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侑衣との邂逅から2日後の土曜日、るうかは佐羽からの呼び出しを受けて彼の家を訪ねていた。つまりは柚木阿也乃が所有しているあの古いビルである。相変わらずいかにもとってつけたようなアルミフレームのガタついた扉には、妙に重厚な木彫りの看板が掛けられている。でかでかと書かれた“関係者以外立ち入り禁止”の文字にも変わりはない。
るうかがわずかに緊張しながらその扉を叩くと、少ししてから佐羽が中から扉を開けた。
「や、いらっしゃい。待っていたよ」
以前彼は自分が蒔いた種によって暴力団とのいざこざを起こし、挙げ句の果てにビルの屋上から身を投げて全治2ヵ月の怪我を負うということをやらかしていた。しかもその後の夢の中での戦闘によって無茶な大魔法を使ったがために一時は心停止にまで陥り、朝倉医院の院長の手によって奇跡の復活を遂げたのである。そして何と、彼は予定より半月ほど早く昨日退院したとのことだった。
阿也乃は留守にしているということで、るうかはホッとしながら家に上がる。佐羽は脚の骨折も全く気にならない様子で奥へ歩いて行くと、すでにケーキと温かいコーヒーが用意されたテーブルへとるうかを招いた。
「せっかくの休みなので呼び出しちゃってごめんね。でも、外で会ったらまたややこしいことになるかなと思って」
「大丈夫です。それに、そんなに気にしなくても平気ですよ。噂もほとんどなくなりましたから」
「……ん、ありがとう。君は優しいね」
「そんなことはないですよ」
佐羽の淹れたコーヒーはるうかの好みによく合っていた。るうかは何も彼に優しくした覚えなどない。彼のしていることはまさしく外道であり、許されないことだと思っている。しかしそれは彼自身が一番よく分かっていることであり、報いを受けるのも受けないのも彼の自由だ。当事者でないるうかがとやかく言うことはできない。ただるうかは、彼女達が知る佐羽という青年を決して嫌いにはなれない。だからきっと、彼にとっては彼女の言葉が優しいものであるように聞こえるのだろう。
さてと、と佐羽がカップをテーブルに置いてるうかの目を見据える。
「早速で悪いんだけど、本題に入らせてもらっていいかな?」
「……あ、はい」
るうかもまたカップを置き、佐羽の話を聞く体勢を作る。2人はそれぞれソファに腰を下ろして向かい合いながら少しの間見つめ合った。そして佐羽が口を開く。
「君の体調が落ち着いたら、アッシュナークに行こうと思う」
「……やっぱり、気になりますか。佐保里さんが私に接触してきたことが」
「そうだね。それに、佐保里が動いているっていうことはきっと頼成も一枚噛んでいる。そんな気がする。もしも佐保里や浅海柚橘葉がアッシュナークの鎮魂祭で何かをやらかすつもりで、それに頼成も巻き込もうっていうなら……俺はそれを阻止したい。いや、阻止する」
佐羽はきっぱりと言い、普段の穏やかな笑みからは想像もつかないほどの厳しい眼差しでるうかを睨むように見た。
「俺はね、るうかちゃん。こうやって君を裏切った頼成が許せない。頼成を裏切らせた浅海柚橘葉が許せない。たとえ君がそれで守られるとしても、もっと他にやりようはあるはずだ。俺はそのためになら命を懸けたって惜しくない。頼成だけにこんな馬鹿げた真似をさせておくわけにはいかない」
「落石さん、前は確か“局面が変われば”みたいなことを言っていましたよね」
「まぁね。でも俺、そんなに気の長い方じゃない。あれからもう1ヵ月以上経っているし、きっとこの鎮魂祭がその局面の変わり目になる。そんな気がするんだ」
テーブルに身を乗り出した佐羽はその上で手を組む。細く整った指先が手の甲に食い込むほどに強く握り締められた彼の手は小さく震えていた。るうかはそんな彼の手を見て少しだけ顔をしかめ、なるべくゆっくりとした調子で言う。
「それで、こんなに早く退院したんですか? こっちの世界でも何か情報収集ができないかとか、そういう考えで?」
「……無茶をするなって、君は怒る?」
「怒りませんよ。落石さんがどれだけ真剣なのかはよく分かります。でも、何て言っていいのか……あんまり焦らない方がいい気がします」
「そうかもしれないね」
佐羽はるうかの言葉に素直に頷く。その手から少しだけ力が抜ける。
「分かっている。多分、頼成は今でも俺達の仲間のままだ。裏切っても、信念を曲げても、きっとそれだけは変わらない。だからこそ俺は何とかして彼を……助けたい」
「それは私も同じ気持ちです」
