1
次の朝、るうかは珍しく目覚まし時計のアラームが鳴るより早く目を覚ました。時計の針は午前5時45分辺りを指している。いくら何でも早すぎると思いながらも二度寝を決め込む気にもなれず、るうかは布団を被ったまま枕元にある携帯電話へと手を伸ばした。紫がかった黒のそれは彼女と頼成を繋ぐただひとつのものだ。開いてみるとそこにはいつぞやの墓地で撮った2輪のケイトウの花の写真が鮮やかに頼成からの連絡を待っている。これはるうか自身の携帯電話から転送したもので、今のところ待ち受け画面をこれ以外のものにするつもりはなかった。
寂しさは拭えない。メールも電話も比較的頻繁にしていると思うが、毎晩同じ夢の中で行動を共にしていた頃と比べて2人の距離はあまりにも遠すぎた。るうかは溜め息をつき、目を閉じて枕に顔を埋める。いつの間にこれほどまでに彼を愛しく思うようになってしまったのだろう? 全ての始まり、切っ掛けはそう、夢の中でおぼろげに聴こえた彼の声だった。それはやがて夢を越えて現実となったが、こうして離れてみるとまるで何もかもが夢で終わってしまいそうな気さえしてくる。そんなことを言えばまた佐羽が拗ねるだろうか。
「……頼成さん」
るうかは携帯電話に向かって呼び掛けた。勿論、このような朝早くに電話やメールをするつもりはない。いくら寂しいからといって、そのような迷惑は掛けられない。彼もままならない現実と戦って、そしてるうかを守るために自分の信念すら削りながら生きているのだ。その思いが痛い程に伝わってくるから、るうかは時々とても苦しくなる。
相手を苦しめる恋愛に何の意味があるのだろうか。互いに求め合い、慈しみ合い、尊敬し合い、そして守り合うために離れてしまってはその愛しさの分だけ傷が抉られていくばかりだ。胸にぽっかりと空いた穴は携帯電話ひとつで埋まる程に小さく浅いものではない。
「頼成さん……」
どうしてか、今朝は無性に彼に会いたかった。
やがてるうかは気を取り直して制服に着替え、朝食をとって学校へ向かう。以前交通事故により大破させてしまった自転車は未だに新調できていない。両親との約束では次のるうかの誕生日に新しいものを買ってもらえることになっているので、あと少しの辛抱だ。しかし慣れてしまえば地下鉄通学もそう悪くはない。ただ、うっかり1本乗り遅れると通勤ラッシュと重なるために車内がすし詰め状態になる。朝からそのような苦しい思いをするのは御免なので、るうかは必然的に以前より早く家を出るようになっていた。
教室に入るとわずかにひやりとした空気がるうかを出迎える。静かな室内には他に2人の生徒しか見当たらない。佐羽との写真の件で広まった噂もいい加減下火になっており、るうかのこちらの世界における日常は平穏を取り戻していた。穏やかな時間は嬉しいが、それもまた頼成の努力があってこそのものだとるうかは自分に言い聞かせる。それはいつ崩れるか知れない危ういものなのだ。
「おはよ」
軽い声がして、眠そうな顔をした祝が教室に入ってきた。秋の大会で所属する野球部が3回戦で敗れた後、彼は副主将となって部をまとめる立場に就いている。そうは言っても近頃は朝練も少しペースダウンしているとのことで、彼はいつもどこか気怠そうに欠伸を噛み殺しているのだった。覇気がない、という表現がしっくりくる。
「おはよう、桂木くん」
るうかは隣に座った彼に声を掛けると、早速昨夜の夢の中で聞いた名前について尋ねてみた。
「桂木くん、ちょっと聞きたいんだけど。穂香暁人さん、っていう人を知ってる?」
「へ?」
祝はどこか間の抜けた顔でるうかを見て、それからこくりと頷いた。
「知ってる。つーか、穂香先輩はこの間引退したうちの主将」
「そうなの?」
「3回戦の9回裏2アウト満塁で凡退したうちのエース様よ……」
「……ああ……あの時の」
祝の語った悲しいエピソードにより、るうかもその姿を思い出した。かねてからの約束通りに理紗と共に観戦した野球部の試合で最後の最後に逆転することができず悔しさに身を震わせていた青年を覚えている。身長は祝より少し低いものの、引き締まった身体つきに凛々しく整った顔立ちをした精悍な青年だ。醸し出す雰囲気がどこか他の部員とは異なり、一目で彼が主将だと分かるような、そんな独特の存在感を持つ選手だった。
「で、穂香先輩がどうしたの?」
祝は少しだけ鋭い目つきをしてるうかに尋ねる。彼は元々あちらの世界で死線を潜り抜けながら生活していた人間だ。夢の世界と決別した今でも当時の記憶はしっかりと残っているようで、そんな彼になら話してもいいかとるうかは簡単に事の次第を説明する。ただし、佐保里が関わっていることについては伏せてあくまで神官としての穂香暁人が“天敵”化して死亡したということだけを伝えた。祝は一瞬顔をしかめたあと、あーあと納得したような呻き声を漏らした。
