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やりすぎだ。男の声がそう言って、ふんと鼻を鳴らした誰かは何も言わない。ルール違反だ、と男が詰め寄る。殺したわけじゃない、と女の声が答えた。ふて腐れたような声の底に笑みが滲んでいる。何をするつもりなんだ、と男は問い掛けた。そしてすぐに、まぁ答えてもらえるとは思っちゃいないがねと続ける。彼は女の答えを待つことなくただこう言い放った。
「盤面を崩すな。駒を壊すな。そんな当たり前のルールさえ守れない奴にゲームの席に着く資格はありゃあしない」
女はただ黙ってふふんと鼻を鳴らし、含み笑いをした。
ほわりと明るい部屋の中で、その光が差し込んでいない窓の横の壁際で、黄の魔王と呼ばれる青年が膝を抱えて座り込んでいる。額を膝につけて丸くなったその姿は頼りない子どものようで、るうかは思わず手を伸ばしそうになる。そしてはっと気付いた。
ここは夢の世界だ。そして自分は現実の世界で阿也乃に撃たれて気を失ったのだ。あの後は一体どうなったのだろうか。少なくとも2発の弾丸をその身に受けていた佐保里は無事だったのだろうか。あの喫茶店の店員は一体どうしてしまったのだろうか。そして何より、るうか自身はどうなったのか。今こうして夢の世界で目を覚ましているということは現実に死んだわけではないのだろうから、きっとそこだけは安心してもいいはずだ。しかしそれ以外の情報がまるでない。
るうかは一度深呼吸をして、それからそっとそれまで寝ていたベッドから降りる。そこはアッシュナークの宿屋で、るうかが最後にこちらの世界で眠った部屋で間違いなさそうだった。外は穏やかな様子だがやや行き交う人の数が多い。鎮魂祭の期間だからだろうか。いずれにしてもテロが起きたり、それ以外に何か異常があったりする様子がないことにるうかはホッとする。
そうやってるうかが窓から外を窺っていると、気配に気付いたらしい佐羽がハッと顔を起こした。そしてそこにるうかの姿を見付けて目を丸くする。大きく見開かれた鳶色の綺麗な瞳にじわりと涙が滲んだ。
「るうかちゃん……!」
佐羽は足をもつれさせながら立ち上がると、るうかの身体をぎゅうと強く抱き締める。良かった、良かったと繰り返す彼にるうかは状況が呑み込めず、まずはその説明を求めた。そうだね、と佐羽も頷く。
「3日。3日ずっと気を失ったままだったんだよ、君は。向こうでもこっちでも、ずっと意識がなくて。向こうでは朝倉医院に入院している。こっちでは湖澄が診てくれていたけど、彼も少し休まないとね……だから俺が」
「そう、だったんですか……」
佐羽に抱きすくめられた姿勢のままるうかは頷いた。そして3日という日数が経過していた事実に恐怖を覚えた。
「あの、落石さん。私が意識を失っていた間にアッシュナークや向こうの世界で何か事件はありましたか? 大変なことになっていたりしませんか?」
慌てて尋ねたるうかに、佐羽は大丈夫だよと優しく微笑む。しかしその表情はどこか暗い。
「平和すぎるくらいに平和だよ。君がいない世界は……悲しいくらいに穏やかで」
佐羽の腕に力がこもる。怖かった、と彼は小さな声で呻いた。さらに彼が説明したところによると、佐保里の方もどうやら無事らしい。なんと彼女はすでに大学の方にも復帰していて、怪我などなかったかのような様子だということだった。あの事件の後、阿也乃はすぐに姿を消して代わりに緑が後始末の全てを引き受けたのだという。その途中で佐羽も連絡を受けて、るうかの運ばれた朝倉医院へと急行したということだった。喫茶店の方は何事もなかったかのように営業しているという。
「じゃあ、ゆきさんがしたことは事件とかにはなっていないんですか」
「そういうことになるね。君の怪我のことも伏せられていて、原因不明の意識不明っていう扱いにされている。君のお母さんが病院に来て、しばらく朝倉先生と話していたよ。すごく心配そうにしていた」
「……お母さん」
「本当のことを話したら大変なことになっちゃうからね。……朝倉先生はそういうの慣れているから、うまいこと言ってお母さんを安心させたみたい」
そう言って苦く笑う佐羽に、るうかもまた安心と申し訳のなさの両方を感じて目を伏せる。確かに本当のことを話せば母親である順はとんでもなく心配するだろう。しかし母親に対して隠し事をしているというのは何とも後ろめたい気分だ。るうかはずきりと痛む左肩を抑え、小さく息を吐いた。
「分かりました。でも、嘘をついているって嫌な気持ちです」
「君はそうだろうね。でも俺は、ただ君が生きていてくれただけで嬉しい」
佐羽はそう言いながらもう一度るうかをぎゅっと抱き締めると、「これ以上は頼成に怒られちゃうね」と笑いながらその身を離した。解放されたるうかはほんの少しの寒さを覚えて身をすくませる。また左肩の奥がどくんと痛む。
「頼成さんは……頼成さんからは、何か連絡とかは?」
「なし。まったく役に立たない男だよね。君がこんな目に遭っているのに」
憤慨した様子の佐羽は、しかし本気で頼成に対して怒っている様子ではない。彼は彼で頼成の身を案じているのだろう。るうかは同じ不安を抱きつつ、さらに詳しい情報を聞いていく。
