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ぎし、とベッドが軋む音がして頼成はぱちりと目を開けた。そしてそこに灰色の長い髪と青い瞳を持つ女性の姿を見る。いつもの薄汚れた白衣姿ではなく薄いシャツにハーフパンツという軽装の彼女、柚木阿也乃は頼成の上に馬乗りになってその額に銃口を突きつけていた。よう、と頼成は彼女を睨みつけながら挨拶をする。開けっ放しになっていた窓から排気ガスの臭いの混じった風が吹き込んでくる。
「おはよう、ゆきさん。随分過激な目覚ましを仕掛けてくれたもんだな」
「お前のことだ。何かしでかすんだろうと踏んでな。何をしようとしているかは知らないが、そう簡単に事が運ぶと思ったら大間違いだ」
阿也乃は口元を三日月の形に歪めながら笑って引き金に指をかける。ミントの香りが辺りに広がり、頼成は軽く顔をしかめた。
「動かれると困るのか。あんたの考えていることは相変わらずよく分からねぇな」
「諦めろ。お前がそれだけ約束すれば、舞場るうかの安全は永久に保障してやる」
「信用できるか」
ぺっ、と頼成は目の前にある阿也乃の顔に向かって唾を吐きかけた。慣れた仕草で放たれたそれは阿也乃の頬にべたりと張り付く。くっ、と頼成は可笑しそうに笑った。対して阿也乃の口元からは完全に笑みが消え去る。彼女は銃を構えているのとは反対の手でハーフパンツのポケットから取り出した何かを床に放り投げた。それは頼成にも見覚えのある紫がかった黒色の携帯電話で、しかし頼成のものではない。るうかに渡したものだ、と頼成はすぐに気付いてつまらなそうに阿也乃を見る。
「……ばれてたか」
「いい度胸だ」
「あんた、るうかを撃ったんだってな。約束が違う。となればもうこっちも大人しくしている理由はねぇんだよ!」
頼成は阿也乃を睨みつけると全身の筋肉をばねのように働かせて彼女を身体の上から振り落とした。阿也乃はすぐさま発砲するが、弾丸は頼成の着ていたTシャツをかすめただけで背後の壁を削る。頼成は動きを止めることなくベッドから飛び降り、床に落ちて尻餅をついている阿也乃の頭目掛けて膝蹴りを仕掛けた。阿也乃は避けられない。
しかし頼成の脚は突如として2人の間に割って入った緑色によって防がれた。西浜緑。“一世”である阿也乃を守ることを役割に持つ彼が頼成に静かな眼差しを向ける。頼成はふっと笑みを浮かべると、その場から跳躍した。目指す先にあるのは開け放たれた窓だ。
「来ると思ったよ、緑さん。おかげで助かった。あんたのでかい身体はいい盾になる」
そう言い残し、頼成は首尾よく窓から外へとその身を躍らせる。部屋は3階にあったが、頼成はアスファルトの路面に着地して何事もなかったように走り去る。それを確認して、緑は阿也乃を振り返った。
「追い掛けるかい?」
「ああ。殺さず、見失わず、適当に追ってくれ。あれでまだまだ重要な駒だからな」
阿也乃はそう言いながら自分の銃を緑に預けた。
隠れ家のアパートから逃げ出した頼成は近くの駐車場に停めておいた黒い自動車の運転席に身体を滑り込ませる。眠るときにも肌身離さずポケットに入れていたキーでエンジンをかけると、暖機をする間ももどかしく車を発進させた。背後から大型バイクの走行音が聞こえてくる。
「うわ、怖ぇ」
ミラーに映った緑と銀のカラーリングも鮮やかな1000cc大型バイクは冗談のような速度で頼成の車に迫ってきていた。それは緑の愛車であると同時に立派な凶器でもある。頼成の車もスポーツ仕様ではあるが、さすがにあれには敵うはずがない。フルフェイスのヘルメットで顔を覆った緑はぴたりと頼成の後ろについて追い掛けてくる。どうやらそのまま突っ込んでくるような無茶はしないようだ。ならば、と頼成はそのままアクセルをふかした。
