chapter0.『記憶』
天上《てんじょう》家のリビングルーム。
深夜一時という辺りが静まり返っている時間帯に、二人の声がした。
「……そうなの……。今日も部屋から一歩も出ていなくて……っ、あの子……うぅ……っ。学校に行ってみない?って言ったらあの子、今まで見た事もないような恐ろしい目で……ッ!」
女は涙を流しながら続ける。
「ねえ、あなた……玲花《れいか》に一体何があったの……!? 以前はあんなに優しかったあの子が、どうしてあんなになってしまったの……っ!?」
「落ち着くんだ、弘子《ひろこ》。私たちがしっかりしなくてどうする。私たちも辛いが、きっとあの子が一番辛いはずなんだ。親である私たちがあの子の事を守ってやらないと、あの子は本当に独りぼっちになってしまう。あの子の事をわかってあげられる人はいなくなる……!」
男が女をなだめるようにして背中をさする。
「……ぐすっ……、そうね……。私たちが、あの子の味方になってあげないとね……」
女——天上弘子は指で涙を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。
「私、ちょっと玲花の様子を見てくるわね……。お布団はいじゃってたらいけないし……」
「……うん、そうしてあげなさい」
男の暖かな返事を受け取って、弘子は二階の玲花の部屋へと向かった。
「……」
ギシギシと階段がきしむ。
普段は全然気にならないような音も、今は驚くほどよく聞こえる。
……大丈夫。何も怖い事なんてない。
少しずつ速まる鼓動を押さえ、弘子が部屋のドアノブを握ったときだ。
「——ッ……!?」
背筋が凍り付くような悪寒。
まるで、この先に何か恐ろしいものが待っているかのような、ねっとりとした空気。
(何なの……この嫌な感じは……!)
ドアノブを掴んでいた手を離す。
よくわからない”何か”が、弘子に恐怖を与えた。
(……いや、これは何かの、気のせいよ。きっとあの子、窓を開けたまま寝ちゃったのよ、そうに違いないわ……!)
高鳴る鼓動を押さえ、ゆっくりとドアを開けた。
廊下の光が差し込み、弘子の影を部屋の中に作り出す。
「……っ」
徐々に見える部屋の様子。
半分ほどまで開いて視界に入ってきたものは、窓際にゆらりと立っている——
「——……!! ……れ、玲花っ……はあ……」
胸を撫で下ろす。
そこにいたのは娘だった。……よく考えると当たり前の事なのだが、その事は弘子に安堵を与える。
そして思った通り、窓が開けっ放しになっていた。
「ご、ごめんね……起こしちゃった……?」
「……」
返事はない。……ただ、静かに窓の外を見ている。
「そんなところにいたら、風邪引いちゃうよ? もう夜も遅いし、休まないと身体に悪いよ?」
「……」
「ねえ、玲花……どうして、毎晩そこに立っているの?」
「…………」
「外に……誰かいるの……?」
「——百合子《ゆりこ》」
「ッ……!?」
弘子は一瞬ひどいめまいを感じた。
窓の外には誰もいない。ただ、風にカーテンがなびいているだけだ。
「百合子、ちゃんって……?」
「——友達」
周りが一回転するような気持ち悪い感覚。……本当に、何か異様なものがこの場を支配しているみたいだ。
「ね、ねえ玲花。お母さんたち、話し合ったの。私たちだけでも玲花の味方になってあげようって。だから、ちゃんとあなたの事を、あなたの友達の事を知っておきたいの。私にも……あなたの友達の事、教えてくれる……?」
「……」
沈黙を承諾と受け取り、続ける。
「あなたの友達……百合子ちゃんとは、いつから仲がいいの?」
「——ずっと前から」
「今もあなたと、同じクラスなの?」
「——そう」
「同じクラスって……?」
「——2年5組」
「そうだよね。みんな仲が良くて、とても素敵なクラスだって聞いてるよ。……でもね」
少し間を置いて、
「でもね……っ、どの子に聞いてもね、その子の名前だけ……」
「——出てって」
「え……?」
「——どうせ信じてくれないくせにッ!! 出てってよ!!」
「きゃあっ!」
突然の怒号に弘子は尻餅をつく。
「——そうやっていつも信じてるふりをして! 私の味方のふりをしてっ! 本当は何にも信じてないくせにッ!!」
玲花が壁に拳を打ち付ける。何度も何度も何度も何度も、何度も打ち付ける。
「落ち着いて、玲花っ! いないの! そんな子はいないのよッ!」
「——いるよッッ!!!」
キーンと耳をつんざく悲鳴のような声で玲花は、
「——私がっ……私がっ、私が殺したんだ!! わかってたのにッ! 私のせいで……私のせいでぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇッ!!!」
「玲花、やめてっ! お願いだからやめてぇッ!!」
ガンガンと壁に頭を打ち付け始める玲花を、後ろから羽交い締めにする。
「——いやあぁぁっっ! 離してぇぇぇぇぇぇッ!!」
「ね! 明日から学校に行ってみよう!? そうすれば友達に会えるよ!? みんな玲花に会いたがってるよ!?」
「——いやあああぁああぁぁああぁあぁあぁァァァァァァァァァァァァ!!」
暴れる玲花をなんとか落ち着けようとするが、勢い余って娘もろとも床に倒れてしまう。
近くの本棚から分厚い本が何冊も、勢いよく落ちてくる。
「玲花! お願いだから落ち着いてッ!! そうだ病院、明日お母さんと一緒に病院に行きましょう!? ね!?」
「——どうしてよッ! どうして誰も信じてくれないのぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉッ!!」
玲花の叫びに呼応するように、開け放たれた窓からびゅおうと風が吹いた。
そして……それは本棚から落ちて来たであろうアルバムのページをめくり続けて——
——見知らぬ少女が映っている写真のページで止まった。
chapter0.『記憶』 ~END~