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ひなたの庭  作者:
一章『ご都合主義の始まり』
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7.雨に唄うは、賢者か愚者か

 新学期に入ってから最初の休日。昨夜夕方から怪しい雲行きだったけれど、案の定今日は曇天の空の下、雨粒が落ちていた。

 窓から見える景色は、暗く淀んでいる。雨だからって晴れだからって、それで心が変わるわけじゃない。それは世界に美しい花が溢れたとして、平和にならないのと同じ事だ。

 けれどこの景色は寂しい。とつとつとした雨粒が落ちる音は、寂静感を煽る。これが好きだという人も少なくないのは知っている。昔の映画のワンシーン、雨のなか傘もささず楽しげに歌い踊る。彼にとっては、あるいはその映画の中では、雨はまるで神聖なもののようで。ここから見える景色からすると、僕にとってはそれは理解できないことだった。

 僕は朝から自室にこもり、新学期からの予習をしていたが、まだ授業も始まっていない今ではあまり気も乗らず、そもそもやるべき範囲もよくわかっていない。代わりに仕方がなく、二千ピースのジグソーパズルを組み立てていた。

 趣味らしい趣味はないけれど昔からやっているパズルの組立、これは趣味の範疇なのかもしれない。非建設的な時間の浪費。ルーチンワークのように選び形をあわせはめ込み、そうして少しずつ絵は完成されていく。忍耐力さえあれば誰にでも出来るということが、僕は好きなのかもしれない。そうして何かをして時間を浪費しているという事実が好きなのかもしれない。

 パズルの絵柄は、『晴天の空と小川のせせらぎ、それから咲き誇る春の花々』。偶然だけど、なんだか外の景色に対する皮肉みたいな絵だった。

「寂しい人ですね」

 とうとつに聞こえる声の主はヤツ一人以外にいる由もない。僕はうんざりした気持ちになりながらも、いつものように無視を決め込む。ヤツはいつものようにそれを気にせず話しかけてくる。

「せっかくのお休みにただ一人部屋にこもり、ただただ作業。別段それは構わないんです。でも兄さんは思考を放棄するための材料としてそれを用いている。ただの逃避です。娯楽じゃなくて自分が楽になるための逃げ道」

 パズルの絵は、左に草花、右側に小川、上部に青空。外枠はすでにつくり上げていて、一番絵に特徴があり簡単な左側に今は手をつけている。

「美しい景色ですね。けれどそれはここではない場所にあるものです。兄さんにはけっして届かない。そういう場所です。兄さんには例え目の前にあったとしても届かない、こことは違うどこか」

 アタリをつけたピースを嵌めこんだが、それは似ているだけで合うことはなかった。また別のピースに手を延ばして同じようにはめ込む。けれどそれもまた失敗。

「兄さんの悪いところは、『そういうところ』です。全部わかっているのに知らないふりをしている。眼の前にあるのに手を伸ばさない、気付かないふりをする。逃避していることに気づいているのに知らない体で思考を放棄させる。停止すらさせず自分をなくしてしまう」

 次のピースは運良くはめ込まれた。少しの充実感と、まだまだ先が長いという徒労感。

「残念ながら兄さんの人生はまだまだ続くんでしょうし。そうして行き止まる度に知らないふりをして。いったいそれがいつまで持つんでしょうかね。なにせ大抵のことは『気づいた時には手遅れ』ですから」

 またひとつピースが嵌る。完全に運任せだったけど幸運にも正解だった。

「新学年が始まってまだ一週間程度しか経っていない。まだ何一つ始まってもいない。別にお隣さんがどうっていう話じゃあ無いんです、ひとつのきっかけとして環境は変わったんです。

 それなのに何も変わるはずがないと停滞に足を踏み入れる。それは愚策ですよ。だってもしこれからの何かが始まってしまえば、困るのは兄さんなんですから。何もないなんていうことはない、それは兄さんも、私のことでよぉく知っているでしょう?」

 嵌るひとつのピース。無数に残されている嵌らないピース。それでも少しは進んでいる。けっして停滞なんてしていない。

「そばに綺麗な花が咲いています。それに心動かない自分はどれだけ心が乏しいのか。兄さんはそう思っているかもしれません。実際のところは知りませんし、どうだっていいことです。でも兄さんは勘違いしていませんか?」

