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「勇者のことについて、私の口からはこれ以上のことは言えません。これもルールです。でも、あなたが予想しているようにやがてあなたにも勇者ユイと同じ結末が訪れることは事実です。それがいつになるのかまでは分からないですけれど、そうなればあなたはやはりあちらの世界でのことやそれにまつわるこちらの世界での記憶のほとんどをなくしてしまうことになるでしょう」
佐保里は新しく注文したカフェオレを片手にゆっくりとそう語った。るうかは椅子に座り直して再び頼んだブレンドに砂糖を入れてかき混ぜる。からんからん、と高い音が心地良い。
「忘れたくないなら、手を打つことです。月岡さんと“二世”有磯くんがそうしたように」
「……さっき佐保里さんが言ったのも、そういう“手”のひとつだってことですか」
「身体が覚えた記憶はなかなか忘れられるものではないですからね。それにそうなれば槍昔くんの方があなたを放ってはおかないでしょう。それこそ有磯くんのようにあなたの学校に乗り込んでキスのひとつやふたつしてみせるかもしれないですよ」
それを想像すると笑えますけれど、と佐保里は実際に少し吹き出しながら言った。どうでもいいことだが、るうかは今日学校で起きたことを佐保里に話したりはしていない。だというのに彼女は今日輝名が侑衣を訪ねてるうかの学校に乗り込み、さらには授業中の教室にまで踏み入って好き勝手なことをやらかしたと知っているようだ。一体彼女はどういう情報網を持っているのだろうか。考えても仕方がないので、るうかは深く追及しないことに決めた。
「私としては、あれは嫌です。恥ずかしすぎます」
「そうですね。私があなたの立場だったとしても嫌です」
「だから別の方法を考えます」
「別の方法、ですか」
佐保里は少しだけ意外そうにるうかを見て、それから「どんな方法を考えたんですか?」と尋ねてくる。るうかは一瞬だけ迷ったが、やがて意を決して鞄の中から1通の手紙を取り出した。
るうかの前に置かれた3杯目のブレンドと、向かい側に置かれたオレンジジュース。胃の中に溜まった液体がるうかに微かな吐き気を与えている。ぞわり、と震える背筋は恐怖のためではない。不安でも悲しみでもない。強いていうとすればそれは武者震いだった。佐保里は静かにオレンジジュースのストローをくわえ、離した唇で柔らかな言葉を紡ぐ。
「分からないですね。どうしてですか」
「どうしてでしょうね」
るうかはブレンドを口に含み、その芳香を舌に鼻に感じながら目を閉じる。佐保里は小さく首を振った。
「分からない。そして、きっと私はあなたの期待に応えると思いますよ」
「……それはどうしてなんですか?」
「分からないから困っているんです。私は何かを」
そこまで言って佐保里は強く顔をしかめた。からん、とオレンジジュースに浮かんだ氷が崩れる。
「失われるべき最期の記憶を、あなたは一体どうしたいんですか」
「覚えていられるなんて思っていません。あれだけ心の強い侑衣先輩だって無理だったんです。それでも輝名さんが無理矢理会いに行って、繋がりを取り戻して、それを良かったなって思って。でも私にはそれはきっとできないとも思ったんです」
「相手が槍昔くんだからですか」
「頼成さんは考える人です。考えて、きっと私を大切にしてくれるんでしょう。それで私は穏やかに暮らせるんでしょう」
「それは嫌なんですね」
「嫌です。当たり前です」
きっぱりと言って、るうかは口先を尖らせて佐保里を睨んだ。佐保里の表情が崩れて苦笑いへと変わる。
「駄々をこねているだけのようにも見えますけれど……」
「いいじゃないですか。死に際に駄々をこねるくらいしたって、別にいいでしょう」
「死ぬのは夢の中のあなたであって、こうして生きているあなたではないんですよ。そうむきにならなくてもいいじゃないですか」
ましてや、私を使おうだなんて。そう言って佐保里は先程るうかが彼女に渡した手紙をその手につまみ上げる。コンビニエンスストアで売られていた可愛らしい花柄の封筒の中身は実に素っ気ないルーズリーフだ。メールが全盛のこのご時世に、るうかは便箋を常備しておくほど筆まめではなかった。朝学校へ行く前に急いで書いた手紙の内容はきっとごちゃごちゃで、届いたところで真意が伝わるかどうかは定かではない。しかしるうかは自分に残された時間は短いのだろうと感じていた。だからこうして、その手紙を佐保里に預けたのだ。
「無駄ですよ」
佐保里は突き放すように言う。しかしその表情はどこか優しい。
「無駄な物を預かるのも無駄ですけれど、どうせ無駄なら預かっても同じことですか」
「そうしてもらえると嬉しいです」
「本当に分からない人ですね。るうかさん……もしも私が普通の人間で、こんな風に敵対することもなくあなたに出会っていたなら。私はきっとあなたを避けたでしょう」
そんな風に言って、佐保里はそっと目を伏せる。あなたは私には眩しすぎる。そんな言葉が佐保里の口から漏れた。
「佐保里さん?」
