4
日が傾き、西日がるうかの部屋の窓から柔らかく差し込む時間になって、佐羽が静かに彼女の部屋のドアをノックした。出迎えたるうかの元気そうな姿を見て彼はホッと顔を綻ばせる。
「良かった、もう大丈夫? 身体、痛くない?」
「大丈夫です。ところで落石さん、ちょっとお話いいですか」
るうかはそう言って彼を部屋に招き、佐保里が来た旨を報告した。すると案の定佐羽は怒りを顕わにしてるうかに対して文句を言う。
「なんでその時にすぐ俺を呼ばなかったの! 確かに君の身の安全は保障されている。でもそれは向こうの世界でだけだよ。こっちの世界では佐保里はいつだって君を排除しようとすればできるんだ」
「今日のところはそういうつもりはないみたいだったので。どうしてなのかは分かりませんけど」
るうかがそう言うと佐羽は子どものように口先を尖らせ、「何を呑気なことを言っているんだか。もう」とふて腐れたようにるうかに対してそっぽを向く。しかしやがてそんなことをしていても何にもならないと気付いたらしく、改めてるうかへと向き直った。
「それで、この町の神殿の神官が1人、“天敵”になって……それで佐保里がそれを封印して持ち去った、と。そういうことだね?」
「はい。確かほに……ええと、穂香さんって言っていました」
「……ほにおい?」
ん? と佐羽は口元に手を当てて考え込む素振りを見せた。
「知っているんですか? 珍しい苗字だと思いますけど」
「うーんとね、ああそうだ。高校の頃、俺達と同学年で穂香……穂香遥奈っていう子がいたんだ」
「女の子ですか。その人は男の人でしたよ。確か名前は……あきと、って言っていました」
「それ、彼女の弟だ」
「そうなんですか?」
佐羽の話によると、穂香遥奈は彼が高校入学当初に同じクラスになり、割合親しくしていた少女らしい。そして他愛のない話のついでに聞いた家族の話題から、彼女に2歳年下の弟がいるということを聞いていたらしかった。
「じゃあ……今高校3年生ですか。もしかして、うちの学校なんでしょうか」
「そうかもしれない。確か弟くんは野球をやっているとか言っていたから、祝くんに聞けば何か分かるかもしれないね」
桂木祝はるうかのクラスメイトで、野球部に所属するキャッチャーである。彼も以前はこの同じ夜の夢を共有していたが、前回の事件の際に向こうの世界で生きることを決断してこの世界と決別していた。
「そうですね……明日ちょっと聞いてみます」
「うん、一応少しくらい情報が欲しいところだから。お願いするよ。……それにしても、アッシュナークの鎮魂祭か。もうそんな時期なんだね」
佐羽は窓の外を見やりながらわずかに感慨深そうに目を細めた。
この世界には向こうの世界と異なるところが多くある。まず、この世界には月がない。代わりに夜を照らすのは満天の星々であり、蒼く降り注ぐ夜光が月明かり以上に世界を明るく見せているのだった。そしてもうひとつ大きく異なるのが、季節の変化がほとんどないということである。佐羽の話によれば本当にわずかな気温の変化や風向きの変わり目というのはあるらしいのだが、向こうの世界のようにはっきりとした四季は存在しないのだそうだ。一年を通じて気候がほとんど変わらないという意味ではこちらの世界は向こうよりよほど安定していた。
「ねぇ、向こうの世界の地学では、世界は宇宙に浮かぶ惑星だって教わったけど。こっちの世界はどうなんだろうね?」
佐羽は少しだけ面白がるような顔をして、るうかの表情を窺う。こちらの世界で生まれた彼にとって、向こうの世界の月や四季はきっと驚くべきものだったのだろう。るうかは少し考えて、答える。
「もしもこの世界も同じように惑星なんだとしたら、多分自転軸が公転軌道に対して垂直になっているんですよね。だから季節がほとんどないんでしょう」
「ううん、思った以上に専門的な答えが返ってきたなぁ」
「そして、月がないっていうことは衛星がないんでしょう。私も地学はそんなに得意じゃないのでよく分かりませんけど……」
「あはは、俺はそもそも理系はてんで駄目だったから。多分今のるうかちゃんの方が俺よりできると思うよ、理系は」
そう言って現在春国大学文学部英文科に通う文系大学生の佐羽は声を立てて笑った。そこへどうやら外から帰ってきたらしい湖澄が話し声を聞きつけて部屋を訪ねてくる。
「地学の話、か?」
「あ、おかえり湖澄。聞いてよ、佐保里の奴がるうかちゃんにちょっかい出しに来たんだよ。もう俺腹立っちゃってさぁ」
「隣の部屋にいたのに気付かなかったお前の責任じゃないのか」
ばっさりと斬り捨てるような湖澄の言葉に佐羽は眉根を寄せて押し黙った。どうやら何も言い返せないようだ。湖澄はそんな彼のことにはほとんど関心がないらしく、まずるうかの表情や様子を見て先程の佐羽と同じように安心した顔を見せる。それから、町でちょっとした騒ぎがあったと2人に伝えた。
「何があったんですか?」
「神殿の地下施設に隔離されていた神官が1人、忽然と姿を消したそうだ」
「……ああ、それ……」
るうかが説明しようと口を開きかけると、それを遮るように佐羽が「それ佐保里の仕業」と最も簡単な返答を投げる。湖澄は強く顔をしかめて佐羽を見た。
「“一世”直属の紫色の魔女が動いたということは、“天敵”になった神官を封印して連れ去ったということか」
「わー、さっすが湖澄。理解がはやーい」
