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るうかは震える手でノートを閉じる。閉め切ったカーテンを透かして入る朝の光がうっすらと彼女の横顔を浮かび上がらせ、そこに伝う幾筋もの涙を明らかにしていた。彼女は自室でたった1人、この平穏な日曜日の朝を迎えている。母親である順は深夜勤務でまだ帰らない。父親である聡は出張で明日まで戻らない。彼女の行き場のない感情を受け止めてくれる者は誰もいない。
この悲しみを、恐怖を、憤りを、無力感を、そして絶望を。
今独りきりでそれらを抱える、そのことがるうかをひどく苦しめている。誰か、誰か、と手を伸ばした先には紫がかった黒色の携帯電話があった。
コールは3回。すぐに電話に出た頼成が少しだけ戸惑った様子でるうかの名を呼ぶ。
『どうしたんだ、るうか。こんな朝早くに。何かあったのか?』
「頼成さん……」
しまった、とるうかは自分の軽率な行動を少しだけ恥じた。この涙声では頼成を心配させるだけではないか。しかしそれでも、耐えることのできない感情はひたすらに助けを求めてるうかの口を動かす。
「会いたいです、頼成さん」
『……るうか?』
「あなたに会いたいんです。お願いします。一瞬でもいいんです。それでもいいから、会ってください」
不安も寂しさも何もかもを隠す余裕などなかった。るうかの言葉に頼成は何を思ったのだろうか。少しの間を空けた後で、彼はとても静かで優しい声で言う。
『ああ、分かった。今は、家か?』
るうかは今朝目を覚ましてすぐに佐羽の運転する車で自宅に送り届けてもらっていた。だから頼成の問い掛けにはいと答える。すると頼成はん、と小さく頷いた。
『了解、迎えに行く。少し遠出しようか。支度をして待っていてくれ』
「……はい」
礼の言葉すら言えないまま、るうかは静かに電話を切った。そして昨日外出したときのままの服でひとまず風呂場へ行ってシャワーを浴びる。髪を乾かし、服を着替え、普段はしない化粧をした。涙の跡が目立たないように。少しでも元気に見えるように。そう繕わなければとても頼成に会えるような顔ではなかったのだ。
しばらくぶりの再会である。るうかが衣装として選んだのは白いレースネックにサックスブルーの地色が映えるワンピースに、ざっくりとしたニットのカーディガン。それに白を基調としたハイソックスと飴色のショートブーツを合わせると、秋めいてきた今の季節によく合うすっきりとしてそれでいて柔らかなシルエットができあがった。最後に髪をもう一度梳いていつもより少しだけその形をアレンジし、鈍いチェリーピンクのショルダーバッグを手にする。中には先程読み終えたノートと、そして侑衣から預かった輝名宛の手紙を入れることを忘れない。
るうかが全ての準備を終えたちょうどその時、舞場家の玄関のチャイムが軽やかに音を立てて来客を知らせた。
頼成は黒光りする大きめの車を海際へ向かう国道へと走らせる。滑らかな運転には無駄がなく、無理な追い越しや頻繁な車線変更もない。佐羽とは対照的なその運転にるうかは安心感と心地良さを覚えながら大人しく助手席に座っていた。
車内には静かに音楽が鳴っている。ラジオ放送によるそれは頼成の好みなのか、それとも無難なものをとつけただけなのか。るうかは時折そっと横目で頼成の姿を確かめるように見た。彼はいつものラフな格好ではなく、胸元の開いた薄手のニットの上に上等そうな光沢を持つ黒革のジャケットを羽織っている。そして防眩というよりは恐らく素顔を隠す目的によるのだろう、色のついた眼鏡を掛けていた。そんな頼成の格好があまりにいつもと違うので、るうかは何とはなしに何度も彼の方に目をやってしまう。しまいに頼成が苦笑した。
「変か? 一応、変装のつもりも半分くらいはあってな」
「あ……ごめんなさい、つい」
謝罪の言葉を口にしてから、るうかはふと気付いて尋ねる。
「半分ですか?」
「おう。残り半分は……まぁ、久し振りにあんたに会うからそれなりに気合い入れてきたってことですよ」
少しだけ照れ臭そうに、そして嬉しそうに彼は言った。それだけでるうかは顔が熱くなり、鼓動が速くなるのを感じる。会えない時間が愛を育てる、などと歌の文句のようだが、まさしくそのような気分だった。赤面するるうかにそっと横目を向けつつ、頼成はにやりと口元を歪めながら言う。
