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海を横目に車はひた走る。頼成は何も言わず、ただただアクセルに足を載せていた。他に通る車のない道は静かで、辺りには人家もほとんど見当たらない。このまま走ればやがて道は日河岸市と隣町の境を越えるだろう。無音の道行きに、るうかもそれ以上何も言わずに黙っていた。
視界の端に“尖峰市”と書かれた看板が通り過ぎる。隣町に入ったのだ。海に面したその町は日河岸市と比べると面積も小さく人口も少ないが、その名の通りに峻険な山々を擁しており、そこから流れ下る川と肥沃な土地に恵まれて畑作の盛んなところだった。またこの町の港は古くから外に向けて開かれており、一昔前までは日河岸市よりもずっと賑わっていたとさえ言われているほどだ。日河岸市が周囲の小さな町や村と合併してきたことによりいつしか町としての規模は逆転したが、今でもこの町にはたくさんの史跡やかつての賑わいの面影を残す建物がいくつも残されていた。
頼成は海沿いの道を外れ、尖峰市の中心街を少し外れたところから山側に向かって伸びる県道へと入る。どうやら彼には明確な目的地があるようだった。途中彼はるうかに空腹ではないかと尋ね、るうかが黙って首を横に振るとそうかと頷いてそのまま車を走らせた。
斜面を切り拓いて造成された住宅地を抜け、坂道を登る。すると辺りは林に覆われ、道が少しだけ細くなる。一度橋を渡り、くねった道をしばらく行くとやがて視界が開けてきた。
坂道の行き止まりにはそれなりの広さを持つ駐車場があった。その横には“シウニンインカルシ展望台”と書かれた粗末な看板と、少し錆びた小さな自動販売機が置かれている。他の車の姿はない。頼成は自動販売機のすぐ横に車を停めると、眼鏡を外してから外に出た。るうかも彼に続いて車を降りる。
「ここ、ちょっと特別な場所らしい」
頼成がそう言いながら駐車場の端へと歩いて行く。展望台と言うからにはそこからはきっと良い景色が見られるのだろう。るうかは彼の後をついて歩きながら、そっと辺りの様子を窺った。
何もない場所である。人気の観光地ではないことは確かで、それでもどこか不思議な気配が辺りを包んでいるような気がする。どうしてそう感じるのかと考えて、やがてるうかは気付いた。駐車場の周囲を囲む木製の柵の外には空の青色以外何も見えないのだ。
「俺も来たのは初めてだ。教えてくれたのは緑さんで……いつかるうかと行ってみたらいいって言ってくれたんだ」
そう言った頼成が駐車場の端に立ってるうかを手招きする。誘われるままに歩いていったるうかはそこでぐいと右手を頼成に引かれた。よろめいたるうかを頼成は後ろから抱き締め、ほう、と息をつく。そしてるうかは彼の温もりを感じながらそれを見た。
目の前に広がるのはどこまでも続く青色のパノラマだった。果てしない海の遠くが緩やかな曲線を描き、自分達の立つ地平が実は平面ではないということを知らせている。足元にあるはずの町は見えない。ここが現実なのか、それとも夢の世界なのか、るうかは束の間その境を忘れた。陽光に煌めく青色の端は空と溶け合ってほとんど見えず、そこからほんのわずかな白い波の筋がゆっくり、ゆっくりと打ち寄せてくる。高い空に雲はなく、全方位に広がる限りない青がるうか達を静かに包み込んでいた。
「……忘れたら、か」
ぽつり、と頼成が言った。それが車内で交わした会話の続きであるとるうかもすぐに気付く。
3年前に頼成と出会った“るうか”が彼のことを何ひとつ覚えていなかったように、この先にも同じことが繰り返される可能性がある。頼成もそれは分かっているのだろう。一度深く息を吸った彼はるうかを抱き締める腕にきゅうと力を込めた。
「そうだな。あんたが忘れたって俺は忘れない。だから何も変わらない」
「……変わらないんですか?」
「変わらねぇよ」
るうかの頭頂部を頼成の唇がかすめる。気持ちいいな、と彼は言った。
「あんたの髪、気持ちいい」
「……ありがとう、ございます?」
「心配すんな。その時は……」
言いかけて頼成はふと言葉を途切れさせた。小さく震える彼の腕。るうかはそれを自分の手でそっと撫でる。
「無理に答えてくれなくていいんですよ。私にだって分かりません。頼成さんにどんな答えを期待していたのか……。ただ、言わずにいられなかったんです」
「俺、余計なこと考えているんだろうな。もしそうなったときにあんたがどんな生活しているかとか、また俺達が関わることであんたが危険な目に遭うのかとか……駄目だ、悪い。今は」
「いいですよ。……さっきので、充分です」
ふふ、とるうかはどこぞの魔王のように含み笑いをしてみせる。本当に嬉しかったのだ。変わらない、と言い切った頼成のその気持ちがただ嬉しくて、それでいいと思えたのだ。ふふふ、と笑い続けるるうかを頼成は温かい腕で抱き締める。そのまましばらくの時が過ぎた。
