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「飲み物はどうする?」
濡れても大丈夫なようにとラミネート加工を施されたメニュー表を手に、侑衣が尋ねてくる。案内された個室は2人で使うには少し広く、わずかに煙草の臭いがこもっていた。侑衣はそんなことを気にする様子もなく「私はレモンスカッシュにしよう」などと呟いている。るうかは大人しくアイスコーヒーを頼むことにした。
個室内に設置された電話に向かって侑衣が飲み物を注文している。るうかはどうしていいものやらと迷い、座っているだけだった。勿論、るうかもカラオケ店が初めてというわけではない。静稀や理紗と共にこの店にも何度か来たことがあり、繁華街の店にも行ったことがある。ただ、侑衣の凛とした佇まいとカラオケ店という俗っぽい場所とのイメージがあまりにもちぐはぐで、ここで何をしたらいいのかが分からないのだ。そんなるうかに、侑衣は慣れた手つきでマイクと選曲用の機械を手渡してくる。
「歌う?」
「え、あの……」
「私がこういうところに来るとは意外、と。そう思っているんだね?」
「……その通りです」
素直に頷いたるうかに、侑衣は少しだけ心外そうに唇を尖らせながら笑う。
「私だって普通の高校生だよ。友達とカラオケに来たりくらいはする」
「そ、そうですよね」
「と言っても、中学まではほとんど遊びになんて行かなかったんだけどね。高校に入ってから……いや、向こうの世界で勇者として目が覚めてから、少しずつ私の生活は変わっていったんだ」
楽しそうに、そしてどこか懐かしむように言いながら侑衣は機器を操作して曲の予約を入れた。少しの間の後で流れ出したイントロは軽快で、近頃テレビのコマーシャルでよく耳にする女性歌手の新曲だと分かる。侑衣は左手でマイクを持つと、丁寧な調子で歌い始めた。サビの高音部分を軽やかに歌い上げた彼女にるうかは思わず拍手を送る。
「先輩、歌も上手いんですね」
「ありがとう。さあ、私が歌ったんだからるうかもどうぞ」
そう言われると断るわけにもいかない。るうかは少し考えた後でいつも好んで聞いているお気に入りのアーティストの曲を入れる。新しい曲ではないがそれなりにメジャーなものなので、侑衣も聞いたことくらいはあるだろう。激しいイントロから始まるその曲は本来男性歌手が歌っているものだが、るうかにとってはちょうど歌いやすい音程でもあった。
派手な出だしに軽くシャウト、一転して穏やかなメロディにできるだけ伸びやかな声を載せる。ロックとポップスの中間に位置するようなその曲は顔を上げて前を向きながら生きることの尊さを軽妙な歌詞で綴る。そこには恋も愛も友情すらも、そして夢も希望も平和も未来も単語としては欠片も出てこない。一瞬、その瞬間に存在する自分を生きろと歌詞は言う。振り返るときにも立ち止まるなと歌は叱咤する。印象的なサビがるうかの背中を押すように、その腹の底から震える空気を押し出した。
残る余韻、静かなピアノのフレーズが消えて侑衣がにっこりと微笑みながら拍手を返してくれる。
「意外だね、こういう感じの曲が好きなんだ?」
「意外ですか。割と人気のあるアーティストだと思いますけど」
「あんまり激しい曲を歌うイメージじゃなかった。でも、いいね。るうかに合っていると思うよ」
そのようなことを言われたのは初めてだった。静稀や理紗はるうかの趣味を知っているので今更驚いたりはしないが、他のクラスメイトとたまたま一緒にカラオケ店に入った時にはるうかの選曲に対して文句をつける者さえいたほどだ。曰く、「舞場さんがロック叫ぶとかありえない」ということらしい。そのエピソードを教えると、侑衣はふふんと楽しげに笑う。
「ありえない、か。きっとその子は想像もしていないんだろうね。君や私が向こうの世界でどんなものと戦っているかなんて」
「それは、想像できない方がいいと思います」
「同感。……でもるうか、あれはやっぱり現実だと、私は思うんだ」
侑衣がそう言ったところへ、店員が注文しておいた飲み物を持ってやってくる。礼を言って受け取り、それぞれに自分の注文した飲み物で一旦喉を潤してから再び会話を始める。
「おかしな話だと思う部分も勿論あるよ。それでも、あれをただの夢で片付ける気にはなれない。君だけじゃなく他にも多くの人が同じ夢を見て、それぞれの世界で生きている。そして死んでいく。あまりにもリアルで、実際のところ気味が悪い」
カラン、と侑衣の手元でレモンスカッシュに浮かぶ氷が音を立てる。彼女はわずかに視線を落としながら小さく溜め息をついた。
「こういうところは多少込み入った話をしても他の人に聞かれる心配があまりないからね。だから普通の喫茶店とかじゃあなくてカラオケにしたんだよ」
「……そうだったんですね」
「歌いたかったら歌ってもいいし、どうする?」
「お話を聞かせてください。何か私に話したいことがあるんですよね?」
るうかが問い掛けると、侑衣はありがとうと言って頷く。彼女は適当に何曲か予約を入れ、音量を小さめにして音楽だけを流すように調整した。これでるうか達の話し声が外に漏れる心配はほとんどない。それから侑衣は改めてレモンスカッシュを一口含み、それを飲み込んでから口を開いた。