「私や落石くんみたいな薄汚れた人の目から見ると、あなたは本当に眩しいし憎たらしいんですよ。分からないですか? 両親に愛されて、友人に恵まれて、その上恋人といちゃいちゃして。ああ、本当に恨めしいほどです。でも分かるんです。あなたがそれを当たり前だとは思っていなくて、それを大切にするためにできるだけのことをしようとしているということが。だから、眩しくて……羨ましい」
佐保里は自分の前に置かれたオレンジジュースを横へ動かし、右手をそっとるうかの方へと伸ばした。
「約束しましょう。るうかさん、あなたの最期の記憶は確かに私が預かります。そして、あなたの望む相手に渡るようにします。必ず」
「……ありがとうございます、佐保里さん」
るうかもまた手を伸ばし、2人はそれぞれの小指を絡ませて指切りをする。佐保里の小指にはピンク色に煌めく小さなリングがあった。るうかはそれにふと目を留め、気付いた佐保里が小さく笑う。
「気になりましたか」
「綺麗ですね」
「ちょっとしたお守りです。そうですね、約束の印にこれをあなたに預けましょうか」
佐保里は自分の小指から外したリングを少しばかり強引な手つきでるうかの右手の小指に嵌めた。それはるうかの指にぴたりと収まり、まるで初めからそこにあったかのように控えめに輝く。るうかは驚きながらそれを見つめ、そんなるうかを佐保里が面白がる様子で窺っていた。
「似合いますよ」
本心なのかそうでないのかは分からないが佐保里がそんなことを言った。その時、ふと彼女は視線をカウンターの方へと動かしながら驚くべき身のこなしでテーブルを飛び越え、るうかとカウンターの間に着地する。
一拍遅れてパン、という乾いた音と共にるうかの視界で赤が弾けた。倒れて割れたオレンジジュースのグラスから流れた鮮やかな黄色と零れる赤がゆらゆらと揺れながら混じり合い、床に奇妙な模様を描く。
「佐保里さん!?」
「じっとしていてください」
佐保里は慌てるるうかにぴしゃりと言って、カウンターを睨んだ。いつの間にかそこに店のスタッフの姿はなく、代わりに薄汚れて灰色になった白衣を無造作にまとった髪の長い女性がニヤニヤといやらしい笑みを浮かべて立っている。その手には小さな拳銃があり、銃口は真っ直ぐに佐保里へと、いや本当は彼女の背に庇われたるうかへと向けられていた。
灰色の髪と鮮やかな青の瞳を持つ女性は表情とは全く異なる怒りのこもった声で言う。
「いい加減目障りも度を越している。るうか、浅海佐保里まで籠絡したのか? ふざけるのも大概にしろよこの雌ガキが。手駒のはずがとんだ厄介者だ。こんなことならもっと早く殺しておくんだった」
「させないですよ、鈍色の大魔王」
佐保里が真剣な声音で言い返す。るうかの位置からでは見ることができないが、先程放たれた拳銃の弾は彼女の身体のどこかに当たっているはずだ。流れる赤は量を増している。
「これは私の意思とは関係のない契約の履行です。籠絡? 馬鹿馬鹿しい。私がるうかさんに籠絡されているように見えましたか? それこそあなたの目がどうかしているんですよ。逆です。私がるうかさんを籠絡しにかかっていたんです。その証拠に、ほら」
彼女は私にこんなものを託してくれましたよ。佐保里はそう言って先程るうかが彼女に渡した手紙を取り出してみせた。そしてそれを鈍色の大魔王・阿也乃の目の前でびりびりと引き裂く。細切れの紙片と化したそれを紙吹雪のように辺りに撒き散らし、佐保里は「ほうらね」と綺麗な声で笑った。
るうかは黙ってその光景を眺める。まるで目の前に透明なガラスの板があって、それ越しに演劇か何かを見ている気分だった。つまらなそうな顔をした阿也乃と微笑む佐保里とが紙吹雪の舞う喫茶店の中で対峙している。阿也乃は何かのついでのようにパンパンと2発の弾丸を放った。同時に佐保里の身体が一度跳ね、テーブルの上にあったコーヒーカップが砕け散る。
「ああ、クソみたいにつまらない展開だ。遊戯の盤面に馴れ合いは要らない。るうか、お前はもう選ばなければならない時に来ているんだよ。足掻くな、もがくな。お前が動くと駒が狂う」
「……そうですか」
るうかは自分でも驚くほどに冷静な声で阿也乃に答える。佐保里はどさりと重い音を立てて床に崩れ落ちた。伏せた頭、黒髪の下からどくどくと赤黒い血が溢れ出している。
るうかは自分に向けられたままの銃口を前にしながら、それでも強く阿也乃を睨みつけて言った。
「度を越しているのは、ふざけているのはあなたの方です。いいえ、あなた達の方です。“一世”は一体何の権利があってこんなことをするんですか。人間を駒扱いして死なせて遊戯だなんていって自分達のいいようにして、それでうまくいかなければ駒を壊すんですか? 子どもの癇癪と同じじゃないですか!」
パン。
至極鬱陶しそうな表情で阿也乃が引き金を引いた。あ、という佐保里の声が遠くに聞こえ、るうかは暗転する視界の中に彼女の情けない顔を見る。
どうして悲しそうな顔をしているんですか。るうかの口がそう動いて、それを見た佐保里はるうかの名を呼んだ。るうかの左肩の奥が強い痛みを訴え、るうかの右手の小指がちりちりと焼けるように痛む。
それが最後だった。
執筆日2014/05/01




