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息が上がり、全身の重さが急に増したように思える。いくら勇者の肉体が強靭にできているとはいっても疲労までを拭い去ることはできない。るうかは一度深呼吸をしようとしたが、“天敵”達はその隙を与えてくれない。畳みかけるように3体の“天敵”がるうかに向かって触手状に伸ばした肉の腕を突き出してくる。るうかはそのうちの1本を右手のカタールで叩き斬り、もう1本を足で蹴り飛ばした。残る1本をかわそうと身を捻った瞬間、るうかの左肩に激痛が走る。
わずかに動きの鈍った彼女の脇腹を“天敵”の腕がかすめた。真っ赤な血がしぶき、るうかは声を押し殺しながらその腕を叩き斬る。幸いなことに怪我そのものは軽いが、問題は肩の痛みだ。肉の奥から押し広げるような鈍痛がるうかの鼓動とはまるで無関係にどくどくと脈打っている。心なしか眩暈がした。
「るうか、大丈夫か!?」
侑衣が焦った様子で声を掛けてくるが、彼女もまた無傷ではなかった。こめかみから細く血を流している彼女にるうかはできる限りの声を張り上げて答える。
「大丈夫、かすり傷です!」
「確実に数は減っている。もうひと踏ん張りだ」
頼もしい言葉をくれる侑衣に頷きながら、るうかは対峙する3体の“天敵”へ向かって駆け出した。駆け抜けざまにまず1体、その頭部に鈍く光る刃の欠片を打ち砕く。それは元は剣だったのだろうか。各地を旅して人々を癒す治癒術師は貴重な存在であるが故に追いはぎなどからも狙われやすい。身を守るための武器を持っていて当然だ。しかしそれが今、人間であった頃の名残として急所へと変わるというのは皮肉が過ぎる。
るうかの背後には2体の“天敵”。彼らは一瞬顔を見合せるように身をくねらせた後、あろうことか1体ががばりとその肉の身体を広げてもう1体を包み込んだ。ぐちょり、ぐちょりとおとを立てながら素早く同胞を咀嚼し同化していく“天敵”、その行動のおぞましさにるうかは軽い吐き気とどうしようもない悲しみを覚える。
元は人間だった彼らがこのような化け物に成り果ててしまったことが悲しい。人々を救おうと身を捧げた英雄がその生命の終わった後でなおこのような惨たらしい姿を晒していることが悔しい。それをしたのは佐羽であり、命じたのは阿也乃である。しかし元はと言えばこの世界の仕組みそのものがこの悲劇を生み出す要素を備えていたのだ。そのことが、恨めしい。
「生きたい、ですよね」
るうかは思わず“天敵”に向かってそんな言葉を掛ける。彼女も一度はそうなった身だ。そうでなくとも自分の生命を惜しむことはどの生物にとっても変わらない本能だ。
「私達が憎いですか?」
るうかは油断なくカタールの切っ先を“天敵”の肉塊の表面へと向けながら問い掛ける。返る答えがあるとは思っていなかった。しかし、“天敵”は一瞬ぶよりと肉塊の身体を波打たせて何か反応しようとしてみせる。るうかは待った。
ぶよりぶより、ぶより。肉塊の化け物が身をよじる度に、どういうわけかるうかの左肩の奥も同じリズムで痛みを刻む。ぎぎ、と音がしたような気がしてるうかは思わず自分の肩を見た。その瞬間に“天敵”が跳ね上がる。
びあああああっ、がああ!
言葉にならない声を肉塊の内から響かせ、“天敵”はその身体の全てを使ってるうかに意思を伝えてくる。つまり、殺されてたまるか、と。当然るうかは応戦し、ひとまずその場から飛び退いて距離を取った。そして改めてカタールを構えて“天敵”を睨みつける。憐れんだり同情しているほど余裕のある状況ではない。それは分かっているのだが、るうかはどうしても彼らの声を聞きたかった。
「言い遺したいことはないんですか!? 何でもいいです。心残りがあるのなら、教えてください!」
ぶるぉっ!
るうかの声に答えるように“天敵”が啼いた。ぐ、ぶ、と全身の肉を震わせながら彼は何かを言おうとしているようだった。言葉が通じているのだろうか。るうかは得物を構えたまま“天敵”の言葉を待とうとする。
ヴぁ、ぐああ……!
肉塊が震え、声とは呼べない声が辺りの空気を振動させながらるうかへと届く。
ヴぁぐあー、ぅるるぁあ、だぁあ!
“天敵”は同じようなフレーズを繰り返してした。るうかは耳を澄まし、彼の全身を見つめながらその意味を感じ取ろうとする。
ヴぁぐぁあ! ぅるらぁああ! だん、だなぁあぃいぎぎぃい!