「そうか、それで先輩……夏前辺りから調子悪そうだったのか」
気付かなかった。祝はそう言って悔しそうに瞳を伏せた。るうかもそんな彼に同調し、うんと頷く。きっと暁人という青年は夢の中で段々と“天敵”と化していく自分の身体、その恐怖と戦いながら現実の日々を過ごしていたのだろう。野球部を率いる主将という重責を背負い、治癒術師達の痛みを肩代わりする神官という役割からくる苦痛と戦い、彼は相当に疲弊していたに違いない。
祝が気付かなかったことを責める者は誰もいない。彼自身もまた虹色の女王の領地という特殊な場所で特殊な任務を負い、過酷な日々を送っていたのだ。他人を気遣う余裕などなかっただろう。祝はそのことも分かった上で、それでも拭いきれない悔しさを拳に握り込んで軽く机を叩いた。
「……はぁ。それにしても、先輩までがあっちの世界にいたとはね。世間は狭いのな」
「そうだね」
確かに祝の言う通りである。るうかにしろ祝にしろ、そして頼成や佐羽もまたこの学校に在籍していた事実がある。それにるうかの友人である理紗や今回の穂香暁人もまたこの学校の生徒であり、夢の世界の住人でもあった。ひょっとするとまだ他にもいるのかもしれないな、と祝が溜め息混じりに言う。
「この街をちょっとひっくり返せばそこはもうあっちの世界なんじゃないか、って思うことがある。おかしいよなぁ、もうあの世界を夢に見ることはなくなったのに」
祝のルーツは向こうの世界にある。こちらの世界を現実と決めてもなお、その心には向こうの世界が残っている。彼にとってあちらの世界は決して逃れることのできない記憶を伴った故郷なのだ。
「不思議だよね」
るうかはぽつりと呟き、祝もまた「ん」と軽く頷く。それからるうかは穂香暁人のクラスを祝に尋ねた。それを知ってどうするのかと祝は尋ねたが、るうかとしても大したことをするつもりはない。ただ、彼がこちらの世界で今無事でいるのかどうかを確認したいだけだった。るうかが素直にそう答えると祝もそれならと彼のクラスを教えてくれる。
始業まではまだ大分時間がある。るうかはとりあえず教えられた穂香暁人の教室へ行ってみることにした。3年生の教室はるうか達2年生の教室の下の1階にある。進路別に文系理系と分けられた教室は全部で10あり、穂香暁人はそのうちの理系クラスである3組だということだった。祝の話によれば彼は春国大学の医学部を目指しているらしい。それでいて野球部の主将も務めていたというのだからいっそ空恐ろしい話である。
るうかはわずかに緊張しながら3年3組の教室を覗いてみた。そろそろ大半の生徒が登校してきているようだが、その中に見覚えのある姿はない。まさか昨夜のことが原因で体調を崩したりしているのではないかとるうかが不安に顔をしかめたその時、背後から涼やかな声がした。
「誰かに用事?」
慌てて振り返ったるうかの前には黒髪を背中に流した1人の女子生徒が立っている。切れ長の漆黒の瞳に細いフレームの眼鏡がいかにも理知的な印象を醸し出しており、さらに加えて背筋がピンと伸びている様子が実に美しい。彼女は色白の顔の中で一際目立つ自然な朱色の唇を軽く笑みの形に曲げ、るうかに声を掛ける。
「2年生? 用があるなら呼んであげるよ」
「あ……ええと、穂香さんって来ていますか?」
「穂香くん? どれ」
彼女はひょいと黒髪を揺らして教室を覗き、「来ていないみたいだね」と首を傾げる。
「珍しい。いつもなら誰より早く来て自習をしているような人なんだけれどね」
「そうなんですか……」
ということはやはり体調不良だろうか。るうかの責任ではないものの、事情を知っているだけに何となく罪悪感を覚えてしまう。俯いたるうかを見て、黒髪の女子生徒は小さく息を吐いた。
「何があったか知らないけど、多分君の気にすることじゃない。ここのところ随分無理をしているようだったからね、彼も」
「……」
「ところで、良かったら私と少し話をしてくれないかな? 舞場るうかさん」
え、とるうかは驚いて女子生徒を見上げる。何故るうかの名前を知っているのか。一瞬様々な可能性がるうかの頭をよぎったが、その眼鏡の奥の瞳をじっと見つめているうちにやっと気が付いた。
「ひょっとして……ユイさん、ですか?」
「正解」
そう言ってあちらの世界で勇者をしている少女、ユイはどこか嬉しそうににこりと笑ってみせたのだった。
執筆日2014/03/28