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るうかは不思議な気持ちで家に帰った。何か随分と長いことそこを離れていたような気がする。実際はほんの数日の入院だったというのに、まるで半年近くそこに帰っていなかったような感覚が拭いきれない。夕飯はまだちょっとかかるから、と言いながら先に家に入っていく順について歩きながらるうかは玄関脇に置かれた真新しい自転車に目を留めた。
それはるうかの好きな赤色をメインにした、今のるうかの体格にちょうどいい大きさの軽くて頑丈そうな自転車だった。気付いた? と順が笑う。
「なんだかタイミングが変になっちゃったけど、今日あんた誕生日でしょう。ちゃーんと約束通りに買ってあげたんだからね。今度は事故なんてやめてよ。本当にもう、気を付けないと駄目なんだからね」
事故? とるうかは心の中で首を傾げる。事故など起こしたことがあっただろうか。それはいつのことだっただろうか。しかし考えてみればしばらくの間自転車での通学をしていなかったように思う。それは事故で愛車を失ったためだとすれば辻褄の合うことだった。
数日間意識を失っていたせいで記憶が曖昧になっているのだろうか。るうかは首を傾げながらも何も言わず、ただ順に笑顔で礼を言った。順は嬉しそうに笑って、足取りも軽く家の中へと入っていった。
食事まではまだ時間があるということなのでるうかは自分の部屋で一休みすることにする。そしてそこでまた見覚えのないものをふたつ見付けた。赤くて丸い、まるで洋菓子のマカロンのような形をした小さめのクッションがひとつと、机の横にあるフックにかけられた少し高そうなネックレスだ。小鳥が赤と青の木の実をついばんでいるという凝ったデザインのそれはるうかの好みにぴったりだったが、るうかが選んで買えるようなものでもないように思える。値段もさることながら、今のるうかが手を出すには少しだけ派手である気がした。
「こんなのいつ買ったっけ」
綺麗だけど、とるうかは戸惑いながらネックレスを手に取る。金属部分はピンクゴールドで、実に可愛らしい。少し少女趣味が過ぎるかとも思いながら、るうかは吸い寄せられるようにそれを自分の首に飾っていた。小さな鏡を取り出して自分の首に光る小鳥と木の実を眺める。湧き上がる嬉しさはるうか自身にとっても奇妙なほどに大きく、どうしてかは分からないがとても幸せな気持ちがるうかを満たした。
「綺麗。可愛い……嬉しい」
ぽつりぽつりと気持ちを言葉にしていく。目を閉じても小鳥の姿が見えるようだ。ネックレスの触れている胸元がほわりと温かい。
「幸せ、ありがとう。でも……足りない」
ぱちり、とるうかは目を開けた。左手の甲を目の上にかざす。自分でもその行動に何の意味があるのか分からないまま、ただ胸の奥にわだかまる物足りなさに顔をしかめた。
「何だろう。何か、変なの。贅沢だなぁ、私」
苦笑しながらるうかはネックレスを着けたまま、ひとまず携帯電話の充電をすることにした。るうかのお気に入りである赤い携帯電話は彼女が友人達と連絡を取るための重要な手段のひとつである。意識不明で入院していたというのだから、きっと静稀や理紗から心配する内容のメールが入っていることだろう。
携帯電話の電源を入れてしばらく待つと、メールを受信したことを知らせるバイブレータが作動した。やっぱり、と思いながら電話を手に取ったるうかの耳にけたたましいコール音が鳴り響く。電話だ。
「う、え? あ、理紗ちゃん」
相手の名前を確認したるうかはすぐに通話ボタンを押した。途端に涙声の理紗がるうかの名を叫ぶ。
『るーかぁ! 生きてたー!!』
「勝手に殺さないでよ、理紗ちゃん」
『だって、だって……』
ぐすぐす、と電話の向こうで鼻をすする音がする。るうかがしばらくそのまま待っていると、やがてちーんと鼻をかむ音が聞こえて再び理紗の声が戻ってきた。
『だってるーか、全然目を覚まさなくて! 静稀ちゃんと祝と一緒にお見舞いに行ったんだよ。そしたらさぁ、るーか、青い顔して目を閉じて、ホントに、し、死んじゃったんじゃないかって、あたし……うわああん!』
ついに理紗は電話の向こうで大泣きし始めてしまった。彼女にそれほどの心配をかけてしまったことを申し訳なく思いながら、るうかは何とか彼女を宥めようと自分が元気であることをアピールする。
「理紗ちゃん、そんな泣かないで。来週はちゃんと学校行くから。あ、何か課題とか出てる?」
『課題なんてどうでもいいよぉ!』
「よくないよ! 英語、英語の課題は? 私苦手なの知ってるでしょ」
『課題よりるーかが無事で学校に来てくれればそれでいいよ!』
「いや、理紗ちゃんはそうかもしれないけど……あと、そう言ってくれるのは嬉しいけど」
理紗はまだ泣き止まない。どうしたものかと考えて、るうかは少しばかり卑怯な手を使ってみることにした。
「ところで理紗ちゃん。退院祝いは聞いたけど、何か忘れてない?」
『う、ふぐっ?』
一瞬、理紗が泣き止んだ。そして数秒もしないうちに泣き声よりも大きな声で彼女は叫ぶ。
『るーかっ! 誕生日おめでとうー!』
