2
◆ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
大晦日の朝。
久しぶりに実家の自分の部屋で目を覚ましたぼくは、喉の渇きと尿意に操られるままにベッドを抜け出して、台所へと向かった。
でもふと気が付くと、途中にある応接間の窓の前に立っていて、遥か南方の活火山の前に座る、幼馴染みの薩川アイラの姿を眺めるともなく眺めている。
今からおよそ七年前のあのときと、多分一ミリも変わることなく、湾の向こう側に聳える桜島の斜面に寄りかかるようにしながら女の子座りで座っている、超が付くほどに巨大なアイラ。
なんだか取り計らってでもくれたかのように、ちょうどここから真っ正面に当たる位置でにこにこと機嫌よさげに微笑んでいる。
ひょっとして本当にそうしてくれたんじゃ? なーんて馬鹿げたことを思いながら、とりあえず喉の渇きと尿意をなかったことにして、引き続きアイラを見る。今日はほとんど雲のない爽やかに晴れ上がった天気だったから、いつにもまして鮮明にその姿を見ることができた。
まるでごっそりと何かを持ち去った跡かのような、うす水色の空の下で微笑むアイラは、七年前のあの日から、全然歳を取ってないように見える。つまり依然として十四才のままということだけど、でもきっとそれはアイラの全身を覆っている火山灰のせいかもしれない。
そう、アイラの全身は、桜島の火山灰によってびっしりとまんべんなく、完全に覆い尽くされている。
だからぱっと見石像のようにも見えるのだけど、といっても別に死んでいるわけじゃなくて、その証拠にじっと耳を澄ますと、アイラの呼吸をする音が、地面を伝わって確かに聞こえる。
現に今も聞こえている。消し忘れた深夜のTVが発するノイズのような、一年で一番穏やかな夜の波のような、ほんの微かながらもはっきりとした音が。
ぼくは一歩窓に近づいた。
アイラの着る洋服は、全身のいたるところにフリルの付いている、いわゆるロリータ系というやつで、その中でもゴスロリと呼ばれている、まあ言うならば豪勢にした黒白のメイド服のようなものなのだけど、女の子座り──アルファベットのWのように折り曲げた両足を地面にべったりとくっつけている座り方──をしているために、スカートの中が見えるようなことは決してない。
そこへきて、アゲハ蝶の指輪で飾られた二枚の手のひらが、ずっしりとスカートの真ん中に置かれているために、多分どんなことがあっても絶対に見えるようなことはないはずだ。
とそうなると、ぼくも一応は男だからなんとなく残念のような気がしないでもないのだけれど、でも、やっぱりそれは見えなくていいのだと思う。きっとほんの一瞬だけだといいのだろうけど、もし仮にそういう類のものがずっと見えていたとしたら、色んな意味でけっこう困ってしまうと思うからだ。
だいたい言うまでもなく小さな子供たちの教育上よろしくないだろうし、逆に萌え好きなオタクたちが今以上に狂喜乱舞していただろうし、加えてただでさえアイラの存在を目の敵にしているヒステリックな運動家連中に、一体どんな難癖を付けられるのかもまったくわかったもんじゃないし。
一見のんびり&おっとりしているように見えて、成績も運動神経もなかなかによかったアイラのことだから、ひょっとしてそういうところまでちゃんと考えてあんな座り方をしたのかもしれないけれど、まあそれはさておき、その件については本当に見えてなくてよかったと思う。
ぼくは寒さのためにブルっと震えると、尿意を我慢しきれなくなってトイレへと向かった。
そのあと台所で手を洗うふりをして、冷蔵庫の中の家族共同のエビアンを密かに豪快にラッパ飲みしたあとで、自分専用のバーバパパのマグカップに注いだ調整豆乳をレンジで温めながら、引き続きアイラのことを考える。
