1
観覧車を降りた後、頼成はるうかを日河岸市の自宅前まで送り届けてくれた。彼に礼を言ってその車が走り去るのを見送ったるうかは家には入らず、その足で地下鉄に乗ってある場所へと向かう。時刻はすでに午後7時近かったが、急がなければならないのだ。るうかには託された大切な使命があった。
慣れない路線を乗り継いで、降り立った駅で駅員にバスの路線を尋ね、時刻表を確かめてバス停へと向かう。大事に抱えたバッグの中に目的のものがあることを確認してバスに乗ったるうかは胸元に揺れるネックレスに気付いてそれを外そうかどうか少しの間迷った。そして結局それを外さないままに目的の停留所でバスを降りた。
目の前にそびえるのは2棟の塔だ。高層階用エレベーターに乗り込んで最上階まで上がり、端の部屋のインターホンを鳴らす。間もなく中から輝名が顔を出した。
「随分とめかしこんでいるじゃねぇか」
るうかの全身を見てからかうように言った彼はいつも通りの表情であるように見える。しかしるうかは彼の顔色がいつもよりわずかに白いことに気付いていた。お邪魔します、と言って中に入ったるうかに輝名は悪いなと告げながらキッチンの方を指差す。
「茶を用意してくれるか。俺がやるより早いだろう」
「何がいいですか?」
「日本茶が置いてある。急須も棚にあるから」
そう言い置いて輝名はふいとるうかに背を向けてリビングへと歩いていってしまった。るうかはとりあえず荷物をキッチンの片隅に置くと、まず手を洗ってそれからお茶を淹れにかかる。日本茶は舞場家でもよく飲まれるので、淹れることはそう難しくない。しかし何事も一流を好みそうな輝名のことだ。るうかの淹れ方で満足してもらえるかどうかは分からないところだ。そしてそんなことを考えながら湯呑にお茶を注ぎ分けていたるうかはやっと気付く。
きっと侑衣であれば、日本茶を美味しく淹れることができたのではないだろうか。見た目も、剣道をやっていることからもどこか和風の印象が強い彼女のことだ。しつけられた所作といい、お茶の淹れ方も手馴れていると考えられる。そして何より彼女は紅茶よりも日本茶を好むだろう。輝名は、だから敢えてそれを所望したのだ。そしてだからこそ自分ではそれを淹れることができなかったのだ。
るうかが2つの湯呑を持ってリビングへ行くと、輝名は窓際に立って夜景を眺めていた。窓ガラスに映る彼の顔に悲愴の色はない。お茶が入りましたよ、と告げたるうかに彼は振り返って「悪いな」と微笑んだ。
「客にやらせることじゃねぇのは分かっているんだがな」
「構いませんよ」
何しろ輝名の左腕は今日もいつものように三角巾とベルトで吊られ、固定されている。そして夢の世界においても彼は大切な“左腕”を失ったのだ。お茶のひとつくらい、るうかにしてみれば何でもないことだ。
「何となく、お前が来る予感はしていた」
輝名はソファに腰を下ろしながらそんなことを言う。るうかは一度キッチンに戻って自分の荷物を取ってきた。そして何も言わずに白い封筒をテーブルの上に置く。表には流れるような文字で小さく宛名が書かれており、自分の名前を見た輝名がそれをじっと見つめた。
「侑衣からか」
呟いた彼の声には隠し切れない落胆が滲んでいる。そうです、と答えてるうかは彼の反応を待った。しばらくしてから輝名はふとソファから立ち上がると奥の部屋に消える。そして木製の洒落たペーパーナイフを手に戻ってくると、それをるうかへと手渡した。羽根のような形をしたそれを受け取ったるうかはわずかに困惑して輝名の顔を見る。
「私が開けていいんですか」
「片手じゃ開けられねぇ」
輝名はそう言うが、本当は開けられるはずだ。彼の右手は左手の下に隠すように添えられて小さく震えている。普段は不遜な態度の目立つ彼がここまで動揺を顕わにするとは、るうかとしても意外だった。何となくではあるが、輝名であれば決して弱みは見せないような気がしていたのだ。