 ヤツの長い独り言の中でのふいな問いかけだった。だけど僕はパズルが忙しい。そんなものに答えている場合じゃあない。

「いちおう言っておきます、今のはアドバイスです。誰かのためじゃなく、手前勝手な思いでの停止し、他人をないがしろにし続ける兄さんへのものです」

 そうして言葉は止み、そばにあった気配も無くなった。 長い独り言が終わったという事実を喜びもしなければ、ましてや嘆きなんてしない。僕には関係のないことだから。

 雑音が無くなった部屋には雨音だけが響く。あとはひとりだけの僕。少しだけ完成に近づいたパズル。それで集中して出来るようになったかと思えば。そんなこともなくなってしまった。雑音はある種のBGMのように機能していたようで、大変に遺憾ではあるけれど、僕の作業スピードをあげていたようだ。

 顔を上げて時計を見ると、もう午後も終わりに差し掛かっていた。その事実に驚愕する。僕はどれだけパズルに集中したのか。それからどれだけの時間あいつはここにいたのだろうか。――いいや、そもそもアイツはここにいたのだろうか。まあ、空想上の産物にいるもいないもあったものではないけれど。

 ずっと床に座り込んで下を向いていたものだから首とか肩が凝り固まって仕方がない。僕は中央にに広げていたパズルを片付けると、部屋を後にする。


 食欲があるというわけではないけれど、することもなく夕飯の支度をする。

 冷蔵庫を開き、あるものを適当に。いつもそういう感じの食生活だ。栄養バランスとかは考えはしないけれど、単純な話それでは飽きるのでなるべく被らないようにしているぐらいで、結果的に多少は考えていることになるという風に思っている。

 冷蔵庫の中には大きな白菜が入っていた。昨日安かったのでつい買ってしまったものだ。買う前からわかってはいたが消費には時間がかかる。腐るまで待つわけにもいかない。

 こうやって結果的に同じ材料を使わざるをえないことは、多々ある。思い返してみると優奈も頭を抱えていた。頭を抱えているといってもそれも楽しんでいたような、嬉しい悲鳴というやつだろう。優奈は料理が好きというか、得意だったからやりがいがあって楽しかったかもしれない。でも僕にはそんなことはない。ただ頭を使わなければならないことが面倒なだけだ。

 ……ふと、お隣さんの顔が脳裏をよぎる。教室でも隣、それからこのマンションでも隣に住む、白金の長い髪持つ白磁の少女。僕もそれから学校の人たちも、誰もかもの目を奪う美しいひと。越してきたその日もそうだったけれど、彼女もそういう苦労をしているのだろうか。それともそつなくこなせているのだろうか。

 料理が上手だった彼女だから前者でないかと思える。あの日の後ろ姿は楽しげで。彼女は美しい彫像か何かではなく、ごく普通の女の子であるということが僕にはよくわかった。

 でも彼女がどうしたって僕には関係のない話ではある。彼女は眩しい太陽で、可憐な花だ。そんな孤高の存在のどこに僕の必要性がある。きっといい迷惑だろう。

 僕なんかが関わるよりはひとりでいるほうが――


「……あれ?」

 思考の中、大したこともないはずなのに、どうしても引っかかってしまった言葉。


 ――ひとり


 『ひとり』という言葉がするりと胸の内に入り込む。


 ひとりということは僕と同じということだ。

 頼れない縋れない寄る辺ない。

 たとえそれが大袈裟だったとしても彼女は僕と同じように、殆ど同じ環境でひとりで暮らしている。

「ああ、そうか」

 確かにヤツが言うように、勘違いしていたことがあった。

 ――ひとりは怖い。

 突然につがいを失った僕はそれをよく知っている。光石さんが僕みたいに突然そうなったとは思わない。彼女の放つ陽の光はそういう影がないからこそのものだ。

 だからヤツのさっきのだって、だたの意味のないでまかせかもしれない。でも、彼女は鑑賞物でも天然物でも何でもない。

 当たり前の話だ。どこの太陽がひとまえにおりてくる。どこの花がひとに笑いかける。

 僕とそれから他の誰かとも変わらないおんなじ人間、それも僕と同じまだ年若い女の子。さっき自分で思ったんだった、ごく普通の女の子だって。

 とんだ勘違いだ。勝手に人を芸術品に当てはめて自分とは関係ないって思って。そんな風にされている人はきっとさびしい。少なくともあの時の会ったとき彼女ならそう感じるだろう。