向こうの世界でいうところの日曜日から始まった鎮魂祭も今日で5日目になる。最初の大きな儀式が終わった後は英霊を慰めるための舞踊が披露されたり、英霊の偉業になぞらえて無料の食料が振る舞われたり、夜になれば飲めや歌えやの大騒ぎになったりとそれなりに賑やかな祭り模様が繰り広げられているらしい。それも残り2日だ。佐保里や輝名からテロに関する情報があったものの、現在のところそれらしき事件は起きていない。ということは、この残りの期間に何かが起こる可能性が高いというわけだ。
勿論何もないに越したことはないのだが、佐羽が言うには何もないはずはないとのことである。
「向こうはゆきさんの打った手を利用して、るうかちゃんや俺を陥れにかかった。挙げ句に“二世”である輝名を大神殿から追放した」
「佐保里さんが言っていたんですけど、テロリストは元は神殿で働いていた人達だったそうです。それが神殿のやり方に反発して離れたところに、浅海さんがこっそり支援をして組織として成長させた……とか、確かそんなことを言っていました。アッシュナーク崩壊のシナリオ、だとか」
「伏兵ってやつだね。まったく、このゲームはもっと単純なものじゃなかったの? ただその世界を相手のものより魅力的にして人を稼げばいいだけのはずなのに、どうしてどっちもそうやって人を殺すような物騒な手ばかり仕掛けるのかな……まぁ、俺が言えることじゃないけど」
窓から外を眺めながら佐羽はそう言って自嘲気味に笑う。るうかはそれには何とも答えられず、ただ彼の横顔を見ながら尋ねた。
「柚木さんは一体何を考えているんでしょうか」
「……ん?」
「落石さん、ずっと前に西浜さんが言っていましたよね。柚木さんと付き合うコツは、あの人が本当はどうしたいかよく考えることだ……って」
それはるうか達が出会ってまだ間もない頃、頼成が石化の呪いを受けて完全に石と化したときのことだった。自らの生命を懸けて彼を救おうとしたるうかの元へと駆け付けた緑が、彼女の持つカタールの秘密を伝えた際にこう言っていた。
「ごめんね、るうかちゃん。阿也乃は少し意地悪で、素直じゃないんだ。うん、正直に言えば性格が悪いんだよ。だから初めから全部教えたりしないし、嘘か本当か分からないようなことも言う。阿也乃とうまく付き合うコツはね、彼女が本当はどうしたいのかをよく考えることなんだよ」
それは阿也乃が頼成を石化から解き放つ手段となる道具としてるうかにカタールを与えていたことを指していた。では今回の一連の流れにおける阿也乃の真意とは何だろうか。
佐羽や湖澄は彼女がこのゲームに飽きているのではないかと言った。しかしるうかの考えはまた別のところにある。もしも彼女が本当にゲームに飽きていたなら、きっとわざわざるうかの身を狙ったりはしないはずだ。何がどうなっても手出しなどせずにただニヤニヤと意地の悪い笑みを浮かべて事態を眺めているだけで済ませることだろう。彼女はきっと飽きたゲームに無駄な手出しをしたりはしない。
では、一体彼女の本当の意図は何なのだろうか。そう疑問を呈したるうかに佐羽は少し考えてから答える。
「ゆきさんはこのゲームそのものにこだわってはいない、と思う。あの人は自分が楽しいことにしか興味がないんだ。それは確かだよ」
「でも浅海さんの方はそうじゃなさそうですね。多分、本気で勝ちに来ています」
「それはゆきさんにとっては面白くないだろうな。勝ちにこだわらなくても、負けるのは大嫌いなはず」
阿也乃をよく知る佐羽の言葉にるうかは黙って頷く。佐羽は考え考えゆっくりと推察を言葉にしていく。
「君はこの前言っていたね。ゆきさんはこの世界が好きじゃないんじゃないかって。俺もそう思うけど、そうじゃないとも思う……あの人は歪んだこの世界のことは嫌いじゃない」
「歪んだ」
「治癒術が“天敵”を生むという摂理。神殿の秩序に魔王の呪い。整っている顔をしてすごく歪んだこの世界を、ゆきさんはゆきさんなりに愛しているんだと思う。あくまでゆきさんなりに、だけど」
鈍色の大魔王は可愛いものが壊れゆく様を愛している。綺麗なものが醜く歪んで崩壊することを悦びとしている。その象徴が佐羽でもあった。しかし彼はそれを分かっていてなお彼女の元にいるのかもしれない。
「ゆきさんはゲームに勝ちたいわけじゃない。でも浅海柚橘葉が思い通りに事を運んで勝つっていう流れをよしともしない。最後の最後、綺麗に並べられた彼の盤面の全てをひっくり返すような……そんな大どんでん返しがしたいんじゃないかな……今そう思った」
「どんでん返し、ですか」
「そのために何が犠牲になろうと構いやしないだろうけどね。それはゆきさんの常套手段だ」
佐羽の表情はいつものふわりとした笑顔で、しかしそこに何か小さな棘のような鋭さが見え隠れしている。それは彼の怒りなのだろうか。そして彼はそうだなぁ、と呟くように言いながら外を見やる。
「何にしても、この理屈でいけばゆきさんは絶対に後手に回ろうとする。浅海柚橘葉に好きなようにやらせていい気分にさせて、そして最後に突き落とす。俺が向こうの世界でやってきたみたいなことを、もっとずっと大規模に狙っている。……で、そうなればまず……浅海先生には例のテロを起こしてもらわないとならない」
きっぱりと言い切った佐羽に、るうかはごくりと喉を鳴らしながらも頷いた。阿也乃のことだ。それくらいのことを考えていてもおかしくはない。そして柚橘葉にしてみても都をテロによって陥落させられることはむしろ好都合なのだ。
「ここが正念場かもね」と佐羽が言ったそのとき、真昼のアッシュナークに鐘の音が響き渡った。
執筆日2014/05/05




