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「仕事って……蝶を撒くこと、じゃないんですか」
「それは一応一段落したので、次は別の仕事です。そして今日はこちらの方が大切な用事でもあります」
るうかの問い掛けに対して佐保里は特に隠す様子もなく穏やかに答えを返してくる。
「私もこれで大神殿に勤める賢者ということになっていますから、色々と雑務もあるんですよ。と言っても今回は雑務とは言えないような重要なお仕事なんですけどね」
「……それって……?」
「興味、ありますか?」
にこりと笑って、佐保里は誘うように尋ねてくる。るうかは彼女の危険さと己の興味とを天秤にかけようとしたが、うまくいかなかった。何か得体の知れないものがるうかの背中を押している。しかしそれでもるうかは素直に佐保里の提案に応じることはできなかった。だからこう尋ねる。
「興味はあります。でも、もう少し具体的に教えてもらわないと答えられません。一体どういう仕事なんですか」
「“天敵”の封印です」
恐ろしくあっさりとした口調で、佐保里は答えた。“天敵”の封印。その言葉を口の中で繰り返し、るうかは一瞬ぶるりと身を震わせる。その間にも佐保里は勝手に説明を続けた。
「この町の神殿でそろそろ完全に“天敵”になりそうな神官がいるとのことで、本来なら始末するところなんですけれど。ただ、なかなか素質のありそうな方なのでここはひとつ、封印して持ち帰ろうということになったんですよ」
「素質……ですか」
「るうかさん、あなたなら分かるでしょう? 封印された“天敵”は聖者の血によって培養され、勇者として蘇ることになります。まぁ、例外もありますけれどね」
るうかは返す言葉を失い、ただ茫然と佐保里の顔を見つめる。そう、確かにるうかにとってその話は身近なものだった。何しろるうか自身が3年前に“天敵”と化して封印され、その後勇者として蘇った存在なのだから。彼女を封印したのは鈍色の大魔王の配下である西浜緑だったが、佐保里も同じような役目を負っているらしい。佐保里がさらに説明したところによると、“天敵”の封印は特殊な魔法であって彼女と緑以外には“一世”である柚木阿也乃、浅海柚橘葉本人達にしか扱うことができないのだという。
「勇者になることのできる“天敵”は結構限られているんです。まずは人間的に勇者に向いていなければいけません。臆病では話にならないですし、命知らずの無謀者も困ります。そして何より、他者を救うということに自分の存在意義を見出せるような、そんなよくできた人間でないと勇者は務まらないんです」
佐保里はそう言いながらすっとるうかへと右手を差し出した。
「さて、どうしますか? もし興味があるのなら、私の手を取ってください。勿論、仕事が終わればまたここまでお送りします。あなたに危害を加えるようなことは一切ありません」
るうかはそれでもまだ一瞬ためらったが、結局小さく頷いて佐保里の手を取った。すると次の瞬間にはもう辺りの景色が一変している。
そこは明るい灰色の壁に囲まれた窓のない部屋だった。中にはベッドがひとつだけ置かれており、そこにまだ辛うじて人間の形をした肉色の身体が横たわっている。元は神官服だっただろう白っぽい衣服の切れ端が肉塊のあちこちに食い込んでいた。ひゅー、という息の音が聞こえて、それがまだ生きている人間であることが知れる。
「大人しいですね」
佐保里は無感情な声で言うと、るうかをその場に残して肉色の人間へと近付いていった。彼女の手にはいつも持っている杖の他に一振りのナイフが握られている。磨き抜かれた銀色のナイフは美しく、いかにもよく切れそうだった。
「お迎えにきましたよ、アキトさん」
佐保里が肉色の人間に声を掛けるが、返事はない。佐保里は少しだけ肩をすくめてもう一度その名を呼んだ。
「聞こえていますか? 穂香暁人さん。この町の治癒術師達に降りかかる細胞異形化のリスクの全てを祝福としてその身に負い、今まさに息絶えて人間の“天敵”になろうとしている尊くも憐れな神官。私はあなたに新しい道を示すためにここへ来ました。鼠色の大神官の名の元に、神の子の“一世”に導かれて新たな生を歩むことを望みますか?」
そこまで言って、佐保里はふふっと笑みを零す。
「もっとも、あなたに選択の余地はないのですけれどね」
そう言うなり彼女は持っていた銀色のナイフを肉色の身体目掛けて突き下ろす。るうかは思わず息を呑んだ。肉塊のような肢体が一度ばんと大きく跳ね、それからしゅるしゅると音を立てて縮んでいく。それは信じられないような光景だった。まるで風船から空気が抜けるように縮んだその身体はやがて銀色のナイフの刃の中にすっぽりと収まってしまう。鏡のように磨かれていた刃はすっかり肉の色に染まり、佐保里はそれを確認すると腰に提げた鞘にナイフを満足そうに納めた。