「わ……か……?」
ぅヴぁあああ! くぁあがあああ! るぅるらぁがあ! だぁんあぁあ!! ぃひぎぃいっ!!
「……わか、ら、ない……分からない? ですか……?」
確かめるようにるうかが尋ねる。“天敵”は大きく身震いをし、辺りに肉片をぶちまけた。今の言葉を伝えるだけで彼の肉体はひどく消耗し、その身体の肉のいくらかが削がれたようだった。生物として甚だ脆弱な、つまり肉を守るべき皮膚の層を持たない彼らにとって全身を震わせて声を伝えることは自傷行為のようなものだったのだ。るうかはそれを知らなかった。知らずに彼に言葉を求め、そして彼はそれに答えた。「分からない」という悲しいばかりの言葉を、ありったけの力でるうかに伝えたのだ。
考えてみれば当たり前のことだった。“天敵”にはすでに元の人間の脳がない。記憶を残しておくべき器官がない。あるのは生命を維持するためのわずかな細胞だけで、そこに人間であった頃の記憶・想いは遺されていない。彼らはすでに元の人間の記憶など持ってはいない。だから言い遺すべき言葉など見付かるはずもないのだ。るうかはひどく残酷なことを彼に問い掛けてしまったのだ。
「……そうですよね、分かりませんよね」
るうかは声を震わせながら、弱った“天敵”に近寄る。身を削ってるうかに言葉を伝えた彼はその肉の身体をべろりと広げてるうかを捕食する体勢に入った。しかしそのときにはもう、るうかは彼の弱点を見付けており、瞬く間にそれを破壊する。
それは奇妙な形をした赤みのある肉だった。表面の皮膚が見えるために赤みが強く見えるのだろう。丸出しの肉塊の中ではわずかに色の薄いそこははっきりと自らの存在を主張しているようにるうかの目に映った。
それはほんの少し厚い人間の上唇だった。
全身に赤を浴びて、髪にも顔にも服にも肉片をこびりつかせて、るうかはぎりぎりと奥歯を噛み締める。左肩が疼き、その奥で何かがぐにゅりぐにゅりとうごめいている。痛みと不快感と、そして目の前が暗くなる感覚。るうかはふらりとその場に膝をついた。
そのとき、彼女の背後で空気を引き裂くような悲鳴が上がった。るうかははっと我に返って立ち上がると、襲い来る眩暈と吐き気を無視して駆け出す。そんなものは後でいくらでも吐いて喚いて倒れればいいのだ。今はまだ“天敵”との戦闘が続いている。るうかにできることは、彼らを倒すことだけだ。
悲鳴の主は侑衣だった。彼女は大剣を地に突き立て、肩で息をしている。その胸から腹にかけての衣服と肉とがごっそりと削り取られていた。だぱだぱと落ちる黒い赤にるうかは一瞬息を呑んだが、次の瞬間には侑衣が対峙していた“天敵”の弱点を捜し出してそれを打ち砕く。そしてすぐさま倒れそうになる侑衣の身体を支えた。
「侑衣先輩!」
「……しくじった」
ぼそり、と侑衣は呟いて苦く顔を歪める。るうかはすぐに顔を上げて湖澄の姿を視界に捜した。しかし彼は英雄記念館だった建物の奥の方で戦っているのか、どこにも見当たらない。声を限りに名前を呼んでも返ってくる言葉もない。その間にも侑衣の傷からは新しい血が止めどなく溢れていく。普通の人間であればきっとすぐに死んでしまうような傷だ。しかし侑衣は勇者であるために何とかその生命を維持しているのだろう。息も絶え絶えな彼女は少しだけ悲しそうな顔でるうかを見上げる。
「ありがとう、助かった。本当に強くなったね、るうか」
「助かって、ないじゃないですか……今、湖澄さんを……呼んで」
そう言いかけてるうかは言葉を詰まらせる。湖澄を捜して戻ってくる、そのような時間はもう残されていないだろう。俯いたるうかに侑衣は微かな微笑さえ浮かべて「いいんだ」と言った。
「戦って終われるなら本望だ。これなら、私は勇者として死ねる」
「……そんな。……勇者として、って」
「るうか、勇者は……私達は」
侑衣が何かを言いかけたその時だった。不意にるうかの頭上から影が差す。ハッと顔を上げたそこには特徴的な桃色の髪をしたたおやかな女性が綺麗に微笑みながら立っていた。辺りに“天敵”の姿がないことを確認してから、るうかは女性を睨みつける。
「どうしてあなたがここに。佐保里さん」
