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「さっき誰か来たの?」
テーブルに皿を並べながら、るうかは母親である順にそう問い掛ける。それはとても自然な流れだったが、順はどういうわけか口ごもった。
「んー、えーとね、ただの勧誘」
「それにしては結構長い間話し込んでなかった? お母さん、いつも勧誘なんて“うちには必要ありません! お帰りください!”で撃退しちゃうのに」
「いつもは大体忙しいから。あ、るうかそっちのフォークも出してね。ケーキ用の」
「ケーキあるの?」
「お父さんが買ってきてくれるって。あら、言っちゃった。サプライズのつもりだったのに」
「お母さん……嬉しいけどそれじゃ台無しです」
「だわねぇ。あはは、お父さんに謝らなくっちゃ」
そう言って朗らかに笑う順はるうかが何か言いかけたのを阻むかのようにオードブルの大皿を彼女に押し付けてくる。しゃきっと瑞々しいレタスと共に盛り付けられたチーズとスモーク秋刀魚、それに小エビとタコのマリネが実に食欲をそそる。思わず「美味しそう」と言ったるうかに順は満足そうな笑顔を向け、それを見たるうかは結局何も言えないままそれをダイニングに運ぶしかなかった。
やがて聡が大きな箱を持って帰宅する。いつもは残業続きでろくに顔を見ることもできないというのに、今日は同僚に仕事を押し付けて帰ってきたのだと聡はにやりと笑いながら言った。楽しそうなその笑顔にるうかも心からの笑顔を返す。聡の持ってきた箱の中にはいかにも誕生日祝いに相応しい、生クリームと苺をたっぷりと使った甘そうなケーキがでんと収まっている。“るうかちゃん お誕生日おめでとう”と書かれたチョコレートプレートまでがデコレーションされているそれを見てるうかはわずかに頬を引きつらせた。17歳にもなってこれは少々恥ずかしい。しかも大量の生クリームと苺の組み合わせは決して彼女の好みではなかった。それはどちらかというとむしろ。
むしろ? とるうかは自分で考えたことに対して疑問を覚える。むしろ何だ。何を思い付いたのかが自分で思い出せず、るうかはしきりに首をひねる。寝違えたのか、と聡が見当違いの心配をした。
ケーキは案の定ひどく甘く、それでもるうかは直径21センチメートルのそれの8分の1を食べて両親に驚かれる。サプライズプレゼントだったはずのそれを妻にばらされてしまった聡も、るうかの食べっぷりに気を良くして楽しそうにビールの缶を開けていた。それを見てるうかも嬉しくなり、甘みのないアイスティーで父親と乾杯をしたのだった。
甘いケーキの余韻がまだ口の中に残っている。るうかは膨れた胃を宥めようと自室のベッドに横になっていた。今年の誕生日は実に奇妙なものとなった。週の初めに倒れて意識不明になり、目覚めてみれば1歳年を重ねていたというわけだ。ちょっとしたタイムスリップ気分である。
しゃらん、とるうかの首元で鎖が鳴る。そういえばまだあのネックレスを着けたままだった。部屋着に合わせるにはあまりに可憐すぎるそれを外そうと首の後ろに手を回し、そこでるうかは動きを止める。
「……外したくないなぁ」
それは不思議とわがままな感情で、るうかの思考の上から塗り重ねるようにして何か得体のしれないものが彼女を押し留めようとする。ネックレスを外してはいけない。小指のリングもそのままがいい。
やがて緩やかなまどろみの波がるうかを静かな夢の世界へと連れていった。
赤い羽根がしきりに降っている。花びらのように、雪のように、青空と大地を埋め尽くして全てを赤く染め上げていく。るうかはひとりでそこに横たわっていた。降り注ぐ羽根をどこか切ない思いで見つめていた。以前にもこんなことがあった気がする。
そう、あれは3年程前のことだっただろうか。友人である静稀から彼女の兄の様子がおかしいと相談されたのだ。彼女が兄のことをとても大切にしていることを知っていたるうかは彼女のために何かをしたいと強く思った。けれども、その時自分が何かをできたのかどうかは分からなかった。
ただ、あのときもこんな景色を見たような気がするのだ。降り注ぐ、いや、もしかすると舞い上がっているのかもしれない赤い羽根の嵐。空に吸い込まれるように、大地を塗り替えるように、世界のすべてが赤になる。それは見ようによってはとても不気味な景色で、鮮やかな血に染められた世界が広がっていくようにも思えた。
「ああ、そうか」
るうかは赤い世界の真ん中でひとりぽつりと呟く。
「私はここに帰ってきたんだ。また」
