと顔を伏せ、小声でありがとうと言いつつ、なんだかドラム缶のたき火に当たる疲れきった浮浪者のような趣きの丸い背中でカップの柄をすっと握りながら、
「……ねえニジ兄、わたしたちのせいじゃなかよね? アイ姉がおっきくなったと。わたしたちの、これみたいに渦巻いてる黒いなんかを、アイ姉が身代わりになって飲んでくれたとかじゃなかよね? 違うよね? そげんかことがあったりせんよね?」
と泣きそうな感じバレバレの声にもかかわらず、どうにか眠たげな声を死守しようとしている変な声で言った。
「……一緒にすんなって。まあまずは飲まんねそれ。めっちゃうめえで」
思わずはぐらかすようにそう言ってしまったぼくの言葉には何も答えないまま、ミロは豆乳ココアを一口飲んで、【熱っつ】と言った。
それはもう全然眠たげでも泣きそうな感じでもなくて、本気の本心からの声だった。丸まっていた背筋も一気にぐんと伸びた。直後に振り返ってぼくの顔をぎりりっと睨みつけるミロ。
けれどすぐに前を向いて、「じゃっどんほんとにうまいで許す」と快活に言った。
ミロのリアクションと言葉に満足したぼくはシンクに寄りかかりながら、立ったままで残りの豆乳ココアを飲んだ。
飲み終えるまでの間、ぼくたちは一言もしゃべらなかった。
途中で冷蔵庫の切なげなモーター音がふっと途切れたときに、アイラの呼吸する引き伸ばした波のような音がほんの微かに、けれど確かに聞こえてきて、そのときふいに、遥か向こうに見えるアイラの姿がなんだか前よりも少しだけ小さくなっているような気がしたけれど、きっと気のせいに違いないと思ったぼくはとりあえず何も言わないでおくことにして、実際に何も言わなかった。
【『AIRA.』〈了〉】