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「お前という奴は」
目を覚ましたるうかが最初に聞いたのは、そんな湖澄のぼやく声だった。彼女の寝かされているベッドからは見えない位置で、彼と佐羽が何やら不穏な様子でやり取りを交わしている。
「だって……我慢ならなかったんだもの」
「それが浅海柚橘葉の策だと思わなかったのか」
「そんなこと分かっているよ。でも駄目、黙ってなんかいられなかった。だって、だってるうかちゃんは何も悪くないんだよ!?」
「静かにしろ」
湖澄の声は冷ややかで、彼がいつになく腹を立てていることがその声の調子から感じ取れた。さすがの佐羽も黙って溜め息をつく。その隙を見計らい、るうかは身体を起こした。
途端に眩暈が彼女を襲い、ぐらりと傾いだ身体をすかさず湖澄が抱き留める。彼はまだ怒りの残った口調でるうかを叱責した。
「無理をするな!」
八つ当たり、と呟いた佐羽には目もくれず、湖澄はじっとるうかの身体を見回して、それからそっと眉根を寄せる。
「痛むところはあるか? 吐き気や頭痛はしていないか。身体に動かないところや痺れているところはないか?」
湖澄の両手がそっとるうかの肩に置かれる。彼の緑がかった淡い青の瞳が不安と心配に揺れながら彼女を見ているのを、るうかはただ黙って見つめ返していた。
きっと、彼も輝名も気付いているのだ。るうかの身体に起きつつある変化と、それがやがてもたらす事態がどういうものであるかということに。るうかもその現象そのものについてはすでに予想がついている。分からないのは、どうしてそうなるのかということだ。
しかし今はそれよりも確認しておきたいことがあった。るうかは小さく首を傾げながら湖澄に尋ねる。
「あの。私をここに連れてきてくれたのは……頼成さんですよね?」
え、と佐羽が驚いた顔でるうかを見る。湖澄もまたわずかに目を瞠りながら、「そうなのか」と反対にるうかに問い掛けた。
「俺が佐羽を連れてここに来たときには、輝名がお前のベッドの横に立っていただけだった。輝名は一旦様子を見に大神殿に戻ると言って、まだ帰ってこない。俺達は頼成には会っていない」
「……でも、あれは頼成さんの声でした」
るうかは呟き、そっと湖澄から視線を外す。
「それにここは……あの宿屋ですよね。湖澄さんは知らないと思いますけど、落石さんは気付いていますよね。あの日、頼成さんが石になって……私達はただ必死でした」
「……るうかちゃん」
「部屋、直したんですね。もう大分経ちますもんね。あれはまだ夏になる前のことでしたもんね。落石さんったら、私を刺そうとして、それで私の血で頼成さんを助けようとして、でもできなくて思いっきり壁にナイフを突き立てたんですよね。怖かったですよ、あの時の落石さん」
「自分の腕に剣を突き刺していた君の方がよっぽど恐ろしかったよ……」
嫌そうな顔をして言う佐羽に、るうかはふっと笑みを向ける。佐羽は拗ねた子どものような顔をして口先を尖らせ、何か言いたそうにしながらも黙っていた。彼が今何を考えているのか、るうかには何となく察しがつく。
彼が大神殿で派手に暴れてみせたのは、るうかが脱出するための時間を稼ぐためだった。そうでなければ佐羽はわざわざ天井に穴を開けたり、群衆に向かって怒鳴ったりはしなかっただろう。ただ元いた位置から1歩も動かずに全てを破壊する強大な魔法を放つだけだったに違いない。彼は確かに怒っていたが、冷静でもあったのだ。
「ありがとうございます」
そっと告げたるうかに佐羽が一瞬びくりとして、それから顔をしかめる。
「あのね……君にお礼を言われるようなことはしていないよ、俺」
「そう言うならそれでもいいです」
「……どっちにしろ、俺達は完全に孤立しちゃったんだ。輝名が大神殿から追放されて、事態はどんどん悪化している。これじゃあアッシュナークでテロが起きたって、正直どうしようもないよ」
はぁ、と浅い溜め息をつきながら佐羽は窓の方へと歩み寄る。そこから見える景色は街外れの安宿や酒場といった店が軒を連ねる入り組んだ家並、つまりは人々の生活の場そのものだ。アッシュナークの都は広い。この多くの人々が暮らす街で今、るうか達はひっそりと息を潜めながらこの街を守ることを考えていた。ところがそこで佐羽が言う。