るうかはそれ以上何も言わず、丁寧に手紙の封を切る。そして取り出した中身を輝名へと返した。封筒と同じく真っ白な便箋2枚に綴られた言葉を、輝名は長い時間をかけて読んでいく。
窓の外には夜景が広がっているのだろうが、るうかの座る位置からはほとんどそれは見えない。代わりにソファの背もたれと、そこに載っているような輝名の白銀の後頭部が見える。そしてそれを見つめるるうか自身と視線が合う。彼女はそうやってしばらく自分自身を眺めていた。やがて輝名が小さな声で呟く。
「これで終わりか」
特別不満そうでもなく、ただ事実を述べるように紡がれた言葉。しかしそこには確かな空虚が存在する。
終わってしまったのだろう。彼と侑衣との間にあった、主従、あるいは信の置ける同志という関係そのものが。侑衣から輝名への手紙は訣別のそれだったのだろうか。
「……るうか」
輝名はテーブルに手紙を置くと、真っ直ぐにるうかを見つめる。その目は鋭く、これまでのやや憔悴した様子とは打って変わって鋭利な刃物のようにぎらりと光る。るうかも自然と姿勢を正した。
「はい」
「柚木阿也乃による横槍はあったが、こちらの計画に変更はねぇ。アッシュナークを守りきることが大神殿の総意だ。たとえそれが建前でも、俺はその任務を確実に遂行する」
るうかは頷き、輝名の強固な意志に追従することを示す。彼もまたるうかに頷きを返した。
昨夜のうちにるうか達は輝名の用意した前線基地へと移動していた。一時避難させた都の住民達は、翌日から鎮魂祭が執り行われるということもあって一旦自宅に戻っている。その鎮魂祭の中でいつどのような形で事が起きるのか、それは誰にも分からない。侑衣という頼もしい戦力が欠けた穴は大きく、るうかにはその点でも大きな不安があった。同時に、勇者である自分の役割は重いと感じる。
彼女のそんな思いを見抜いてだろうか。輝名がふと忠告する口振りで告げる。
「るうか、言っておくが……馬鹿な気は起こすなよ」
「……え?」
「この際だからはっきり言ってやる。死ぬな。お前が死んで悲しむ奴は大勢いる。頼成も佐羽も湖澄も、それに勿論俺もだ。俺はお前のことを結構気に入っている。お前の命は、重い。それを忘れるなよ」
「……輝名さん」
彼の言葉は真っ直ぐにるうかの胸へと届いた。同時に彼の悔恨と、もう二度と侑衣のような死に様を見たくないという悲痛な思いも伝わってきた。それでも、いやそれだからこそるうかには彼に言っておかなければならないことがあった。
「輝名さん、私……あの虹色の国での戦いの後から、時々左肩の奥が痛くなるんです」
淡々と語り始めたるうかに輝名がハッと目を見開く。るうかはそれに気付きながらもなお静かな語調で続ける。
「痛みは少しずつ強くなっています。初めは私の脈に合わせるようにしてずきずきと痛んでいたのが、最近ではまるで別の生き物がそこにいるみたいに勝手に痛くなるんです。これは良くない徴候ですよね。でも、肩だけで収まっているうちはまだ猶予がありますよね」
輝名は何も答えず、ただるうかの顔と左肩を凝視する。るうかはわずかに視線を落として言った。
「ごめんなさい。もしかしたら、私」
「早すぎる」
ぼそり、と低い声で輝名が言う。彼は高い天井を仰ぐようにして右手を自らの目元に当てた。苦渋に満ちて歪む口元、その唇が噛み締められて白くなっているのをるうかはそっと顔を上げて見る。
「ごめんなさい」
「てめぇが謝ってどうする。くそ……どうしてだ? お前はまだ目覚めて半年も経っていない。それでどうしてそこまで」
「どうしてなんでしょうね」
