序章
呆れた。いや、分からないではない。こういう場所は得てしてセキュリティが厳重で管理も行き届いているものだから、彼のような人物が住むには相応しいのだと私も理解しているつもりだ。
しかし、しかしだ。
彼は今、現役の高校生として生活しているはずなのだ。しかも私の知る限りでは彼に生活資金を援助してくれるような親類縁者などはいないはずだ。だのに何故彼はこのような、このような呆れるほどに豪華な高層マンションで暮らすことができているのだろうか。
日河岸市月見区波南崎11条の7丁目と8丁目にまたがってそびえる高級高層マンション、ツインタワー波南崎ヒルトップのイーストタワー50階5008……というのが彼の現在の住所だ。
はっきり言って意味が分からない。マンションどころかほとんど億単位の金がかかる物件ではないのか。しかもあの腕で、もし何か災害でも起きたときにはどうしようというのだ。ハウスキーパーを雇っているのは確実だろうけれども、それにしても無茶が過ぎる。
百歩譲ってこの近辺に住んでいるということに関しては納得しよう。確かにここは交通の便が良く、彼の通っている高校にも近い。市内有数の難関私立中高一貫の男子校だ。そんなところに通っていてしかもあの容姿だから否でも応でも彼は目立ち、世間の噂になり、おかげで私も彼のこちらの世界での居場所を知ることができた。それはまぁ、僥倖と言える。
それでも何でもとにかく私は面白くなかった。これが一体どういう感情であるのかは、若輩者である私には分からない。このようなことを言っていては私の厳格な父に叱られそうだと思うものの、留めることのできない想いが私をここまで連れてきた。
時間がないのだ。
もう、残る時間はあとわずかなのだ。
本当は伝えるべき言葉すら持ち合わせておらず、この世界での彼にどのような顔をして会えばいいのかも私には分からない。ただ、せめて一度はその姿を見ておきたかった。知っておきたかった。
私が産まれたこの世界に存在している彼を。
私の現実に生きている彼を。
もうすぐ同じ夢では会えなくなるのだから。
それにしても一体どういうわけなのだろうか。どうしてエレベーターが低層階用と中層階用と高層階用に分かれているのか。そうでもしないと運搬効率が悪いからか。それはそうだろう、至極もっともな話だ。それは分かったけれども苛々する。無心になれ、私。
高層階用のエレベーターを待って、やってきたそれに乗って、50階のボタンを押したときには微かに指先が震えた。言っておくけれども私は何も高所恐怖症というわけではない。あとついでに金持ち恐怖症というわけでもない。これはあくまでも武者震いだ。どうしてここで武者震いをしなければならないのかは私の乙女心というものにでも聞いてみてほしい。残念ながら私自身はうまく答えられる気がしない。
『50階です』
柔らかな女性の声が目的のフロアに着いたことを知らせる。さすがに高級マンションのエレベーターは格が違う。わざわざ喋ってくれなくとも表示で分かる。あと、わざわざ録音したらしい人間の音声でなくとも電子音の合成音声で充分ではないかとも思う。
まったく、それにしても私は今どうしてこうどうでもいいあれこれにぐちぐちと文句を垂れているのだろうか? 今の私の内心の呟きを耳にしたなら、両親はきっと肝っ玉を潰すことだろう。それはそうだ。蝶よ花よ、とは少し異なるがとにかく大切に大切に、そして健やかに強く賢くたくましく立派にと丹精込めて育て上げてきた娘が男の家に上がり込んで、あまつさえその構えにあれやこれやとどうでもいいような文句をつけているのだから。そんな娘に育てた覚えはない、と言われても仕方がない。
仕方はないのだけれど、私は何も彼らの元でだけ育ったわけでもない。
もう随分と前から、私はこちらの世界以外のもうひとつの世界とでも呼ぶべき場所で生活をしてきた。それがどういうことなのかは、正直な所私自身にもよく分からない。ただひとつ確かなのは、私はそこでこちらの世界では絶対にできなかっただろう貴重な体験を数多く重ねてきたということだ。
それらは間違いなく私を成長させた。良くも悪くも、私は本当の意味でたくましくなったのかもしれない。表面上は平和な現代日本ではまず出会うことのない死線を潜り抜け、巨大な武器を手に立ち回りを演じた。まるで映画のワンシーンのようなことをこの身をもって実践してきた。血を流し、激痛に耐え、返り血を浴び、むせ返る臓腑の臭いに慣れるほどに場数を踏んだ。
そんな私をあちらの世界の人々はこう呼んだ。
“藍色の勇者”と。