「はい、これでお仕事はおしまいです」
いとも簡単そうにそう言った佐保里に、るうかは思わず問い掛ける。
「今のが、封印なんですか……?」
「ええ。ナイフは“一世”の趣味です。そちらの封印代行者は確かカードを使うのでしたよね。原理は同じですよ。ナイフもカードも等しく“天敵”の身体と魂を封印し、保存することができます。形などどうでもいいということです」
佐保里はいつにも増して饒舌だった。それが果たして彼女のどういった感情を示しているものなのか、るうかには判断ができない。ただ、今ならば聞いてもよさそうだと思ったので先程から気になっていたことを尋ねてみる。
「佐保里さんは勇者を邪魔だと言いますよね。それなのにわざわざ“天敵”を封印して勇者にするんですか」
「いい質問です」
佐保里は表情を変えないままそう言って、「それは“一世”の役割といいますか、制約のひとつですね」と続けた。
「鼠色の大神官はあちらの世界を、鈍色の大魔王はこちらの世界をそれぞれのホームフィールドとして、どちらにより人心が集まるかを競っています。けれどもその過程において、互いに互いの世界の存続を維持しなければならない。そういうルールがあるんです」
「存続を、維持する」
「つまりこちらの世界で言えば“天敵”に対して絶大な戦闘力を発揮する勇者を一定数以上に保たなければならない、ということです。そうでもしないとこの世界の人間は簡単に滅びてしまうことでしょう。永続的に維持可能な世界においていかに人の心を惹き付けることができるか。これはそういうルールの遊戯なんです」
佐保里の説明に、るうかは納得してよいものやら悩んだ。何しろ勝手な言い分である。“一世”直属の佐保里であればいるいは当然のことなのかもしれないが、彼女はたった今刺し殺した人間、もしくは“天敵”の彼を遊戯の駒としてしか数えていない。るうかのことにしてもきっとそうなのだろう。“天敵”の数が増えすぎればこの世界の人間の多くが捕食され、世界そのものを維持することが難しくなる。だから勇者は一定の数だけ必要だが、それが多すぎれば人々はこちらの世界に多くの希望を見出してしまう。鼠色の大神官としてはそれもまた困るというわけだ。
「つまり、数合わせ……ですか」
思わず苛立ち紛れに言ったるうかの言葉にも佐保里は笑顔で頷くだけである。そこに罪の意識などは一切感じられない。
「ふふ、ご明察です。さて、このままここにいるとこちらの神殿の方達が気付いてやってきてしまいますから、私達はそろそろ退散するとしましょうか」
「ばれるとまずいんですか」
「ええ、一応は。私のしていることはいわば死体泥棒のようなものですからね」
「……」
るうかは色々と言いたいことがあったものの、ひとまずそれを呑み込んだ。今ここで佐保里と口論してどうにかなるというものでもない。大人しく頷いたるうかの手を取り、佐保里はここへ来たときと同じように転移術を使った。
一瞬で元の宿屋の部屋に戻ってきたるうか達は改めて部屋の真ん中で向き合う。佐保里は柔らかく微笑みながらるうかの鋭い視線を受け止めていた。対照的な表情を顔に浮かべた2人はしばらくそのまま無言で時を過ごす。やがて佐保里が「他に質問はないですか?」と口を開いた。
「なければ私はそろそろ行きますね。落石くんに見付かると面倒ですから」
「さっきの人……穂香さん、でしたか。あの人は何年くらいで勇者として蘇ることになるんですか」
「そうですね、これも個人差があるので一概には言えませんけれど、おおよそ4から6年といったところでしょうか。何しろ体細胞クローニングで生成した肉体を成体にまで成長させなければなりませんから、いくら促進の魔法を使っても限界があります。それに成長促進の魔法は細胞そのものに負荷をかけるものですから、急げばいいっていうものでもないんですよ」
「そうなんですか……」
るうかとしてはふと思い付いた疑問を口に出しただけだったのだが、佐保里からの返答は思った以上に詳細なものだった。それにしても今日の彼女はやけに親切に色々なことを説明してくれる。るうかとしては少々気味が悪いくらいだ。それじゃあ私はそろそろ行きますね、と佐保里はるうかに晴れやかな笑顔を向けた。
「あ、そうそう。もしこれから特に予定がないのであれば、近い内にまたアッシュナークの都へいらしてください。そろそろお祭りの時期なんですよ」
「お祭り?」
「ええ。毎年秋に行う鎮魂と安全祈願のためのお祭りです。広場の出店もいつも以上に増えますから、楽しいと思いますよ。それでは、また」
そう言い残して佐保里はその場からすぅっと姿を消したのだった。
執筆日2014/03/20