4.夜に落ちていく
僕は今日一日の記憶を最初から思い返す。そうして出したのは次の結論だった。
『人生何が起こるのかわからない』
ここではない、人生において数回しか寝泊まりしていない、親戚の家から今日は始まった。朝ごはんをご馳走になりながら、昨日と変わらない取り繕った会話を僕と叔父夫婦とでした。それから少ししていつも着ている制服に袖を通して、僕達は槇村優菜の一周忌法要を行った。
二桁にも満たない少数で式典は行われた。当たり前といえば当たり前なのだけど、去年の優菜の時と、その前の父、その時と殆ど変わらなく、僕には苦痛なだけだった。
罰当たりだなあと思う部分もあったけれど、それ以上にほとんど付き合いのない親戚に囲まれる緊張感が強かったのだ。それにどんな風に言い繕おうと、そこに優菜がいないことはわかりきっているから。そんな風に思っていることを口にしたら宗教家の人には怒られてしまうのだろうけど、僕はそう思ってしまう。
父子家庭であった僕たち一家は、親戚づきあいというのがほとんど無かった。推測ではあるけど、それは親戚がいるこの場所までの距離と、父が忙しかったという部分から来ているのだと思う。
数は少ないけれども僕も親戚とは会ったことがあった。その時の父と親戚の様子、もしくは電話で親戚と話している様子。そのどちらにしても険悪という感じはなく、関係は良好そうだった。
父は身を粉にして僕たち兄弟のために働いてくれていたんだと思う。そうでもなければ仲が悪かったわけでもない実の両親と、ほとんど会わないなんていうことは考えられない。
それだけ無理をしていたのか、はたまた単なる運のなさか。父は早逝し、それから優菜もまた逝ってしまった。それも父よりもだいぶ早い年齢で。
残ったのは僕だけで、ただひとりぽつねんと世界に放置されてしまったのだ。
『かみさまに何もかもを捨てられ放置されている』
僕はそういう感覚を抱いて日々を生かされている。何かをほしいと思っても、またかみさまに捨てられるのかもしれない、それが怖い。
法事が終わって、僕は逃げるようにして、自宅に戻ってきた。法事と長旅、あとはアイツのことで僕はすっかり疲れ切っていた。もう今日は何もしないで眠ってしまおうかというぐらいには。
そんな時に僕は彼女と出会ってしまった。
『光石杏奈』
彼女はとても綺麗で可憐で清廉で、とても愛らしくて。
あんなのは反則だと思う。
光を受けて輝く絹糸みたいな白金の髪に、アメジストみたいな瞳、雪みたいに白い肌の色、整った目鼻立ち。どれをとったってフィクションみたいなものだった。
けれどもその作り物めいた彼女は暖かく微笑んで。
『太陽みたいな』
『向日葵みたいな』
そんな陳腐で凡庸なそれがしっくり来てしまって。やわらかく暖かくてつつむ。そんなひだまり。
ありえない、それ以外の言葉が僕には用意ができない。ありえないぐらいの存在があって、それが僕の眼の前にあって。それに、どうしようもなく引かれてしまったって――。
「――浮ついてますね」
食事を終え部屋に帰ってぼぉっとしていた僕。そんな僕の隣にはいつのまにかヤツがいた。優菜の形をしているコイツ。
「……いつの間に」
「兄さんがぽけねんとしている間ですよ」
「許可を得ろよ」
「光石杏奈さん……でしたっけ?」
そんな言葉もどこ吹く風と冷笑を浮かべ、自分勝手にしゃべり出す。どういう意図があるのかはわからないが“さっき”のこと。
「なんというか、綺麗というか美しいというか、はたまたかわいいでもいいですけど、それだけの言葉では追いつきませんよアレは。同姓としても、あそこまでのものだと嫉妬しようって気すら起きませんね」
美辞麗句をどれだけ並べたてても彼女には追いつかないというのは同意だ。凄いという曖昧な表現のほうがよっぽど正鵠を射っている。アレという言い方も失礼だけど、人ではない何かに近いという意味では間違いではないのかもしれない。
彼女という存在は、現実に金の髪や碧の目の人間がいる外国ですら稀有な存在だと思う。それがそういった存在が少ないこの国にあるというのは、一種の非現実にも感じられる。
「で、どうしますか?」
いつものように僕を侮蔑するように口元を歪ませている。コイツが何を言いたいのかがよくわからない。
「蝶が自分からカゴに入ってきたのに、指くわえて見てるんですかってことですよ。ほっとけば勝手にカゴから出てっちゃうのに」
それはつまり『気になるのならちゃっちゃと手を出せ』ということ。僕がそれをしないことをわかって言っているのだろう。
彼女はただの隣人だ。このままでも彼女もしくは僕が、このマンションから越さない限りは、少なくとも隣人としてはいられる。神像を眺めるように、崇め奉れば良い。
けれど、僕がよけいなことをしてしまえば、信仰することすら許されない。
手に入れてもいないのに、無くすのを恐れてしまう、これはある種の病気だ。発症したのはたぶん一年前、治療法はわからない。