寄せられる期待には応えよう。向けられる尊敬と忌避、それに私という存在やその希少な血に商業的な価値を見出す下卑た視線にも涼やかに答えてやろうではないか。大剣を手に戦う私は確かに充実していた。当然恐れを感じもしたが、それよりも誇りが勝っていた。
そう、全ては彼という存在が私を認めていてくれたからだ。
初めてあの世界で目を覚ました私はまるで何も分からない赤子同然だった。月のない空に怯え、理の異なる世界に怯え、授かった力に怯えていた。いや、本当はもっと深いところで染みついた恐怖が私に働きかけていたのかもしれない。
私はあちらの世界で一度死んだ身だと彼は教えてくれた。それだけでは全く意味が分からなかったので、3日ほどかけて追及したところ大体の事情を呑み込むことができた。勿論驚いた。
あちらの世界では人間が人間を食する“天敵”になることがあるのだ。それは治癒術という、こちらの世界にはない魔法が作用した結果として体細胞の遺伝子に異常を来すために発生する副作用だ。そしてその異形細胞は癌細胞にも似た無限増殖能を具えており、やがては本来の人間の体細胞を抑え込んでその人間を完全な怪物へと変貌させてしまう。その姿はまるで何の目的もなくこねられた肉色の粘土のような、とにかく生物としては不完全としか言いようのないものだ。そして彼らはどういうわけか人間のみを糧にして生き延びることができる。
まったく、一体誰がどうしてあのような世界の理を作ってしまったのだろう? どういった進化の過程を経ればああいった残酷極まりない生物が生まれるようになるのだろう? 私自身は無神論者だけれども、もしもあの世界を創った神様がいるのならば一度その性根を叩き直してやりたい。人間を、生きる者を、必死で生きている者を冒涜するような世界を創ったその神を私は決して許しはしない。
何しろ、私自身が一度はその“天敵”になって死んだというのだから。それだもの、こうして怒りもする。彼の話では、“天敵”となった者の一部は封印され、その残った人間の体細胞からクローニング技術を用いて再び人間として生み出される場合があるのだそうだ。そうして生み出された人間はあちらの世界の特殊な技術をもって急速に成長させられ、やがて恐ろしく発達した怪力を携えて再び世界に放たれる。その力を“天敵”を屠るべく振るうために。
それが勇者と呼ばれる私のような人間の真実だった。私は私があちらの世界で死んだということ、そのときに“天敵”と呼ばれる怪物に変貌していたこと、そして体細胞クローンとして再生されて以前の私とは別の存在として生まれ変わっていることという3つの事実を受け容れるのに3日を要した。
呆れるほどの高みから私は私の住む街を見る。あちらの世界の景色と比べると随分と人工的で無機質だけれど、やっぱり私にはこちらの世界の方が合っている。正直に言おう。私は死ぬのが怖い。
こちらの世界にも勿論死はあるけれど、それはあちらの世界でのそれほどには残酷でないのだろう。きっと。
広い50階のフロアをぐるりと回って、5008号室のインターホンを鳴らす。オートロックの正面玄関を開けてもらった時点ですでに来訪は伝えてあるのだから、向こうも用意はできているだろう。少しの間の後、右手だけで扉を開けた彼は見慣れた顔に見慣れない神妙な表情を浮かべて私にこう言った。
「初めまして、になるな。月岡侑衣」
確かにこちらの世界で会うのは初めてだから、私も真似をして初めましてと返す。それにしても白銀の神官服を着ていない彼は思った以上に威厳に欠けた。まるで普通の高校生のようだ。いや、普通ではないにしろ高校生には違いないのだから間違ってはいない。しかも1年留年している。
その理由はベルトと三角巾で肩から吊られた彼の左腕にあった。そして私が彼と共にいられたのも、ある意味ではその左腕のおかげだった。私は彼の代わりに扉を押さえながら真っ直ぐに彼の瞳を見て、言う。その紫がかった淡い青色の瞳をじっと見つめて。
「突然の訪問にも関わらず、こうして迎えてくださって感謝します。有磯輝名さん」
他人行儀だな、とそう言って彼は初めて見慣れた表情で笑った。上がれよ、という言葉に従って私は彼の部屋に上がる。それにしてもマンションだというのに随分とまぁ広い玄関だ。
履いてきた靴を脱いで丁寧に揃えて部屋に上がると、彼は応接用らしきソファセットの間に置かれたテーブルに茶卓と湯呑みを用意しているところだった。なるほど、私の名前だけでなく出自や好みまで調査済みということらしい。当然といえば当然か。
それでは淹れてもらったお茶をいただきながら始めるとしよう。
最初で最後の、こちらの世界での彼との対話を。
執筆日2014/03/15