 今の彼女はまだ誰からも人扱いされていない。 出会って数日のクラスメイト達はまだ蝶よ花よと持て囃すしかしていない。深い友人なんて出来ていない。

 昨日の別れ際、僕をみていた彼女の顔を思い出す。微かに寂しさの欠片が見えていた。確かにヤツがさっき言ったとおりだ『勘違いしている。自分勝手な思い込みで停止している』。癪に障るけどそれはたしかにアイツの言うとおりだ。

 もしかしたら光石さんは、あの日対等に接した僕に頼っていたんじゃあないのか。そんなことすら思い浮かんでしまう。

 どこかに友人がいるかもしれない、そうでなくても家族か知り合いか、彼女はひとりなんかじゃなくて頼れる人々がいるのかもしれない。

 けれど、そうじゃなかったらって思ってしまう。

 僕はひとりはいやだ。同時に誰かがひとりでいることだって嫌だ。 ましてやそれが勘違いかもしれなくても、僕みたいなやつに頼ろうとしてくれた人が。

 そうして、これから僕がしようとすること。それは僕にとっては恐ろしいことで、絶対にしたくなんて無いことだ。


 今日は雨も降って気温も下がっている。肌寒くて温かいものが何となく欲しくなる。そうして、なんとなく鍋料理が食べたくなったって何の不思議もない。

 白菜の葉を数枚向いてそれから一口大に切る。あとは鶏肉、豆腐、しいたけ、糸こんにゃくも同じく下処理していく。

 急に思いついたことだったから、つみれもニラも人参もえのき茸も無かった。でも別に構わないだろう、そこまでして入れる必要性はない。

 そういう味がついていて何種類かの食べ物が入っていたらそれはきっとなべ料理だ。

 味付けも調味料を使って出来るもの、だから醤油味のちゃんこ鍋でいいだろう。

 そうして用意した具材と、土鍋あとはコンロ。あとは肝心のスープの味付けという部分になって僕は思い出す。醤油がないってことに。醤油味のちゃんこ鍋をつくろうって思っているのにそれがないなんていったいどうしたらいいだろうか。

 そうだ、と一週間前の彼女のように隣人に借りればいいのだと思い立つ。

 そうしてお礼にと二人で夕飯をとればいい。


「――なんてね」

 馬鹿らしくってアホらしくってため息が出る。

 僕らしくもない、恐怖に耐えて空回り気味のおせっかいを焼こうなんて。理屈のひとつでも通さないと納得出来ない。例えばそれが胡散臭くて自分でもどうかと思えてるものであってもだ。

 僕は玄関を飛び出す。外はやっぱり寒くって、結果はどうあれ鍋という選択肢は間違っていないのだと思った。

 窓から見えるのとは違う景色。夕暮れどきを過ぎて日も落ち始めている景色は、さっきみた曇天とはまた違う。心なしかさっきよりも寂しそうに見える。

 僕は無茶苦茶な理屈と不安や緊張を胸に、隣室のインターホンを鳴らす。そうしてしばらくするとインターホン越しの声ではなくて、扉が開いた。そのことに対する驚きはあったけれど、些事にすぎない。

「こんにちは、いや『こんばんわ』かな、光石さん」

 僕の隣人にしてクラスメイトの光石さん。

「あ、はいこんばんわ」

 唐突な訪問に驚いているようで表情は少し固い。なんだかあの日の逆回しみたいで、思い描く理屈の馬鹿らしさもあって、緊張とは別に僕はどこかで面白く感じてしまう。

「大変申し訳無いのですが頼みがあります」

「はい」

 相変わらずの彼女の表情に早まったかな、という思いはある。だけど今さら引き返せる状態ではない。僕の心臓は早鐘で、それでも表情は平静を装っているつもりだ。

「お醤油を貸してください」

 意を決して、僕は言った。

「……はい?」

 光石さんは呆気にとられた学校では見られない間の抜けた表情で。でもやっぱりそれもかわいらしいものだった。

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