「……ねぇ。これだけ嫌われて憎まれて、酷いことを言われてさ。それでもこの都を俺達が守る必要ってあるのかな? そりゃあ昨日の事件については悪いのは俺だよ。でもその後改めて街を守ったって、償いにはならない。俺達が殺してしまった元英雄は戻らないし、死んでしまった勇者の侑衣ちゃんも戻らない。俺達がこの都を守ったところで、何にもならない」
せいぜい生き残った住民から石を投げられるくらいじゃないの? そう言って佐羽は皮肉げに口元を歪める。確かにそうかもしれない。湖澄ですら佐羽の言葉に反論することなく黙って床を見つめている。
「ねぇ、逃げようよ。湖澄、ネグノスに行こう。るうかちゃんの体調もよくないしさ、もうゆきさんの命令とかどうだっていいから。あの静かで安らかな場所でゆっくりしようよ。それがいい、そうしよう」
佐羽は湖澄の上着の袖に縋り付くようにして訴える。その表情は奇妙に歪み、笑顔とも泣き顔ともつかない不可思議なものになっていた。ねぇ、と佐羽が湖澄の袖を引く。湖澄はそんな佐羽の瞳を黙って見つめる。佐羽はなおもしつこく湖澄にまとわりつくが、彼は決して首を縦に振らなかった。
「盤面はすでに最終局面にある」
ゆっくりと口を開いた湖澄の言葉にるうかはハッと彼の目を見る。彼は佐羽ではなくるうかを見て話をしていた。
「浅海柚橘葉が陰で糸を引き、都でのテロの情報を輝名や浅海佐保里を利用してこちらに流した。そして俺達を都におびき寄せ、柚木阿也乃が先手を打つだろうことも予測した上で敢えて昨日の事件を起こさせた。柚木阿也乃がお前達を英雄に仕立て上げようとしたことを逆手に取り、そして浅海柚橘葉は俺達の行動に制限をかけることに成功した。最早この都で俺達の言葉に耳を貸す者などほとんどいないに等しいだろう」
そこまで言って、湖澄は腕組みをしながら目を閉じ、溜め息をつく。
「俺には、柚木阿也乃がこうなることを読めていなかったとは思えない」
「……何だって?」
佐羽が目を剥いて湖澄に対して反論する。
「じゃあ、ゆきさんは分かっていてやらせたっていうの? 俺達がこの都で戦えなくなるように仕向けたっていうの。それはおかしいよ。だってこの都にもしものことがあれば、この世界には大きな絶望が訪れる。神殿が曲がりなりにも守ってきた秩序がなくなってしまったら、みんなただ“天敵”に怯えて治癒術を怖がって、その恐怖をどうすることもできなくなってしまう!」
それじゃあゆきさんの負けになるじゃないか。そう言った佐羽に、湖澄はそうだなと頷いた。
「人々は最後には夢と現実、こちらとあちらのどちらかの世界を選ぶことになる。この世界は向こうと比べて過酷だ。それでも治癒術という、向こうの医学では癒すことのできない病を癒す方法があることがこの世界の希望になっている。向こうの世界で不治の病に苦しむ人が、こちらでは健康な生活を送ることができる。そういう仕組みを整えてきたのが神殿であり、また柚木阿也乃本人でもある」
神官による祝福と魔王による呪いは形式こそ違うが目的は同じだ。治癒術を施された患者に生じる細胞異形を他に移すことで患者の“天敵”化を抑止する。それによって“天敵”の発生はある程度管理できるものとなった。しかし大神殿の体制が崩れるような事態になれば、その秩序の両輪ともいえる祝福と呪いのうちの片方が機能を失う可能性もあるのだ。
実際にどうなるかはなってみなければ分からない。しかし人々がその不安に気付いた時点で、彼らはこの世界を怖がるだろう。人々の世界選択は向こうへと大きく傾くことになりかねない。
柚木阿也乃はこちらの世界を自分のフィールドとし、浅海柚橘葉は向こうの世界を担当している。彼は紛れもなくこの世界を貶め、向こうの世界の価値・魅力を相対的に高めようとしていた。しかし柚木阿也乃は今回、この世界の希望を危うくするような悪手を敢えて打ってきたように見えるのだ。
「ゆきさんがそんなことをする理由が分からない」
