3
それから半日後、頼成は舞場邸に来ていた。海水に濡れた衣服は人のいない公園の水飲み場で洗い、ついでに髪も洗った。携帯電話以外に持ち出せたものがなかったために移動も全て徒歩である。おかげですっかり服も乾いたが、冷たくなり始めた10月の風は頼成の身体から熱と共に体力を奪っていった。
くたびれた身体を引きずるようにして舞場邸に辿り着いた頼成はそこで真新しい赤い自転車を目にする。るうかの好きな色だな、と考えて彼はふっと笑みを零した。
本当は、彼女が無事であればそれでいいのだ。頼成自身は彼女ともう二度と会えなくても我慢できる。いや、我慢などできないのだが諦める用意はある。ただし、それが彼女のためになるのであればの話だ。
るうかはこの間頼成に対してこう問い掛けた。
「もし、私がまたあなたのことを忘れてしまったら。そうしたらあなたはどうしますか?」
その時頼成は彼女に明確な答えを返すことができなかった。様々な憶測と感情がないまぜになり、何も決断できなかった。るうかはそれでもいいのだと言っていたが、頼成はそのことを今になって後悔していたのだ。どうして彼女がそのようなことを尋ねたのか、それに思い至っていれば彼女を苦しませることはなかったのかもしれない。向こうの世界での彼女の死こそ避けられはしなかっただろうが、それでも彼女が安らかに逝くために何かできたかもしれない。
だから今、頼成はここにいる。あの時彼女が頼成に望んだ答えは何だったのか、それは彼には分からない。分からないが、想像することはできる。るうかであればどう考えるだろうか。舞場るうかという少女であればどうすることを一番に望むだろうか。
すると不思議なほどに簡単に、呆気なく答えが見えたのだ。頼成は舞場邸の玄関フードに手を伸ばし、佐羽が置いていった受信機を手に取るとそれを無造作にポケットに入れた。大きさだけでいえば携帯電話とさほど変わらないそれは、緑の手によって改造を施された超高性能の品である。日河岸市内の全域かそれより広い範囲をカバーするほどの探知能力を備えたそれであればるうかがどこにいてもその場所を把握することができるだろう。そして今彼女が自宅に戻っていることは湖澄から連絡を受けて知っている。
用事は済んだ。頼成はダイニングと思われる窓に明かりの灯った舞場邸を見つめ、少しの間そこに佇む。るうかは今どうしているのだろうか。元気らしいことは分かっていても確かめたい思いに駆られる。できればせめてその声だけでも聞きたいと思ってしまう。
気が付いたときには頼成は玄関脇のチャイムに指を押し付けていた。しまった、と思うが遅い。出てきたるうかの母親である順が頼成を見て明るい笑顔を見せる。
「あらー、槍昔くん」
「あ……どうも、ご無沙汰しています」
思わず丁寧に頭を下げた頼成に、順はあらあらと笑った。
「るうかね、今日退院したのよ。待ってね、今呼んでくるから」
「あっ、待ってください!」
頼成は慌てて順を引き留めた。今会えば、頼成のことを覚えていないるうかと順の間で大きな認識の違いがあることが明らかになる。それを知ればるうかは戸惑うだろうし、順も娘の記憶についてひどく心配することだろう。頼成はチャイムを鳴らすべきではなかったのだ。それでも彼女の母親の口から直接るうかの無事を確認できたことで、頼成はとても安堵していた。
「今日は、帰ります。あの、るうかさんも……疲れているだろうし。俺が行ったら、気を遣わせるから。だから、今日俺が来たことはるうかさんには言わないでください。何も言わないでおいてください」
「槍昔くん」
順は少しだけ不審そうな顔をしたが、深く追及してくることはなかった。代わりに彼女は「知ってる?」と頼成に問う。
「あのねぇ、今日はあの子の誕生日なのよ」
そう言った順は嬉しそうで、それでいて切なそうな表情をしていた。頼成はその理由をるうかから聞いて知っている。彼女が息子を喪っており、今もまだその悲しみを抱えて生きていることを知っている。だから頼成は深く頷いて、それだけに留めた。
順に別れを告げて舞場邸の敷地を出ると、西日が通りを眩しく照らしていた。わずかに軽くなった身体で、頼成は元々自分が暮らしていたアパートを目指す。そこで最後に佐羽と待ち合わせているのだ。何しろ頼成は今自宅の鍵を持っておらず、佐羽だけが合鍵を所持しているのである。