「大神殿に仕える賢者として当然の義務を果たしに来た、ただそれだけです」
紫水晶の瞳を静かに煌めかせながら佐保里はそう言って侑衣の傍に屈み込む。侑衣はるうかの腕の中で大きく身をよじった。
「来るな……」
「手当てをして差し上げると言っているんですよ。勇者ユイさん。あなたにはまだ戦ってもらわなくては困ります」
後任が仕上がってないんですよ、と佐保里は極めて事務的な口調で言った。侑衣は必死の形相でもがく。その度にまた傷から新しい血が溢れ出して地面を赤黒く染めていく。
「要らない、手当ては要らない。私を、このまま」
「……そんな慈悲が私にあるとでも?」
くす、と佐保里は笑った。優しく優しく、そしてその奥に気も触れんばかりの悪意を滲ませて微笑んだ。侑衣が叫ぶ。
「るうか、私を殺してくれ……! 頼む、その剣で、私を!」
声と共に吹き出す血をるうかはただ茫然と見ていることしかできなかった。身体が動かない。何が起きようとしているのか、どうして侑衣が治療を拒むのか、そして佐保里の悪意がどこへ向けられているのか、るうかには何もかもが分からなかった。
佐保里の手が侑衣の傷に触れる。青い光の帯が傷を包み込むように広がる。それはるうかにも読むことのできる文字の羅列だった。
“造血強化。損傷組織を構成する細胞の増殖を促進し、組織を再生する。脳幹への血流を増大し、生命維持機能の強化を図る。心肺機能の過剰化を抑え、増殖した血球が正常に体内を循環するよう心拍を補正する。以上の命令を実行する”
紛れもない治癒魔法である。佐保里の魔法が発動するに従って、侑衣の傷はみるみる内に塞がっていく。大丈夫ですよ、と佐保里が笑う。
「私も神殿の賢者としてきちんと祝福を受けています。私の治癒術によってあなたが“天敵”になることはありません」
微笑みが、歪む。
「私はただ、強く頼もしい駒である勇者を失わないため、治癒魔法を施した。それだけですよ」
佐保里が立ち上がると青い光の帯が侑衣の身体に吸い込まれるようにして消えていく。苦しげだった侑衣の息遣いが正常に戻っていき、るうかはほぅ、と息を吐いた。そして佐保里はそのまま数歩後ろに下がって、るうか達に朗らかな笑みを向ける。
「勇者のお2人、少女の姿をした強く脆弱な駒。その最期を、私が見届けましょう」
え、とるうかは佐保里の方を見る。左肩がずくずくと疼いて、それと同調するかのように侑衣の身体がうごめき始める。るうかの腕の中にいる侑衣の両目からは透明な涙が止めどなく流れていた。るうかは一体何が起きているのか分からないままただ侑衣の身体を抱き締める。
「……あ、は……」
侑衣はそこで初めてハッと気付いた様子でるうかの目を見た。見開かれた黒い瞳が必死に何かを訴えている。その周囲で彼女の顔面の筋肉がまるで無秩序に動く。るうかはびくりとして、その瞬間にまた走った左肩の激痛に強く顔をしかめた。侑衣がありったけの声で叫ぶ。
「は、なれろ! 離れろるうかぁあ!!」
彼女の身体の一体どこにそれだけの力が残っていたのだろう。侑衣は全身をばねのように使ってるうかを佐保里が立っているのとは反対の方角へと跳ね飛ばした。るうかの身体は軽々と宙を舞い、そして地面へと叩きつけられる。ぶちぶち、と何かが破れる音がした。めりめり、と何かが裂ける音もする。るうかはくらくらする頭を押さえながら身体を起こした。左肩の中に何かがいるようで気味が悪い。それがるうかの肉の中で暴れ、骨を削って神経を引き千切ろうとしているのが分かる。痛みが全身へと広がる中、るうかはやっと顔を上げてそれを見た。
そこにはもう、黒髪の少女の姿はなかった。
地面に突き立てられた大剣の横に赤黒い塊がうごめいている。ぐちぐち、ぶちゅぶちゅと音を立てて肉の表面を泡立たせながら、まだわずかに人に似た形を保った肉塊がもがいていた。辺りに散らばっているのは鎧や衣服の切れ端だろう。
るうかはほとんど放心状態でそれを見ていた。醜く不格好な肉塊はその場から動くことすらままならないようで、ただぼちゅっ、ぐじゅう、と音を立てて肉の表面から時折澱んだ血を吹き出している。
その向こうで佐保里が静かに、ただただ静かに微笑んでいた。
執筆日2014/04/11