佐羽は顔をしかめながらそう言った。るうかはそんな彼を見ながら、そしてその向こうに窓の外の景色を見ながらふっと零す。
「柚木さんは、この世界が好きではないんでしょうか……?」
「……え?」
「何となく、そう思ったんです。どういう理由であの人がこちらの世界の担当になったのかは知りませんけど、あの人にとってこの世界はゲームのフィールドでしかないのかもしれないなと思って。向こうの世界で落石さんを見ていた柚木さんは、楽しそうでした。随分歪んではいましたけど、この人はこれが楽しいんだろうなっていうことは嫌になるくらい伝わってきました。あの人の興味はそういうところにしかないんじゃないでしょうか」
淡々と語るるうかに、佐羽はぼうっとした視線を向けていた。まるで魂が抜けてしまったかのようなその表情を見て、それでもるうかは最後に言うべきことを言う。
「あの人がこの世界でしていることは、呪いを使って治癒術師を石に変えるということだけです。それを隠したりはしないし、神殿みたいに地下に神官を隔離して“天敵”になった彼らを処分するようなこともしていません。それでいて私みたいな勇者を生み出したり、まるで……ただ何となくゲームに付き合っているだけみたいな気がします」
「舞場さんの意見には俺も概ね同意する」
湖澄が言い、呆けた顔の佐羽を少しだけ優しい目で見やった。
「柚木阿也乃はゲームに飽きている節がある。俺もあの女性をそう詳しく知っているわけじゃないが、少なくとも興味の湧かないことに対して熱心に取り組むタイプには見えない。もっとも、その辺りは佐羽、お前の方がよく知っているんだろうが」
ああ、と佐羽は頷いた。そうだね、その通りだよ、と。そして彼は両手で顔を覆ってその場にうずくまる。
「初めからどうでもいいゲームだったの? そんなことのために俺達は……俺は、今まで、散々……どうして、せめて、意味のあることならまだ……だって俺は……」
落石さん、と呼び掛けながらるうかはゆっくりとベッドから降り、彼に歩み寄ってその丸くなった背中をさする。これ以上彼を追い詰めてはいけないだろう。佐羽は壊れそうな心を抱え、己のしでかしてきた罪の重さに苛まれ、それでも阿也乃に従ってきた。それが揺らいだとき、彼は自分を支えるものをなくしてしまいかねない。
自業自得といえばそれまでである。しかしるうかは優しく彼の背中をさすり続けた。湖澄もまた、それ以上は何も言わずにただるうかと佐羽の様子を見守っていた。しばらくの時間が経って、湖澄が窓辺に寄りかかりながらぼんやりとした様子で呟く。
「この世界は死を見る者が多すぎる」
るうかは壁に寄りかかって座りながらその言葉を聞いていた。佐羽はそんなるうかの隣で静かに寝息を立てている。湖澄は誰に言うともなく言葉を続ける。
「向こうの世界でいうところの天国……あるいは地獄。見ようによってはそんな世界だ。向こうの常識では治るはずのない病気が治り、向こうの世界ではありえない人間の“天敵”が人を食らう。極端すぎるんだ」
「私は……」
るうかは静かに口を開いた。
「私は向こうの世界の生まれだから、今湖澄さんが言ったのと同じようなことを思います。まるで死後の世界みたいだな……って。でも、落石さんや……頼成さんみたいにこっちの世界で生まれた人にとってはこっちの方が常識なんですよね。きっと向こうの世界の方がよっぽど嘘くさく見えているんだと思います」
「嘘くさく、か」
湖澄はるうかを見つめ、るうかもまたのろのろと視線を上げて彼を見た。左肩の奥がずくずくと疼いている。まるで新たな生命がそこで脈動を始めているようだった。湖澄はたっぷり10秒はそうやってるうかを見て、それからぼそりと呟く。
「いずれにしろ、人はどちらかの世界で生きていく。どちらも選べなければ、ただ盤面から脱落する」
「……」
るうかは黙って湖澄の呟きを聞いていた。あの世も嘘もまっぴらだが、生きることをやめるつもりもない。そして侑衣の遺したものがある限り、彼女は戦うと決めていた。やがて全てを忘れるときが来るとしても、そのときまでは勇者であり続けようと心に誓う。
静かに星の瞬く夜の帳がゆっくりとアッシュナークの都を覆い隠していった。
執筆日2014/04/22