他人事のような言葉がるうかの口から漏れる。輝名の苦悩はるうかにはあまりよく分からない。彼が知っていることを、るうかは知らない。どうして侑衣があのような死に方をしたのか、彼はそれを説明してはくれなかったためだ。やはり“二世”として知っていても語れないことがあるのだろう。そして恐らくそれを話すことによって何かしら盤面に影響が出るのだろう。だからこそ語れない、明かせない。そして彼は人としての感情と“二世”としての立場の間で懊悩する。
「るうか……計画に変更はねぇ。今夜……前線基地を出たら予定通りに配置についてくれ」
そう言った彼はまだ天井を向いたままだった。るうかは頷き、程よく冷めたお茶で乾いた喉を潤す。それは少し濃く淹れすぎたためか、ひどく舌に苦かった。
「……」
ぎりぎり、と輝名が奥歯を食いしばる音が聞こえる。その静けさの中でるうかは黙って苦いお茶をすする。大丈夫です、と彼女は小さな声で輝名に伝えた。
「侑衣先輩は最期まで私にたくさんのことを教えてくれました。輝名さんがそんなに苦しむことはないと思います。私は侑衣先輩から先輩のことを聞いても、それでも逃げたりはしないと決めてここに来ましたから」
「馬鹿か、お前は」
天井を見たまま、輝名は本当に呆れ返った風情で口を開く。
「逃げればいい。逃げて生き延びることの何が悪い」
「そう言いながら輝名さんは逃げないでしょう。辛いなら、辛いものを見たくないなら逃げればいいのは輝名さんだって同じです。迷ったって悩んだって別にいいんでしょう? “二世”だから、と我慢なんてしなくても」
「馬鹿を言うんじゃねぇよ。ここで俺が投げ出したら侑衣に合わせる顔がねぇ」
そう言って輝名はやっと天井からるうかへと視線を戻す。彼の目にはわずかな涙と、そして光があった。
「落とし前はきっちりつけてやる。それで、あいつを迎えに行くんだ」
「……輝名、さん?」
「初めましてでいい。左腕じゃなくていい。ただ、この世界でもう一度生きているあいつに会う。そのためにもこの戦いから逃げるわけにはいかねぇ。あいつが貫いた生き様に恥じないだけの戦果を引っ提げて、そうしてあいつの前に出向いてやる」
ニヤリと笑う輝名の表情は強く悲しく、それでいて彼がすでに固い決意を確かにしていることを示していた。アッシュナーク大神殿大神官代行のカグナとして“左腕”たる勇者ユイと過ごした時間は最早侑衣の中には残されていないのだろう。夢の中での死はそうと自覚した時に現実の死になるのだという。故に人は夢の中での死を忘れ、現実で生き続ける。そうして3年前の“るうか”も治癒術師としての自分を綺麗に忘れてその後の日々を生きてきた。そうすることでしか人は夢の中での死を乗り越えられない。だから輝名は改めて、この世界で侑衣に会おうというつもりらしい。何も覚えてはいないだろう彼女に会ってどうするつもりなのか、そこまではるうかには分からないし尋ねるべきことでもない気がした。だからるうかはただ頷き、そして苦いお茶の最後の一滴を飲み干す。
「じゃあ、私は帰りますね。今夜からが正念場ですもんね」
「ああ。頼むぜ、るうか。だが危ないと思ったら逃げろ。都を守ることは勿論重要だが、自分の命も守れない奴が他人を守れるもんか。それだけは心しておけ」
輝名の言葉にはいと力強い返事をして、るうかは早々に彼の部屋を後にする。バスと地下鉄がなくなる前に家に帰りつかなくては、おちおち夢も見ていられないのだ。
るうかが去った後、照明を落とした広いリビングには日河岸の街の夜景がもたらす明かりが夜光のように満ちていた。白銀の髪に色とりどりの光が淡く映る。そうして部屋の中に立ち尽くした輝名は白い便箋を片手に音もなく、嗚咽を漏らすこともなく、輝く紫がかった青い瞳から流れる涙でただただ頬とシャツとを濡らしていた。
執筆日2014/04/22