彼女が今日こうして僕と一緒に食事をとってくれたというのは奇跡だった。奇跡はいっときだけのものだ。明日も幸福が続くなんて思うな。今日の幸福は明日の不幸になって襲ってくる。
「どうもしないよ。僕みたいなクズじゃあ彼女が僕の事をどうのと思うわけもない。今日のはただの奇跡だ。初めて出会った美人さんに手作り料理をご馳走になった、テレビドラマみたいにうそ臭い、一抹の奇跡で終わりだよ」
皮肉みたいに、自分に言い聞かせるみたいに言っているのは自分でもわかった。情けないことを言っている自分、それからしたり顔のコイツ。どれもこれもが僕をいらだたせるのだ。
「……まあ、兄さんならそう言うと思いましたよ、それに向こうがどんなのか知りませんしね。知ってることといえば隣に住んでる。ひとりで暮らしてる。あとは料理ができることぐらい。そもそも彼氏がいるのかどうかもわからない」
彼氏という言葉にもなんだか腹が立つ。コイツはそうやって僕に指摘しているのだ、期待するだけ無駄だって。僕の前に女神が降りてきた。それだけなら自分の高揚が錯覚だって思えた。だけど彼女は現界したのだ。女神でも何でもなく血の通った魅力的な女性として。
でもどれだけ囃し立てても僕には恋愛なんてする気はない。確かに彼女はとても魅力的で引かれる。でもそれだけだ。僕は彼女に恋愛感情なんて持っていない。
確かに"引かれて”いる。でも”惹かれて”いるわけじゃあない。それなのにそんなことを考えてしまうのは彼女にも失礼だ。だから何かをしようなんて思わない。
それに恋愛が心躍るだけじゃないなんていうことは知っている。僕も過去には蜜よりも甘い毒を味わったこともある。
「まあ選ぶのは兄さんですけどね」
だったらなんで人の話に口を突っ込んだといってやりたい気持ちはあったけれど、それもコイツの思うつぼなんじゃないかって思えて、僕は何も言わない。
確かに自分でも浮ついていたのはわかってる。食後に紅茶をいれてあげるなんてその最たるものだ。あんなことは普段だったら絶対にしない。浮ついた心をそれっぽい理屈で言い繕って納得していただけだ。
気安くなっていた。すっかり懐柔されていた。
懐柔。失礼な言葉だ。どこかで僕はこういう人間であり、最低から脱却する必要がないって思っている。そういうことだ。
それは、ただのいいわけでしかないのに。
そうして気付くいつものように僕はひとりに戻っていた。
さんざんかき回されて、とうとつにぽつんと取り残される。これもいつものこと。いまらなんとも思わない。
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ヤツがいなくなって、それから僕は久方ぶりの登校の支度をする。
とはいえ大してすることもない。明日にはまだ何も始まらないから、筆記用具をカバンに詰めて、押入れにしまってあったクリーニング済の制服を取り出す。
それからすることも無くなって僕はベットに潜りこんだ。いつもからすると少し早い時間だったけれど、何かを始めるには微妙な時間だったし、何よりも気が乗らなかった。
暫くしてそれが間違いだったと気づいた。なかなか寝付けないのだ。
寝苦しさに耐えられず、一度目を開けて時計を確認するとすでに一時間以上が経っていた。かすかな眠気は気力を奪い、体を布団に縛り付ける。かといって睡眠には結びつかない。
頭の中にはいろいろなものが渦巻いて、形を持ったそれらすべてが後ろ向き。想像すらしたくないようなものに変容する。
やっぱりというかなんというか、予想通りの真っ黒に満たされる。コールタールと形容したそれは、今もまた僕の中を満たした。
昨日までのこと、今日のこと、明日からのこと。それらすべてが真っ黒く。
いつものように吐き気がする。未来に希望が無いのならば、絶望しか無い。いいや、希望なんて抱くから絶望なんてものがある。優菜の姿をしたあいつはいつも僕にそれを思い起こさせる。
また目を瞑る。闇から闇へ。ここでも真っ暗だ。
朝目覚めたときに感じたのは憂鬱だった。億劫で何もする気がでない怠惰な始まり。それからいま。一日の終りに感じているのは恐怖。
憂鬱で億劫で怠惰で恐怖。そんな一日がここにはあって。それは明日も続く。
今が良いなんてことはない。明確に悪い、低い、劣っている。最低なのならばこれ以上落ちることはないとか、知ったようなことは思えない。
ここは最低かもしれないけれど、最低の下にさらに最低があって、明日にはそこに足を踏み入れている。
わかっていることがある。
僕は日々落ちている。
これがほんとうのことだ。
進級、新学期。区切りとも言える。
明日は、いったいどうなるのだろう。もしかしたら何かが変わるかもっていう希望はきっと絶望へのスパイスでしか無い。だから何も考えちゃあいけない。
何が起きたって、きっと何も変わらない。だからなんにも期待しちゃあいけない。