どうしてそう思ったのかは分からない。しかしるうかは確かにこの景色を以前にも見たことがあったのだ。地面に落ちている羽根を1枚をつまみあげて空にかざすと、降る羽根の隙間から差し込むわずかな光が薄い羽根の筋を通り抜けてキラキラと輝く。るうかはごく自然な動作でそれを自分の髪に差した。
おかえり、と誰かが言う。お疲れ様、とその声は続ける。
るうかの目尻から一筋の涙が流れ、それを見えない指がそっと拭う。
「私は」
るうかは見えない指にそっと触れながら呟く。
「私は誰かを助けられたのかな。私に誰かを助けることなんてできたのかな。私が誰かを助けてよかったのかな。分からないよ、まだ、今も」
助けたいと思うのは悪いことじゃない。見えない指がるうかの手を握り、言葉をくれる。でも助けられるかどうかはいつだって誰にだって分からない。運もある。るうかだけが考えて行動してどうにかなるほど簡単なことじゃない。
「そうだね……でも私、助けたかった」
信念を持つことは誰にも止められないし、止められる筋合いもない。見えない指はそう言ってぎゅうと力強くるうかの手を握る。誰も正しいとは言ってくれない。助けたいと思ったこと、助けることができたこと、助けられなかったこと、全部を見て感じて答えを出すのはるうか自身しかいない。
「でももう思い出せないよ」
るうかの泣き言に、見えない指はえいとばかりに彼女の頬をつつく。泣き虫るうか。泣いていいけど諦めるのは早い。だってるうかはまだ生きている。生きているんだよ。選べるんだ。
「選べる? 何を?」
現実を。何をるうかの現実とするかを。ぐいぐいとるうかの頬をつつきながら、見えない指は少しばかり楽しそうに言葉を紡ぐ。あの幽霊も言っていたように、るうかはまだ夢にも現実を見ることができている。それはきっとすごい可能性で、ツーアウト満塁逆転サヨナラホームランだってできるってこと。
「なんで野球?」
父さん好きでしょ。
「そうだけど。私は球技は苦手だなぁ」
ふふふ、とるうかは困ったように笑った。降る羽根が密度を増していき、もう空の色はひとつも見えない。このまま目を閉じればきっと、るうかは二度とこの場所に戻ってくることはできないのだろう。今度こそおしまいなのだと身体中が理解していた。選ぶまでもなくるうかはひとつの現実にしか生きられないようになってしまったのだ。それは自然の成り行きで、ある種の淘汰で、そして150年という長い年月をかけて行われているゲームのある局面の終わりを意味していた。
「さよなら、倖多。……倖多なんだよね?」
ん? と見えない指がるうかの髪を撫でながら楽しそうに笑う。さーあ、どうでしょう?
「私、お母さんから倖多のことを聞いてからずっと考えていたよ。私は倖多を犠牲にして生まれてきたのかもしれない。私が生まれるために倖多は死んじゃったのかもしれない」
るうかの双子の弟である倖多は母胎内での発育不全のため、正常な分娩は望めなかった。さらに彼のへその緒がるうかの腕に絡みついており、そのままではるうかの身体に障害を残す可能性すらあった。2人の子どもを胎内に宿していた順は悩み、そして最後に決断したのだ。るうかを助けるために医師による帝王切開の勧めを受け容れることを。それは倖多を殺すという決断でもあった。
「怖かった。話を聞いた夜は眠れなかった。泣いたよ、泣き虫だから。でもそれから思うようになったんだ。私は誰かを助けなくちゃならない」
弟を犠牲にして、その屍の上に産声を上げた。るうかはどこかで自身のことをそういう存在だと感じていたのだ。運命だったと言えばそれまでである。倖多の発育不全の原因は不明で、当時誰が何をしたところで彼を助けることは不可能だった。無論、るうかにも順にも非はない。手術を執刀した朝倉医院の院長にしてもできる限りのことをした。それで納得しろと言われれば、るうかも決して納得できないわけではないのだ。
しかし理屈と感情は異なる。倖多の死を契機として順が中年からの進学を選び助産師の資格を取ったように、るうかもまた幼いなりに何かをしなくてはならない衝動に駆られていた。
大丈夫だよ、と見えない指がまたるうかの頬に伝った涙を拭う。やりたいことをやればいい。助けたければ助ければいい。うまくいかなくて泣くときがあっても、くじけてしまってもいい。いつだってるうかは選べる。そしてその選択を支えてくれる人もいる。
「支えてくれる?」
ぱちり、とるうかは目を見開いた。彼女の黒い瞳には赤い世界が映っている。ひたすら舞い踊る赤い羽根の向こうに微かな青色が見えた。
執筆日2014/05/10