「大神官の命なら神殿に話を通せばいいものを、何故そうしない」
「そんなこと俺が分かるわけないでしょ」
湖澄は佐羽の話を聞いているのかいないのか、マイペースに話題を進めている。すっかり拗ねた佐羽はベッドの上に座っているるうかの方へとにじり寄ってきた。
「るうかちゃーん、相手してー」
「落石さん、お酒でも飲んでたんですか?」
「いや、酔ってなくても絡むよ、俺」
「それは性質が悪いですね」
「ねぇ、なんで2人共そんなに俺に冷たいの?」
そう言いながらどういうわけか佐羽はぎゅっとるうかに抱きついてくる。セクハラまがいのことをすれば湖澄が構ってくれるとでも思ったのだろうか。生憎その前にるうかが得意の鉄拳を炸裂させるわけだが。
「あ、ぐぅ……」
自業自得。情けなくも床に転がって悶絶している佐羽のことはまぁいいとして、るうかは湖澄に向かってこれからの予定を尋ねる。つまり佐保里の誘いに乗ってアッシュナークへ赴くか否かということだ。るうかからアッシュナークの鎮魂祭について聞いた湖澄は小さく頷きながらもどこか不安そうに彼女から目を逸らす。
「浅海佐保里がわざわざ舞場さんに接触して“天敵”の封印に立ち会わせ、鎮魂祭へ誘ったということが気にかかる。何か罠を仕掛けてくるかもしれない」
「と言うより、十中八九罠でしょ。そうじゃなかったらわざわざ佐保里がるうかちゃんに手も出さずに情報を提供しにくる理由が見付けられない」
未だに床に転がったままの佐羽がとても不服そうにそう言うと、湖澄もそれには同意の頷きを返した。
「それにしても、アッシュナークか。今年すでに大きな騒ぎを起こしているというのに、大神殿側は一体何を考えているんだ」
「輝名に聞けば何か分かるかもしれないけど、ね。今のところは情報なし?」
有磯輝名は鼠色の大神官の根城であるアッシュナークの都にある大神殿で大神官代行の地位にあり、湖澄と同じく“二世”と呼ばれる特殊な人間でもある。彼と湖澄は双子であり、その本来の役割は“一世”達の遊戯やそのルールを監視することにあった。そうは言っても彼らも特殊な役割を持っているだけで人間であることに変わりはない。遊戯やルールについてはある程度詳しいことを知っているようだが、事態の把握においてまで先手を打てるわけではない。
「聞いてはみる。今のところ、向こうから特に何も言ってきてはいない。ただ」
「ただ?」
「……3日前だったか。珍しく輝名から電話があった」
湖澄は不可解そうに顔を歪めてそう語る。それを聞いた佐羽はむっくりと床の上に身を起こし、首を傾げた。
「珍しいんだ?」
「ああ。あいつは忙しいらしく、滅多に電話はしてこない。用があれば大抵メールだ」
「ふうん? じゃあ何か緊急の話題だったの?」
「いや、そういうわけでもなかった。ただの世間話だ」
そう言いながら湖澄はますます眉根を寄せ、うーんと唸った。どうやら輝名から彼に電話があるというのはそれほどに珍しいことらしい。そうなるとるうかも少し興味が湧いてきて、湖澄に問い掛ける。
「世間話って、どんなですか?」
「天気の話や、学校の話。今俺は学校に行っていないから、そのことも踏まえて大検を受けるつもりはあるのかだとか、いつまで他人の脛をかじって生きるつもりだとか」
「なんだかお説教みたいですね」
「あいつの性分だからな。基本的に世話焼きなんだ」
「ああ、それは……分かります」
「それで、あとは珍しく恋愛の話を振ってきたな」
「恋愛、ですか」
「舞場さんと頼成のことも話題にしていた」
「勝手に人のことを話題にしていたんですか」
それはそれで結構だが、るうかとしては少々気恥ずかしい。湖澄はるうかのそんな内心には気付かないようで、淡々と話を進める。
「互いに尊敬し合い、高め合える君達の関係は理想的だと言っていた。そして俺にはそういう相手はいないのかと聞いてきた」
「兄弟の会話としてはまぁ、特別変なことじゃないんじゃないの」
佐羽が言い、るうかも一応頷きながら湖澄の話を聞く。向こうの世界では他人として暮らしているものの、彼らの血の繋がりは強固だ。何しろ一目見てそうと分かるほどに顔立ちがそっくりなのである。だから彼らが兄弟らしい会話をしていたところで特に不思議はない。むしろ不思議がっているのは当の湖澄のようだった。
「一見無駄とも思えるような他愛のない会話で、あいつは2時間も話し続けた。こんなことは初めてだ」
「……2時間、ですか」
さすがにるうかもそれは少し長いと感じる。るうか自身は静稀や理紗といった友人とそれくらいの長電話をすることもあるが、輝名がそれを、しかも決して話上手というわけでもない湖澄を相手にしていたというのは確かに何か妙である。
「ふうん。たまに君の声が聴きたくなったんじゃないの」
佐羽があまり興味なさそうにそんなことを言って、どうせ同じ声だぞと湖澄が返す。確かに2人は声もまるきり同じと思えるほどにそっくりだった。しかし佐羽は「そういうことじゃないと思うけど」と苦笑する。
「輝名、独り暮らししているんでしょ。たまに人恋しくなる時くらいあるんじゃないの。ま、そんなタマじゃあない気もするけどさ。でもそれくらいの人間らしさが彼にあったとしても、俺は驚かないよ」
「人恋しい、か」
そうかもしれないな、と湖澄は独り言のように呟いて頷いた。
執筆日2014/03/20