緑による追跡が阿也乃の差し金であることは明らかだ。であればできることならそれを振り切った方が、頼成としては動きやすい。しかしこうして緑がこちらに張り付いていてくれることは頼成にとって好都合でもある。
頼成は昨夜の夢の中で佐羽と湖澄にそれぞれの動きを指示していた。まず佐羽には彼が毎日服用している小型発信器入りカプセルのいくつかを湖澄に渡すということを。そして湖澄にはそれを朝倉医院に入院しているるうかに服用させることを。さらに佐羽がその発信機からの電波を受信するための機器を阿也乃の家から持ち出すことができれば完璧だ。そうすれば頼成はいつでもるうかの居場所を確認することができる。
頼成は車の時計で時刻を確認し、ひとまずは時間稼ぎのために適当に郊外を走る。佐羽と湖澄がこちらの世界で接触し、さらに佐羽が受信機を持ち出すまでは阿也乃と緑を引き付けておきたい。特に緑は“一世”である阿也乃と異なり、いざとなれば頼成達を手にかけることができる。阿也乃の命令であれば彼はためらいもなくそれをやってのけるだろう。そういう点から言えば彼はもっとも恐ろしい相手であり、それが今頼成を追っていることはかえって好都合だった。しかしそれもいつまでもというわけにはいかない。
「さてと、どうしますかね……この様子だとゆきさんはまだ俺を殺そうとまではしていないようだし。浅海の方の動きも気になるが……ひとつ賭けてみるか」
そう呟くと頼成は海のある方向へとハンドルを切る。まだ朝早い時刻、港からは新鮮な魚介を積んでいるだろうトラックが何台も頼成達とすれ違った。港へ向かう車はほとんどない。悪くねぇな、と頼成は独りごちる。
日河岸市の西側に位置する埠頭には今朝の漁を終えた漁船がいくつも並んでいた。頼成はコンクリートの路面に後輪を滑らせながら埠頭の突端へ向けてアクセルを全開にする。後方から追ってくる緑が何か叫んだようだが、当然頼成の耳には聞こえない。
「緑さん、俺は一応あんたを信じているんだぞ」
そう呟き、頼成は左手でギアを6速に入れて右手でドアロックを解除し、シートベルトを外す。ハンドルから手が離れた一瞬、車体が大きくぶれた。事故に巻き込まれまいと緑がバイクを減速させる。頼成の視界にはほとんど海の青しか見えない。
「っし!」
頼成はハンドルを戻し車の進行方向を真っ直ぐに海へと向けた。そして左手でハンドルを抑えながら右手でドアを開ける。猛烈な風に煽られるドアを何とか押さえて、そのまま身体を右に大きく傾けながらハンドルを手放した。最後に一発、アクセルから足を離してブレーキペダルを蹴りつける。
ぎゃぎゃぎゃ、とタイヤが異音を立ててコンクリートと擦れ合い、しかし勢い付いた車体はほとんど減速することもなく埠頭から飛び出す。そして次の瞬間、頼成は車外に自ら身を投げ出した。
「っつぁー!」
車は左へ、頼成は右へ。うまく離れたそれぞれがほとんど同時に海面へと叩きつけられる。大きな車体が上げた水飛沫が頼成の姿を緑の視界から隠した。緑のバイクは埠頭の先端ぎりぎりで停止し、ヘルメットのバイザーを上げた緑が呆然と水面を見つめる。波立った水面はすっかり濁っていて、彼の目を以てしても頼成の姿を確認することはできないだろう。緑はその場で携帯端末を取り出すと、それに向かって残念そうに告げる。
「ごめん、阿也乃。頼成くんを逃がしちゃったよ」