鹿児島と言っても離島にでも行かない限り冬は普通に寒いから、ドレスを一枚しか着ていないアイラは絶対寒いに違いない。ともうこれで何度目かになることをぼくは意識的に考えたけれど、やっぱり今回もいつものように、うまくそう思ってやることができなかった。
多分、アイラがとてつもなく大きいからだ。全身が灰に覆われているということもある。だけど今と同じ大きさの、まだ灰にまみれていないアイラを思い出してみても、やっぱりぼくはそう思ってやることができない。そう考えてみると、灰うんぬんよりも、やはりその大きさに関係があるんだろうなって思う──あれっていつだったろう? ある大きさを越えた時点で、ぼくはアイラを理解することができなくなった。
バーバパパのマグカップはグルグルと回り続けている。
今の大きさになる前、つまり今から七年前までのアイラは、至って普通の女の子だった。もちろん普通なんて表現は本当は誰にも当てはめたりなんかできないということはわかっているのだけど、それでもアイラはそう言いたくなるような、そう呼んでも何ら違和感のないような、少なくとも外見的には標準サイズ内の女の子だった。年齢はその頃のぼくと同じ中二の十四才で、身長は多分、157ないし、8センチくらいだったと思う。
ぼくにはミロという思わず牛乳で割りたくなってしまうような名前の一つ年下の妹がいて、その頃のミロとアイラは身長が同じくらいで、ミロはその頃から身長がほとんど伸びていないから、それはだいたい間違いがないと思う。
幼馴染みというだけあって、アイラの家は、今現在ぼくのいるこの家の二件隣りに建っていて、しかもぼくたちは幼稚園から小六までずっとクラスまでもが一緒だったから、ほとんど毎日一緒に手をつないで登園、登校するほどの仲よしだった。
と言ってもそれはせいぜい一年生くらいまでで、二年生になってからはぼくの代わりにミロがアイラと手をつないで登校し、その三メートルくらい後ろを、ぼくが小石を蹴ったり通りすがりの葉っぱをちぎったりしながら落ち着きなくついて歩くというのが毎朝のお決まりで、それが卒業するまで延々と続いたから、ぼくは小学生の頃のアイラを思い出すとき、自然と後ろ姿と横顔を思い出してしまうことが多いかもしれない。
そんな感じだったから、中学生になってからもきっとそうなんだろうと漠然と考えていたのだけど、アイラは予想外にも、偏差値のちょっと高過ぎる私立の名門中学校を受験して、というか両親にさせられたようだったけれど見事無事に合格して、その後家から徒歩と電車で一時間以上もかかる市内の学校に通うことになってしまったから、中学に上がってからのぼくたちは、まったくと言ってもいいほどに口を利かなくなった。
実のところ、小五くらいからアイラとぼくは、既にほとんど口を利かなくなってはいたのだけど、でも中学に上がってからは、利く機会があってもあえて利かないようになった。向こうはそうでもなかったみたいだったけど、ぼくの方が単なる幼馴染みではなく、一人の女子としてアイラを意識し始めていたからだ。
ただミロの方は、そんなぼくと反比例するかのようにぐんぐんアイラと仲良くなって、いつからか二人は本当の姉妹みたいになっていた。
もちろんそれはぼくの思う理想の姉妹像に過ぎないのだけど、それはさておき、ミロは中学に上がったときに、謎の不登校を約一週間ほど発動し、その間家族の誰とも一切口を利かなかったのだけど、そのときでさえもアイラとだけはちょくちょくと携帯で連絡を取り合っていたくらいだったから、自分でもきっとそう思っていたと思う。
そんな感じの二人だったから、週末になるとミロはアイラの家によく遊びに行って、ときには二人で市内にある天文館という屋根付きの繁華街にまで遊びに行ったりなんかしていた。ちなみになぜ繁華街に屋根なんてご大層なものが付いているのかというと、それは南国特有の強い日射しを防ぐ目的もあるのだけれど、真の目的は、それ以上に厄介な桜島の火山灰を防ぐためだったりする。