るうかは深く頷いてからコーヒーを口元に運んだ。程よい苦みと酸味が口の中に広がり、香ばしい芳香が鼻をくすぐる。るうかは佐羽達に頼成との繋がりについて明かしていない。それは佐羽達に対する小さな裏切りであり、ある意味ではるうかが頼成の行動を左右する鍵を握っているということでもあった。るうかが頼成との繋がりを佐羽達に明かせば、きっとそれだけで局面は変わる。しかし同時にるうかの身は浅海柚橘葉や佐保里から狙われることになる。
恐らく、その時点でこちらの世界でのるうかの命は絶たれるのだろう。頼成や佐羽はそれを阻止するために動いてくれるかもしれないが、“一世”が本気になれば彼らの足掻きなど無駄になるに違いない。それはあの柚木阿也乃が証明していた。彼女は以前こう言っていたのだ。
「ルールは破ってこそ意味がある。何故ならそこには必ず罰則が設けられているからだ。ルールが決して破られないものであるなら、罰則に存在意義はない。罰則があるということは、過去にそのルールがすでに侵されていることの証明でもある。あるいは、それが脅かされたためにいざというときのための罰則が設けられたか。いずれにしろ今俺がお前を殺したとして、それがなかったことにはならないのさ」
それはそのまま浅海柚橘葉達にも当てはまる。ルール上“一世”は駒である人間を直接殺すことが許されていない。しかし殺せないわけではない。ペナルティは殺した後にしか課されない。故に、るうかの命はたやすく消される可能性が高い。
「でも……局面が変わるって、一体どういうことでしょうか」
ぽつり、とるうかはカップを手にしたまま呟いた。つまり頼成が浅海柚橘葉から離れることができ、なおかつるうかの身の安全がある程度保障されるためには一体どういう状況の変化が必要なのか、ということである。るうかの口にした疑問に対して佐羽は小さく「うーん」と唸る。
「それは、俺にもはっきりとは分からないけど」
佐羽はるうかの真似をするようにコーヒーを口に含み、それをゆっくりと飲み込んだ。
「……そうだね、たとえば……君と頼成が別れれば、君は頼成を束縛するための材料にはならなくなる。そうすれば君は安全になるし、頼成も自由になれる」
「……」
佐羽はるうかと目を合わせないままそんなことを言い、それから少しの間を空けて「冗談だよ」と微笑む。しかしそれが半分程度は彼の本心であることがその表情から透けて見える。
「変なことを言ってごめんね。でも俺、君達を失いたくない。たとえ君達がそれで引き裂かれたとしても、君達が無事なら俺はいい」
「自分勝手ですね」
「頼成ほどじゃないでしょう?」
「同じですよ。私の意思はどこにあるんですか」
「じゃあ、君のわがままを聞かせてよ」
かちゃり、と佐羽がテーブルにカップを置く。上げられた視線はるうかの目を真正面から射抜いていた。なるほど、とるうかは内心で頷く。彼はるうかが頼成との連絡手段を持っているということに気付いているのだ。その可能性はるうかも薄々感じていたが、ここに来て佐羽はそれを確認しにかかっている。変わりそうな局面を前に、全体の状況を把握しておきたいのだろう。しかしるうかはにこりと笑って誤魔化すことにした。
「私のは、本当にただのわがままですから」
「そうやって逃げていたら……俺は君を助けられない」
「ごめんなさい」
るうかにはそう答えるより他なかった。頼成と彼女を繋ぐ携帯電話の存在を佐羽に知られれば、それはそのまま阿也乃にも知られる可能性がある。あるいは阿也乃のことだからすでに何か感付いている可能性も高い。それでいて見逃されているのであれば、その存在が明らかになった時点で与えられた猶予は終わるのだろう。下手をすればるうかは阿也乃の手によって消されかねない。
阿也乃にとってるうかは手駒である頼成を誑かし、裏切らせた女狐だ。彼女からすれば相当に憎い、あるいは邪魔な人間ということになるのだろう。何を考えているのか読みにくい阿也乃だが、非道ぶりなら明白である。何しろ、大切に育てている佐羽に非道な行いを強いて、それによって破滅していく佐羽を見て楽しんでいるような女性なのだ。
佐羽はそこまでるうかの考えを読んでいるのか、仕方ないねと言って微笑んだ。その優しい笑顔にるうかはどんな表情を返していいやら分からなくなる。再び口に含んだコーヒーは心なしか先程よりも苦かった。
気まずい沈黙が2人の間に降り、互いに残りのコーヒーを飲み干したその時、るうかの鞄の中で携帯電話が震えた。赤い方の携帯電話である。るうかは佐羽に断ってから携帯電話を取り出し、発信者の名前を確認した。
そして軽く驚き、思わずその名前を口に出す。
「輝名さん?」
佐羽もまた驚いた様子で顔を上げる。彼に促され、るうかは携帯電話の通話ボタンを押した。
執筆日2014/04/04