頼成は普段であれば地下鉄を使うだろう道程をやっとの思いで歩いてきた。目前に見える慣れ親しんたアパートの姿に思わず頬を緩めたその次の瞬間、視界に赤いものが見える。すぐさま辺りの様子を窺った頼成だったが、特に危険な気配はない。そっとアパートの建物に近付いてみると、そこにはまだ新しい血痕と壁にもたれて腰を下ろしながらがくりと項垂れている佐羽の姿があった。
「おいっ! 佐羽!!」
頼成は佐羽の肩を叩いて声を掛ける。大丈夫、と細い声で返事があった。佐羽は閉じていた目を薄く開いて頼成を見ると、苦笑いをしてみせる。
「待ち伏せ、されちゃってた。俺も油断してたんだ、焦ってた」
「誰だ」
「佐保里だよ」
ふう、と佐羽は溜め息をついてその名を口にする。彼の上着の左袖は派手に血に染まり、顔色の悪い彼は少しばかり辛そうに空を仰ぐ。
「まぁ、君が浅海柚橘葉を裏切ったんだから当然といえば当然だよね。彼女がここに来るのも、出くわした俺を殺そうとするのも」
「……悪い。浅海側の動きも一応警戒していたんだが、そこまで考えに入れてなかった」
「俺もだよ。なんでだろう? どちらかというとゆきさんの方を警戒していた。変なの、俺達は鈍色の駒なのに」
「……」
頼成は無言で佐羽の頭をぽんぽんと撫でる。佐羽は少しだけむっとした様子で、それでも黙ってされるがままになっていた。そのとき、アパートの中からひどく目立つ緑色の髪をした大柄な男が出てくる。ゆっくりとした足取りで出てきた彼に向かって、頼成はほとんど反射的に飛びかかっていた。
「あ、頼成待って!」
「頼成くん」
気付いた緑がハッと銃を取り出す。そしてあろうことか彼はそれをそのまま地面に投げ捨てた。ごん、と音を立ててアスファルトに落ちた拳銃を見て頼成は足を止める。
「え?」
「安心して、頼成くん。阿也乃は君達を殺すつもりはないし、これ以上君達の邪魔をするつもりもない。だから僕はもう君達の味方だ」
「……どういう意味だ」
なおも凄む頼成に対して佐羽が壁にもたれたまま「緑さんは俺を助けてくれたんだよ」とほんの少し悔しそうに口先を尖らせて告げる。何? と頼成は佐羽を、そして緑を睨んだ。緑はそんな頼成に対してわずかに怒ったように眉を吊り上げる。
「それにしても頼成くん、なんであんな無茶をしたの? 車ごと海に飛び込むなんて」
「そりゃあ、あんたが追い掛けてくるからでしょうが」
「そして時間を稼いで、僕を撒いて。佐羽くんにこっちの世界の地下塔の調査をさせて……最後にここで待ち合わせ。どうだい、準備は揃ったかい?」
何もかも見透かしたような緑の言い方に、頼成はふんと鼻を鳴らして視線を逸らす。その足元で佐羽が小さく「ごめん」と言った。
「助けてもらう代わりに少し話したんだ」
「そりゃあ別に構わねぇよ、お前の生命の方が大事だ」
「ありがと。で、ね。結局頼成のやり方じゃるうかちゃんの記憶を取り戻すのは無理みたいだよ」
佐羽の言葉を聞き、頼成はそうかと軽く頷きながらがしがしと頭を掻いた。ここまで来て無駄足とは、とんだ1日だった。それでもやるだけのことはやれたのだろうか。
この世界でのるうかの安全を保障するため、頼成は浅海柚橘葉の側についた。同時に柚木阿也乃の間諜として柚橘葉側の動きをある程度阿也乃に報告する役目も担っていた。つまりは二重スパイというわけである。そうすることによって初めてどちらの“一世”の手からもるうかを守ることが可能になった。しかし勇者としてのるうかが死亡し、こちらのるうかも夢の中での記憶を失った今となっては彼女はすでに“一世”達にとって取るに足らない存在となっている。頼成や佐羽が大人しくしている分にはもう彼女が狙われることもないだろう。
それが分かっていてもなお、頼成はるうかの記憶を取り戻すために今日の1日を費やしていたのだ。正確には、るうかの失われた記憶の中から彼女の生命を脅かしかねない“天敵”化と死亡の記憶以外を抜き出して思い出させようとしていたのである。そのためにまずるうかの安全と所在を確認し、今後もしばらくはその動向を追うことができるように発信機入りのカプセルを服用させた。そして佐羽に頼んで阿也乃の家の地下にあるサーバ室でるうかの記憶についての情報を閲覧できないかどうか調べてもらったのだ。