「何から話そうか。まさか同じ学校で君に会うとは思っていなかったから、あんまり段取りを考える時間もなかったんだ。でも、伝えておきたいことがいくつかある」
「……はい」
「そうだね、じゃあまずは私達の共通の話題ということで“勇者”の話でもしようか」
それから侑衣は自分が勇者として向こうの世界で目覚めてからの経緯をかいつまんでるうかに話して聞かせた。彼女は鼠色の大神官、つまり浅海柚橘葉の管理する神殿附属の研究施設で生み出されたのだそうだ。るうかと同様、クローンとして再生される以前の向こうの世界での記憶はないという。ただ、輝名が独自に調査をして侑衣に教えた内容によると、彼女は元々神殿関係の雑務をして生活していた孤児だったらしい。
「私はこっちの世界の生まれだから、向こうの世界にはルーツがない。孤児っていうのは当たり前だ。それが運良くと言うべきか神殿に拾われて、買い出しやら神官の手伝いをして暮らしていたんだそうだ。そのうち私が現実で剣道をやっていることを知った神官が神殿直属の戦士として私を登用し、私は前線に駆り出されるようになった。大体10歳くらいのときだったらしい」
「10歳……まだ小学生じゃないですか」
「アッシュナークの大神殿はともかく、地方の小さな神殿は常に人手不足だ。戦える人材は少ないし、神官の数も限られている。皮肉なことに、野良で出現する“天敵”よりも祝福を授けたせいで“天敵”化する神官の方がよっぽど多いんだよ。何しろ少ない神官が多くの治癒術師に祝福を授けるから、その治癒術師が大きな治癒術を使う度に神官達は“天敵”に変わっていく。地方の神殿戦士の主な仕事はそんな神官達の腕や脚を斬り落としていくことだった。そうすればいざ全身が“天敵”になるときが来てもひとまず小さな個体になるからね。倒すのも比較的簡単になる」
神官達は“天敵”となることを前提に治癒術師達に祝福という魔法をかけている。それは神官達自身に対する呪いであり、彼らを運命づけられた死へと着実に誘うものだ。だからこそ、神殿の戦士はそんな彼らの手足を斬ることで予測される被害を最小限に食い止める役目を負っているのだろう。理には適っているが、すぐには納得できない話だった。
黙って話を聞くるうかに、侑衣はゆっくりと続きを語る。
「まだ子どもだった私は戦士といってもあまり戦力にはなっていなかったんだろう。それでもある時そこの神殿で“天敵”化した神官が暴走する事件があって、私も駆り出されたらしい。そして命に関わるような大怪我をして、すぐに治癒術師による治療を受けた。でも、それが悪かった」
「……その治癒術師の人は、“天敵”になった神官の祝福を受けていた……?」
「そう」
短く頷き、侑衣は優しい眼差しでるうかを見つめる。
「何しろ人手不足。“天敵”になってしまった神官にはもう祝福の効果を保つための能力はない。それなのに治癒術師は無理に私の治療をおこなった。結果として、私はその大きな治癒術によって体細胞に異常をきたして第二の“天敵”になってしまった」
輝名が調べた資料にはそのときの様子が時系列に沿って克明に記録されていたのだという。るうかは何も言えないままじっと侑衣の話に耳を傾ける。
「そこからがちょっと妙な話でね。“天敵”になった私はどうやら元神官の“天敵”を相手に攻撃を仕掛けたらしい。“天敵”と言えば人間以外を食べることはないし、“天敵”同士で干渉し合うこともまずない。そんな知能は具えていないはずなんだ。ところが“私”は“天敵”を攻撃した」
そこへ現れたのが鼠色の大神官、浅海柚橘葉本人だったのだという。彼は佐保里を伴ってその神殿に現れ、彼女に指示をして元神官の“天敵”を倒させた。そして侑衣が変化した“天敵”を封印して研究施設に持ち帰ったということだった。
「“天敵”になってなお“天敵”を攻撃する、その精神性が見込まれた……と有磯さんは言っていた。それから4年をかけて私はクローンとして向こうの世界での新しい肉体を手に入れ、勇者と呼ばれる存在に生まれ変わった」
10歳から数えて4年後ということは14歳、中学3年生の頃ということになる。治癒術師だったるうかが“天敵”となって封印されたのと同じくらいの時期になるだろうか。ということは、当時の輝名はもう左腕を失っていたはずだ。だから勇者として目覚めた侑衣が彼の“左腕”としてアッシュナークの大神殿に勤めることになったのだろう。
「最初は随分混乱したし、怖かった。以前のことを覚えていないというのはとても気分が悪いものだね。君もそうじゃなかったかい?」
「そうですね。覚えていないことが悪いことであるような気がすることもあります」
「私もだよ。有磯さんから話を聞いたらなおさらだった。それでも事のあらましを教えてくれた彼には本当に感謝している。私のなくした記憶を補ってくれたんだ。だから私はその恩に報いるために彼の“左腕”として大神殿で働くことにした」
すっ、と侑衣は自らの左腕を前へと伸ばす。制服のブレザーに包まれた彼女の腕は真っ直ぐで、その指先は爪の形までもが凛々しく思える程に整っていた。その腕で一体何度、輝名と共に戦ってきたのだろうか。
「るうか、君に託したいものがあるんだ」
そう言って侑衣は左腕をピンと伸ばしたままわずかに瞳を伏せた。
執筆日2014/03/28