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夏にどういうわけか輝名や湖澄も交えて市内の公園に出掛けたことがあった。その際にるうかは彼らとも携帯電話の番号とメールアドレスの交換をしていたのだが、こうして輝名から電話がかかってきたのは初めてである。るうかは訝しく思いながらも「もしもし、舞場です」とどこか慎重に答えた。
『ああ、輝名だ。突然電話して悪かったな。今大丈夫か』
輝名の声は特に切羽詰まった様子でもなく、いつもと変わりないようだ。るうかは一応佐羽の表情を確認した後で「大丈夫です」と返事をする。すると輝名はその一瞬の間に何かを感じ取ったのか、すぐさまるうかに今どこにいるのかと尋ねてきた。
「落石さんの家です」
『ほう。ということは佐羽もそこにいるのか』
「はい」
『まぁいい。るうか、今日これから時間はあるか? なければまぁ明日でもいい。俺の家に来てもらいたい』
突然の申し出にるうかは驚き、思わず輝名の言った言葉を復唱する。
「輝名さんの家に?」
すると佐羽が不審そうに顔を上げ、るうかと彼女の手の中にある赤い携帯電話を軽く睨むようにして見た。輝名は電話の向こうで少しだけ呆れた声を出す。
『不満か』
「そんなことはありません。ただちょっとびっくりしただけです。今日で大丈夫ですよ」
『そうか。じゃあ時間はそっちの都合で構わねぇから、来てくれ』
「分かりました」
短い通話を終え、るうかは切断ボタンを押す。間もなく輝名から彼の自宅の住所を記したメールが届いた。場所を確認するるうかに対して佐羽が意味ありげな笑みを向けてくる。
「輝名の家にお呼ばれかぁ。いいなぁ、気になるなぁ」
「波南崎のマンションらしいですからね。私も色々な意味で気になります」
「で、るうかちゃん。あの色男の家に女の子1人で行くつもり?」
「どうせ落石さんも来るんでしょう?」
るうかは顔色を変えずに言い、「それに」と付け加える。
「輝名さんは落石さんより紳士だと思いますよ」
「……君、俺に対して前よりも厳しくなってない?」
「前からこのくらいだったと思いますけど」
あっさりと言ってのけたるうかに対して佐羽は参ったというように苦笑してみせた。それがどうにも嬉しそうな笑顔に見えるのは気のせいだろうか? それから彼は空になった2つのカップを奥の部屋に片付けると、薄手の上着を手にしてソファへと戻ってくる。
「じゃあ話は早い。早速行こうか、有磯邸へ」
「あ、ちょっと待ってください。住所は分かりましたけどアクセスの方法がまだ……今調べますから」
「車出すよ?」
そう言うと佐羽は上着のポケットからキーを取り出して振ってみせる。そう言えばこの家にはダークシルバーのスポーツセダンがあり、佐羽は以前それを運転していた。なるほど、とるうかは頷いて彼の提案を呑むことにする。
「住所だけで行けますか?」
「うーん、あっちはあんまり走ったことないから。るうかちゃん、ナビの操作頼める?」
「はい、分かりました」
そんな会話をしながら2人はガレージに降り、車に乗り込んだ。佐羽が運転席でキーを回し、るうかは早速カーナビゲーションシステムで目的地を設定する。わずかに暖機をした後、佐羽は決して丁寧とは言えない加速で車を発進させた。
運転にはその人間の本性が現れるという話をよく耳にする。佐羽の運転は落ち着きがない。車線変更を繰り返し、信号が青に変わるのを待ちきれずにじわりじわりとクラッチを緩めていく。左右確認や一時停止は怠らないが、前方の車両がもたついていると時折舌打ちをする。るうかは納得するやら呆れるやら、複雑な気持ちで助手席からの景色を眺めていた。
目指す波南崎のマンションは佐羽の家から40分程の距離にあった。あくまで佐羽の運転で、の話なので通常であればもう少しかかるだろう。佐羽はマンションの敷地内にある外来者用の駐車場に危なげなく車を停めると、するりと車外に出た。
続いて車を降りたるうかは思わず大きな溜め息をつく。彼女の目の前にはそびえ立つ2棟の塔があった。元々周囲より少し高い丘の上に位置する波南崎地区にはさらに高みから街を見下ろすことのできる高層マンションがいくつも建てられている。その中でも群を抜いた高さを誇るのがここ、ツインタワー波南崎ヒルトップだった。
「うわぁー……何この馬鹿げたタワー」
佐羽までがそんなことを言って苦笑いしながら塔を見上げている。マンションの天辺は日光を反射して煌めき、よく見えない。どうやら輝名の部屋はその最上階にあるらしい。
2人は輝名のメールに記された住所を頼りに2棟の塔のうちの西側のそれに入り、オートロックの自動ドアの前に設置されたインターホンから部屋番号を呼び出した。するとすぐにドアが開く。るうかは何やら敵陣に乗り込むような心地でドアを潜った。
