ガラス越しの微笑み
僕は君を見ていたんだ。ずっと見ていた。
その綺麗で小さな手に触れたいと思った。一度で良いから触れたかった。
でも僕らの間には透明な壁があったんだ。
僕がそこを通ったのは偶然だった。
とある病院で道に迷ってしまったんだ。そしてたどり着いた先には彼女がいた。
彼女はどこも悪くなさそうなのに、右には点滴がポタポタと滴を落としていて、その異様な風景に僕は息をのんだ。彼女は端整な顔立ちをしていて、本に目を落としているためこちらに気づかない。
「……どこか悪いんですか?」
なるべく大きな声で僕は言った。すると彼女はこちらに気づき、本を閉じて切ない笑顔を僕に向ける。
「そうなの、こっちには悪い菌がたくさんいるから、私はここから出ることはできないの」
澄んだ、それでも元気な明るい声だった。僕はビックリして声も出なかった。まさか応えてくれるなんて思ってもいなかったから。
それから僕は暇を見つけては足しげく彼女の元へ通うようになった。
昔、彼女は研究者だったらしい。なんでも子供たちのために薬を作っていたそうだ。
そんなとき、彼女は研究に失敗してしまい、こうなってしまった。彼女だけが生き残って他の研究チームの人は亡くなってしまったことを彼女は気にしていた。
毎日のように通う僕は彼女の話を聞く。
来る度に、彼女はよく涙を流していた。
「もう、私にできることは何もない……」
ベッドにうずくまるようにこちらに背を向けて彼女は泣いていた。
代わりに僕は何か出来ないのか。いつもそう思っていた。
「その子供たちを救う研究ってどんなの?」
その言葉が出るまでそう時間はかからなかった。彼女のそのときの瞳が輝く瞬間を僕は今でも忘れない。
でも、僕は押してはいけないスイッチを押してしまったのかもしれない。彼女から流れ出す専門用語の数々に僕は首をひねった。頭が痛くなるばかりで何もわからない。
やっぱり僕は彼女のために何もしてやれない。
「……って事なんだ。わかるかな?」
「ごめん、僕……頭悪くて」
そう言うと彼女はため息を一つ小さく吐くとまたあの笑顔で言葉を紡ぐ。
「でも、ありがとう。もう難しい話はなしで話そうか」
それから僕と彼女はひたすら他愛ない会話をしたんだ。
おもしろい内容の本の話とか、今はやってる映画やバラエティー番組のこととか。
僕らはガラス越しに話をし続けた。
実際に同じ空気を共有できなくても、とても嬉しかった。
君の笑顔が一番世界を救うんだ。
君は知ってるかい?あれから僕も勉強して研究者になったんだ。
君の断念せざるを得なかった子供たちを救う研究をしてるんだ。
今でもずっと僕は思うんだ。だから僕は君に言いたい。
触れあうことはなくても確かに触れあっていたよ。
僕たちは笑って過ごした、きみのさいごまで。