以前頼成が行方不明になったとき、佐羽はるうかや緑と共にそのサーバ室で頼成の居場所を特定するために夢の世界の情報へとアクセスしたという。その事実から類推し、頼成は阿也乃が勇者であるるうかの見聞きしたこと、経験についてのデータを抽出・保存していると考えていた。そうでなくてはわざわざ手間暇をかけて勇者を作り出し、向こうの世界の治安維持に当たらせる意味がない。その寿命が短く限られているというのならなおさら、1人1人の勇者の記憶データは価値のある情報になる。
頼成はそう考えて、阿也乃の家の地下サーバ室からそのデータにアクセスできないか佐羽に調べてもらったというわけなのだが、しかしどうやらそれは失敗に終わったらしい。落胆の色を隠せない頼成に対して佐羽は小さく笑みを漏らす。
「ごめんね。残念だったね」
「……悔いがねぇ、とは言えないが。まぁ、走り回ったことを無駄だとは思わねぇよ。お前の怪我は俺の責任だ」
「まぁ、そういうのはなくていいよ。俺と佐保里の因縁は今に始まったことじゃないし、彼女も俺を殺さなかった。緑さんの助けがあったとはいえ、殺そうと思えばできたと思うよ?」
「……何か言いたそうだな」
「ま、とにかく君の部屋に入ろう」
そう言うと佐羽はよいしょと身体を起こした。出血そのものはもう治まっているのか、新しい血の色は見えない。彼は思ったよりはしっかりとした足取りでアパートの中へと入っていく。俺の家だっての、と言いながら頼成も、そしてその後ろから緑も建物に入った。
しばらくぶりの自分の部屋に入り、頼成は眩しさに目を細める。季節なりに低くなった太陽が容赦なく夕刻の光を部屋全体に注ぎ込んでいた。わあ、と後ろで緑が感嘆の声を上げる。
「綺麗だねぇ」
「……あんた、この部屋にいたんじゃなかったのか?」
先程アパートから出てきた緑である。頼成としてはてっきり部屋の物色でもしていたのかと思っていたのだが、どうやら違うらしい。頼成の問い掛けに対して緑はアパートの廊下に散った戦闘の跡、つまり血痕などを片付けていたのだと答えた。
「今騒ぎになっても面倒だからね」
「ああ……そいつはどうも」
頼成は何だか気が抜けてしまい、そのままふらりと自分のベッドの方へと歩く。パイプフレームのベッドはこれまで使っていた隠れ家のものと比べてとても広く感じられた。そこは彼が初めてるうかに想いを伝えた場所でもある。
「……るうか」
思わず呟いた彼は自分で自分の言葉にハッとして首を振った。諦めなくてはならない。考えて走り回った結果が無駄だったのであれば、もう仕方がないのだ。頼成はるうかの望むだろうことを想像して行動した。つまり、彼女であればできるだけのことをしようと足掻くだろうと考えてそれを真似てみた。しかし、彼では彼女には届かなかった。
「だっせ……」
「……頼成」
そっと近付いてきた佐羽が不思議な笑みを浮かべて頼成の横に立ち、その肩に手を載せる。諦めるの? と彼は囁くように問い掛けた。頼成は何も答えず、未練も顕わに唇を噛み締める。ふふっ、と佐羽が笑い、そして。
ばちん。
大して勢いのない平手が、それでも容赦なく頼成の頬を打った。あまりの不意打ちに対応できなかった頼成の顔はそのままぐるりと後方に振られる。何をするんだと佐羽に対して怒鳴り付けようとした頼成はそこにあるものを見た。
見慣れた机の上に見覚えのない紙が置かれている。赤い光の注ぐ部屋の中で白く浮かび上がるようにそこにある紙に吸い寄せられるように、頼成は机へと駆け寄った。そこにあったのはところどころが欠けた、セロハンテープがベタベタと貼り付けられた1枚のルーズリーフだった。頼成はそれを手に取り、見つめる。何か文字が書かれているのだが読むことができない。ほとんど原型を留めないほどに引き裂かれたそれは誰かの手によって丁寧に補修されているのだが、それでも抜け落ちた欠片や擦れて消えた文字が多く、解読するのは困難だった。
辛うじて読むことができたのはたった1行、最後に記された短い文面のみ。
“私はあなたを忘れたくありません。きっと会いに行きます。”
「……る、うか……?」
頼成の視界が揺れる。溢れた涙がぽたりぽたりとルーズリーフに落ち、元々読むことのできなかった手紙をさらに解読不能にした。佐羽が呆れたような、くたびれたような、とにかく面倒臭そうな調子で言う。
「分からないよねぇ……なんで佐保里がそれを持っていて、わざわざここに置きにきたのか。俺を刺して逃げたのも案外、照れ隠しだったりしてね」
「そうかもしれないね」
緑までがそんなことを言い、どこか困ったように笑う。そしてさらに緑は頼成に対してある重大なことを告げたのだった。
執筆日2014/05/16