階層別に分けられたエレベーターに戸惑いながらも何とか辿り着いた最上階である50階の一番奥の部屋が輝名の住居だった。部屋の入口横にあったインターホンを鳴らすと、がちゃりと鍵の開く音がする。佐羽がすかさずドアノブを押して扉の向こうへと身体を滑り込ませた。別に悪いことをしにきたわけでもないのだが、るうかも続いてそっと部屋に足を踏み入れる。
「お邪魔します」
「よく来たな」
玄関では輝名が薄い笑みを浮かべながらるうかと佐羽を見比べていた。薄手の白いシャツに淡いグレーのカーディガンを肩掛けに羽織った彼の左腕は相変わらず三角巾とベルトによって肩から吊られて固定されている。不自由であることは間違いないのだろうが、彼は慣れた様子で2人を奥の部屋へと案内した。
「早いと思ったら佐羽も一緒か。車か?」
「うん。駐車場、勝手に借りちゃったけどよかったんだよね?」
「問題ねぇよ。それにしても無粋な奴だな。俺はるうかを呼んだんだぜ?」
「まさかるうかちゃんを1人で行かせるわけにいかないでしょう。頼成がいない今、俺が彼女を守らないと」
「よく言うぜ。お前、怪我の方はもう大丈夫なのかよ」
じろり、と探るような視線で輝名は佐羽の瞳を覗き込む。佐羽は肩をすくめながら「調査済みってわけだね」と笑ってみせた。
「朝倉先生に治してもらっちゃった。ほら、どうやらあんまりのんびりしてもいられないようだしね?」
「……まぁいい。ほら、るうかも突っ立ってねぇで座れ。茶くらい出す」
「あ、手伝います」
るうかは思わずそう言って輝名と共にキッチンに向かった。輝名は意外と素直に「悪いな、助かる」と答えてるうかをキッチンへと迎え入れる。キッチンは綺麗に整頓され、輝名は取り出しやすい位置に取り付けられた棚からポットとカップを取り出した。そしてふと気付いた様子でるうかを振り返る。
「お前、紅茶とコーヒーはどっちが好きだ?」
「あ、甘くなければどっちも好きです」
「甘い物が苦手なのか」
「苦手っていうほどではないんですけど、コーヒーや紅茶にはお砂糖を入れない方ですね」
「へぇ。それでよくあの頼成と付き合えたもんだな」
輝名は面白がるように言って、アールグレイの茶葉をポットに入れる。
「別に……食べ物や飲み物の好みが違ったからって付き合えないっていう話にはならないと思いますけれど」
るうかは同じ戸棚からティースプーンとシュガーポット、それに一式を載せるためのトレイを取り出しながら少しだけ困ったように答える。からかわれるのは好きではない。
「確かに、嗜好の違いなんざ些細な問題だ。が、お前達にはもっと決定的な違いがありはしないか?」
予め沸かしてあったのだろう。輝名は傍らの電気ポットの湯温を確かめた後、ゆっくりとポットに湯を注いでいく。るうかは手を止め、少し考えてから首を傾げた。
「何のことを言っているのか分かりません」
「……悪ぃな。本当は俺にも分からない。ちょっとした八つ当たりだ」
悪かった、と輝名はもう一度るうかに謝罪した。いつも自信に満ちて尊大な態度を好む彼がわずかに肩を落とし、湯を注ぎ終えたポットをじっと見つめている。透明なポットの中で茶葉がくるくると踊るように動く。
「まぁいい。佐羽も連れてきてもらって正解だったかもしれねぇ。どのみち連絡するつもりではいたからな」
輝名はそう言うと顔を上げ、ポットをトレイに載せた。るうかは3人分のカップとスプーンを同じトレイに置き、それをひょいと持ち上げる。
「向こうに運んでいいんですよね?」
「ああ、頼む。お前、ケーキとかは平気か?」
「はい、大丈夫です」
「チーズケーキと苺ショートならどっちがいい?」
「えっと……」
一瞬、るうかは迷った。そしてそのようなことで迷ってしまう自分に苦笑した。るうかの好みで言えばチーズケーキを選ぶところである。それでも彼女ははにかみながら苺ショートと答えた。輝名が堪えきれない様子でくっくっと笑う。
「お前ら、外でもそんなことやってんのか? そういうのを世間じゃあ“バカップル”とかいうんじゃねぇのか」
「外ではそんなに……じゃなくてそんなに外に出掛けてなかったですよ。頼成さん、あんまり出歩きたがる方じゃないですし。学校も忙しいみたいでしたし」
「向こうの世界じゃお邪魔虫な佐羽と天然無神経な湖澄の奴が四六時中ついて回るし、か。お前らも苦労してるんだな」
輝名は何やら上機嫌にそんなことを言いながら冷蔵庫を開けてケーキの入った箱を取り出しにかかっている。どうやら1人でも大丈夫そうなので、るうかは先に紅茶のセットをリビングへと運ぶことにした。リビングでは佐羽が大きな窓の前に立ってじっと空を眺めている。手伝う気はないらしい。
「空が高いね」
佐羽が言って、ふわりと微笑みながらるうかの方を振り返った。いい眺めだよ、と彼は続ける。るうかはポットとカップを載せたトレイをテーブルの上に置くと、佐羽と並んで窓の外に広がる景色を見た。
執筆日2014/04/04