「幸せです、頼成さん」
るうかが言うと、頼成は音もなく頷く。
「今朝思い切って電話して良かった」
「……嬉しかったよ、あんたからの電話。少し怖かったがな」
「どうしてですか?」
「あんたにもしものことがあったら……って。最近そんなことばっかり考えてる。あんたを守りたくてあんたから離れたのに、余計不安になるばっかりで……馬鹿みてぇだな、俺は」
頼成の溜め息にくすぐられてるうかの髪がさわりと揺れる。るうかはその感触に少しだけ恥ずかしさを覚えながらも、労わるように頼成の腕に触れた。
「大丈夫ですよ……守られているって、大切にしてもらっているって、私はちゃんと感じています。離れているのは寂しいですけど、頼成さんはちゃんと連絡できる手段をくれましたし。精一杯のことをしてくれているじゃないですか。だからそんなに、自分でばかり背負い込まないでください。悪い癖ですよ?」
「……だな」
苦笑した頼成がそっとるうかの肩を掴んで自分の方へとその身体を向けさせる。そして慈しむように彼女の頬に両手を当てると、そっと身を屈めてゆっくりとるうかに口付けた。青空と青い海に包まれた異界のような場所で交わされるキスはまるで時間さえも止めてしまったかのようで、るうかはそれが永遠に続けばいいとすら願った。
たとえばこのまま頼成に口を塞がれて息絶えても、それでもきっと幸せだろうとすら。
高くなった太陽が青空から海へと降り注ぐ。閉じた瞼にも赤く沁みるその光を感じながら、るうかはゆっくりとした呼吸を繰り返す。その度に頼成の唇を、その感触を、匂いを感じて心が満たされていく。いつの間にかるうかは頼成にその身体を強く抱きすくめられていた。与えられるばかりだったことに気付き、彼女はもぞりと腕を伸ばして彼の身体を包もうとする。しかし彼の鍛えられた体躯は彼女の手に余った。やっと届いた背中にこわごわと触れれば、引き締まった筋肉の厚さにどきりとする。
頼成がさらに強く彼女を抱き締めた。つられるように深くなる口づけにるうかはどぎまぎしながらも嬉しく、そして触れ合う身体の箇所が多ければ多い程温もりを分かち合えるという事実に感動していた。頼成に触れている唇が、腕が、胸が。そして彼が触れている背中が、腰が、熱い。高い天から注ぐ陽射しを受けながらこうしていれば、やがて2人は溶け合ってしまうのではないだろうか。そんな感覚を覚えてるうかは思わず願う。
どうか、いつか全てを忘れる時が来たとしても頭のどこかにこの記憶が残っていますように。
そして夢でもいいからこの時の感覚に再び出会うことができますように。
この幸福を、現実に遺しておけますように。
頼成がゆっくりと唇と身体を離す。るうかがふっと息を吐いた瞬間、彼は不意打ちのようにもう一度彼女の唇を奪った。一瞬のそれに驚くるうかを見て頼成はにやりと笑う。
「たまんね」
「……ら、頼成さん……」
るうかは急に恥ずかしくなって思い切り頬を赤らめた。何しろいくら他に人がいないとはいえここは屋外である。それだというのに恥じらいもなく抱き合って、随分長い時間キスをしていた。普段のるうかであれば考えられないようなことをしてしまっていたのだ。
しかし頼成は悪びれた様子もなくるうかの頭をよしよしと撫でながら楽しそうに笑って言う。
「いいじゃねぇか、どうせ誰も見てない。それに言ったでしょうよ、ここは特別な場所だって」
「確かにすごい景色ですけど……何が特別なんですか?」
るうかが首を傾げると、頼成はふっと青空と海の境へと目をやる。広がる青に滲む光が煌めくそこには何か神聖なものが秘められているように見えた。
「緑さんが言うには、この世界のどこかには向こうの世界と直接繋がっている場所があるらしい。それもひとつじゃなくて何箇所も。ここがそうだとは言ってなかったが、俺はそうなんじゃねぇかと思ってる」
「……夢じゃなくて、向こうの世界に行ける?」
「かもしれない。違う、かもしれない。だがこの景色を見ているとまるで現実味がなくて、どっちの世界にいるのか分からなくなりやしないか?」
頼成の言葉にるうかも頷く。この場所につけられた“シウニンインカルシ”という名前もこちらの世界の、少なくとも日本語の響きではない。もしもこの場所が向こうの世界と繋がっているのだとしたら、どちらの世界を選んだとしても同じことになる。たとえるうかがこれまでの記憶を忘れても、また向こうの世界と繋がることができるかもしれない。
「そうだったらいいですね」
るうかが言い、頼成は小さく肩をすくめる。確証は何もないと言いたいのだろう。しかしるうかにはその小さな希望が嬉しかった。嬉しいことがたくさんある、と彼女は呟く。
「今日はとても素敵な日です」
そう言った彼女を、頼成はたまりかねた様子でもう一度力いっぱい抱き締めた。
執筆日2014/04/17