「うっ」
あまりの大音量にるうかは携帯電話を耳から離し、人の鼓膜のことを考えない友人に向かって少々怒声混じりの小言を伝える。
「祝われてるんだか攻撃されてるんだか分からないよ! 耳っ、痛いっ!」
『あうあっ、ごめん! でもるーか元気そうだー! 嬉しいよぉ、良かったー!』
「心配かけてごめんね、理紗ちゃん」
やっと落ち着いて会話ができるようになった友人に、るうかは心からそう言った。それから少しの間るうかの欠席中に学校であった出来事や肝心の課題などについて話した後、理紗はふと思い付いたようにるうかに尋ねる。
『ところでるーか、彼は? ちゃんと連絡あった? あたし達がお見舞いに行っても全然会わないから、何やってんだあのすかぽんたんのひょっとこのっぽ! って思ってたんだけど』
「彼?」
はて、理紗は誰のことを言っているのだろうか。るうかは携帯電話を持ったまま首を傾げる。するとその首にかけたままのネックレスが揺れる。しゃらん、と鎖が涼やかに鳴った。
「彼って、誰?」
『え?』
るうかが問い返すと、今度は理紗が不思議そうな声をあげた。
『誰って、あれに決まってるでしょ! あたしのるーかに手を出した……あたしに断りもなく彼氏面しやがったあの大学生っ!』
「え……はぁ?」
一体何の話なのか、るうかには見当もつかない。何かの間違いじゃないか、と言ったるうかに理紗はむしろ怒ったような調子で返す。
『ちょっと何言ってるの! もしかして別れたの!? あの男、るーかに何かしたの? それで振ったとか!? それともるーか、振られた!? だとしたらあたしはあの男をぶちのめすー!』
「理紗ちゃん、理紗ちゃん落ち着いて。あのね、全然分からない。男って何。私、彼氏なんていないよ」
『……るーか?』
「男の人と付き合うとか興味ないし……」
『ちょっと、るーか。本当にどうしちゃったの? 何か辛いこととかあったの? あの男に何かされたのっ!?』
「いや、本当に分からないし知らないんだって」
るうかはあくまで否定する。それはそうだ。るうかにしてみれば理紗の話の方がおかしいのだ。しかし理紗はますます戸惑った様子で、困惑した声でるうかに尋ねる。
『覚えて、ない……とか言わないよね? 槍昔さんのこと』
ヤリムカシ。変わった苗字だ、とるうかは思った。そもそも苗字なのだろうか。いや、名前だとするともっと妙なので恐らくは苗字だろう。勿論、るうかはその苗字に覚えなどない。ないのだが、どういうわけかそれをそのまま口に出すことはためらわれた。
理紗もるうかの当惑を感じ取ったのか、それ以上“槍昔”なる人物についての話題を出すことはなく、じゃあまた来週ね、と言って電話を切った。何かもやもやとした感情の残る中、るうかはぼうっと通話の切れた携帯電話を眺める。赤い携帯電話はるうかのお気に入りで、いつも持ち歩いている愛用の品だ。鞄の中に入っていた電話はそれだけだった。当然だ。
しかし何か足りないと感じる。それが何であるのか分からないまま、るうかは携帯電話の中にあるメールやデータフォルダを確認していった。メールの方は主に静稀や理紗、そして母親からの受信で埋まっており、“ヤリムカシ”なる人物からのものはない。万が一それがるうかの彼氏だとするならばメールのひとつもないというのは妙な話である。一方、データフォルダの方には撮った覚えのない写真がいくつもある。元々あまり写真を撮る方ではないるうかだが、時折ふと思い付いたように携帯電話のカメラを起動することもあった。
今年の夏の日付で1枚、丸く赤い花が2輪並んで映っているものが見付かった。やはりるうかにそれを撮影した覚えはなく、またどこで撮ったものかも分からない。花の背景にあるのは石のような灰色の物体で、それが花の色の鮮やかさを一層引き立てている。綺麗な順光に映える赤い花はそれぞれ微妙に色が異なっており、片方は鮮やかな赤、もう片方は少しだけオレンジがかった赤色をしていた。
「ケイトウ、だっけ」
毬のような丸い花の表面には細かい毛がふわふわとまとわりついている。それがおそらくは午後の陽射しを受けて仄かに光っている様子が可愛らしくもあり、またどこか神秘的でもあった。
「……倖多」
るうかは並んで咲く2輪の赤い花に自分と弟とを重ね合わせるような思いで、しばらくの間その写真を眺めていた。玄関でチャイムが鳴る。父親である聡が帰ってきたのかと思ったが、どうやらそうではなようだ。「あらー」という順の声が聞こえて、それからしばらく玄関先で何やら話し込んでいるようである。夕刻も過ぎたこの時間に客とは珍しい。
るうかは携帯電話を枕元に置くと、ベッドにごろりと横になった。制服から着替えていないのでスカートのしわが少し気になるが、それどころではない違和感が彼女を襲う。そう、まるでこのベッドで眠った覚えがないような。あるいはこのベッドで眠ることが何か別のことを意味しているかのような。
彼女自身にも理解しがたい感覚だった。やがて順が食事の用意ができたことを知らせに来て、るうかは慌てて部屋着に着替えてダイニングへと向かったのだった。
執筆日2014/05/10