「あんたも今日は特別可愛いな」
「……らっ……」
「すげぇ嬉しい。今日のあんた、このままどこか……誰の手の届かないところまで連れて行って閉じ込めて俺だけのものにしちまいたいくらいだ」
低い声にるうかの背筋がざわりと震える。頼成の言葉にはわずかに本気の響きがあった。それもいい、とるうかは思う。しかし頼成は本当にそのようなことをしたりはしないのだろう。それも彼女にはよく分かっていた。
「どこまで行くつもりなんですか?」
頼成が乗ってきたのは海にでも山にでも行けそうな車高の高い、それでいて流線型のフォルムを持つスマートなスポーツタイプの車だった。どこで手に入れたものかは分からないが、彼はそれを綺麗に乗りこなしている。普段車を使っているイメージがなかったので意外ではあったものの、るうかから見て運転席に座る彼の姿はなかなか様になっていた。
「どこまで行きましょうかね」
静かに、そして楽しそうに頼成は言う。海へと向かう道の手前で左に折れて、車は西へと向かう。片道2車線の走りやすい道路を、頼成の運転する車は滑るように走っていった。
「あんたの行きたいところがあれば、そこに行くが」
「あ……ええと、特には思いつかないです。どこでもいいです」
「男に任せちゃっていいんでしょうかね」
「頼成さんになら」
るうかが言うと、頼成は少しだけ口先を尖らせて「んー」と困ったように唸った。
「信用されるのも考えものだな。迂闊に裏切れやしねぇ」
「裏切られたって構いませんよ、私は」
「そんなこと言わないでくれ。俺はあんたを大切にしたい。分かってる、本当は俺自身そんな器じゃねぇんだが、それでもそうさせてくれ。俺にできる限り……あんたを愛させてくれ」
懇願するような頼成の言葉に、るうかは小さく「はい」と頷いた。言葉の途切れた2人の間をラジオから流れる優しいメロディが通り過ぎていく。車道の右手に青い海が見えてきた。ああ、と頼成が小さく声を出す。
「そっちからだとあんまりよく見えないよな、海」
「え? ああ、そうですね。でも頼成さんはよく見えますよ」
「……そりゃあ、また、何とも言えない爆弾を……」
「え?」
「あんまり可愛いこと言わないでくれるか? 事故りそうだ」
頼成はそんなことを言って苦笑した。るうかは再び赤面しながらもその瞳に涙が溜まっていくのを止められない。この穏やかで幸福な時間がじわじわと彼女の心を締めつけていくのだ。
何があった。頼成がそう尋ねたのは、車が日河岸市の外れに差し掛かったところだった。右手に海を見ながら走る車の中で彼はそっとるうかに話を促す。るうかは昨夜アッシュナークの英雄記念館で起きたことを頼成に話して聞かせた。
輝名に依頼されて赴いた英雄記念館で、佐羽の手引きにより待ち伏せしていた阿也乃に出会ったこと。彼女が佐羽に命じて英雄記念館の石像達を“天敵”に変えたこと。それから輝名の使者としてそこに迎えに来ていた侑衣と共に“天敵”と戦ったこと。侑衣が致命傷を負い、そこに佐保里が現れたこと。
「……アッシュナークは、無事でした。輝名さんがいち早く異変に気付いて、街の人を郊外に避難させていたんです。建物はいくつか壊れましたけど、街の人に怪我人は出ませんでした」
あの手強い“天敵”を相手によくそこまで戦えたものだと、るうか自身も思う。しかしそのために払った代償は大きかった。とてもとても大きかった。
「侑衣先輩が……亡くなりました」
頼成がラジオのボリュームを下げる。るうかはそれ以上何を言っていいのか分からずに、それでも何とか言葉を探して続ける。
「勿論、侑衣先輩にとってあの世界は夢ですから……こっちの世界の先輩は生きています。3年前の私みたいに」
「……そうか」
頼成はそう頷きながら車を右折させた。海際の細い道をゆっくりと走りながら、車は日河岸市の端を目指す。高い空を映して蒼く煌めく海はひたすらに穏やかだった。
「頼成さん」
るうかは頼成の方を見ずに彼へと呼び掛けた。
「もし、私がまたあなたのことを忘れてしまったら。そうしたらあなたはどうしますか?」
執筆日2014/04/17