彼の声には落胆と悔しさが滲んでいる。しかしその表情はどこか誇らしげに微笑んでいた。
頼成はその様子を彼の視界に入らないぎりぎりの位置から見ていた。つまり、埠頭のコンクリートの陰に隠れて浮かびながらその動向を窺っていたのである。やがて緑のバイクが走り去る音が聞こえ、頼成はそっと泳いで陸に上がることのできる場所を探した。彼は無人の漁船のひとつにしがみついて陸に戻るとひとまずTシャツを脱いで絞る。滴り落ちる海水は生臭く、潮と砂にまみれた頭を振って彼は小さく溜め息をついた。
「何やってんだろうね、俺は。うまくいったから良かったようなものの……ま、駄目だったら多分緑さんが何とかしてくれたでしょうがね」
よいしょ、と彼は近くの倉庫の陰に隠れて一旦身体を休める。そしてズボンのポケットから携帯電話を取り出すと、それが問題なく動作することを確かめた。万一に備えて防水性能の高いものを選んでいたのだが、まさかそれが本当に役に立つ日が来るとは思っていなかった頼成である。彼は発信履歴から佐羽の名前を選んで通話ボタンを押す。コール2回で佐羽が出た。
『おはよう、頼成。無事?』
「おう、そっちはどうだ。湖澄に会えたか? 寝坊してまだゆきさんの家、なんてことはねぇだろうな」
『馬鹿にしないでよ。今、ちょうど朝倉医院にいる。発信機のカプセルはもう湖澄に渡したよ。それと……』
佐羽は少し言い淀んでから、それでも比較的明るい声で告げる。
『るうかちゃんの様子も見てきた。意識はないけれど、身体の状態は安定しているって朝倉先生が。ゆきさんに撃たれた傷の方はもう痕も残っていないって』
「そっか……取り敢えず安心した。ありがとうな。にしても……ったく、聞いちゃいけないんだろうが、あの人は何者なんだ?」
『聞いちゃいけないんでしょ。俺達だって何度あの人に助けられたか』
「違いねぇ」
頼成は溜め息をつくと、携帯電話の向こうの佐羽に向かって呼び掛ける。
「じゃあ次だ。受信機はあるな?」
『勿論。頼成、今どこ?』
「大分遠い。佐羽、お前るうかの家は分かるか?」
『住所なら知っているけど』
「だったら行って、玄関フードの裏にある窪みにそいつを隠しておいてくれ。後で取りに行く」
『え、大丈夫なのそれ』
「るうかの親父さんもおふくろさんも朝早いらしいからな。この時間ならもう留守なはずだ。近所の目はあるが、まぁチラシでも入れるふりで頑張れ」
『頑張れって……まったくもう。分かったよ、やっておく。いつ頃取りに来られそう?』
佐羽が少しだけ心配そうに尋ねた。頼成が直接会おうとしないことから彼の身に何かあったのではと案じているのだろう。そんな佐羽の心境が手に取るように分かることに苦笑しながら頼成は「夕方行く」と答える。
「何せ無一文で飛び出しちまったからな……移動も簡単じゃねぇんだよ。佐羽、悪いがもうひとつ頼まれてくれるか」
『勿論。何?』
「安請け合いするなよ、危険のあることだ」
頼成の言葉に対して佐羽は怒ったような声を出して反論する。
『安請け合い? 馬鹿じゃないの。この期に及んで危険も何も知ったことじゃないよ。それに安請け合いなんかじゃない。俺は初めから生命だって懸ける覚悟だ。だって、るうかちゃんのためなんでしょう?』
「……ああ。じゃあ、頼むぞ。ひょっとしたら無駄足になった挙げ句にゆきさんに殺されるかもしれねぇが、まぁお前なら大丈夫だろ。何せゆきさんの一番のお気に入りだからな」
『……。いいけど、何させる気?』
少しばかり佐羽の声が強張る。頼成は片頬に笑みを浮かべながら彼に今後の行動を指示した。
執筆日2014/05/16




