3.一時しのぎの夜
思い返してみる。自分の人生について。平々凡々とは言えない谷ばっかりの人生だった。
悪い意味でドラマチック。感極まって涙をながすような幸福というのは、すでに無くなってしまった遠い過去の話だ。逆に失意の底で嗚咽をあげて、泣きわめくような不幸というのは幾つも浮かぶ。
僕の人生とはそうなるようにできているんだと思う。
幸福の総量というのは決まっている。幸福さんは誰かのぶんで手一杯で、僕までは足りない。だから僕は不幸なのだ。
僕はそういう考え方だ。他方そうではないという考えの人もいる。『幸せの総量は各々が同様に抱えているものだ。だから不幸が多かった人はその後は幸福が多く訪れる』というやつだ。
僕はその意見には頷けない。何故ならそうではない実例を知っているから。母のことは知らないけれど、父さんもそれからは優菜も。一度訪れた不幸はいつまでもいつまでも続いていく。
無限に続く負の連鎖。僕はきっとそれの中にある。そう考えたほうがしっくりとくる。
――けれど、今のこの状況というのは、その他方がいうところのの、不幸の反動なのだろうか。
それにしては意味がわからないし、素直には喜べなかった。そもそもこれは幸福なのだろうか?
食卓には出来たての温かい料理が並んでいた。ごはん、豚のしょうが焼き、だし巻き卵、ほうれん草のおひたし、豆腐とわかめの味噌汁。
何もそこまでというくらいに純和風の献立だった。僕も料理はするけれど、複数のちゃんとしたメニューというのは作らず大ざっぱなので、こうしてテーブルの上に並んでいるというのは久しく見ない光景だった。
そして見慣れないどころか初めての光景としては、対面には先程訪ねてきた女性が座っている。
「どうかしましたか? それともお口にあいませんでしたか?」
彼女は僕の手が進まないのを見て、隠す気がないのか、あるいは隠せないのか、不安もあらわにそう言った。
流暢な日本度を話す初対面の金髪美少女が、僕と卓を囲んでにほんの食事をとっています。それは、じゅうにぶんに、どうかしていると思います。
思ってはいても、そんな風に口にするわけもない。
「ああ、いや、何でもないです」
緊張のあまり味がわからないということはなく、口に入ればそれはとても美味しく、どこか懐かしさすら感じさせる、よくある日本の味だった。
初めて訪れた他人の家で長い時間かけたわけでもないのに、よくちゃんと出来るなあと感心してしまう。
「とても美味しいです。ほんと、ご馳走してもらってありがとうございます」
僕の言葉に光石さんは多少表情をやわらげた。お世辞ではなく。僕のために無償で作ってくれた料理にできることは感謝を口にするぐらいだ。
「いえ、そんな。私こそ勝手におじゃまして、それにお台所も借りてしまって」
光石さんは恐縮しっぱなしだが、こちらこそ恐縮してしまう。
本当、なんなんだろうか。彼女に悪意が無いのはわかる。彼女がほんものの女優か、人を騙すことに何の感情も抱かない器用な人間かでもない限りでなければではある。僕に何かをする意味もないだろうからそれはないのだろうけど。だいいちそんなタイプには見えない。
だからほんとうは僕は黙って感謝をすればいい。というかそれ以上のことはするべきでも考えるべきでもない。
だけど考えてしまう。僕は後ろ向きで悩みっぱなしだけど、これはけして僕がそういう人間だからというだけじゃあない。
常識的に考えて、隣に越してきた人が調味料が無いから貸してくれという確率が相当に低い。近年では隣に越してきた人どころか、隣に長年住んでいてもそのようなやり取りもあまりない。少なくとも僕の経験では一度も無い。
その人がついでだからと一緒に夕飯を食べませんかという可能性も同じく低い。そこに、引越しの片づけが終わっていないからあなたの部屋でとなる可能性、さらに料理を作ってくれる可能性を足せば、1%以下になるだろう。
そして、その人が異性で異国の超を幾つつけても足りないぐらいの美しい人だということを足したら天文学的数字になる。
そんなあり得なさを考えれば、この状況に対する身のおけなさを感じ、食事の通りがよくなくなるのも道理というものだと思う。僕のような小心な人間が、そんな詐欺まがいの状況を素直に受け取れるわけがない。そもそも今の僕は人間そのものが苦手な部分がある。誰もが僕を嫌っているような、阻害しているような。事実がどうのと言うより、僕がそういう風に感じてしまうぐらいに被虐的になっているのだと思う。
なんだか彼女との距離感がわからない。普通の人でもそうなのに、まして彼女はこの外見だ。普通の女性という扱いを超えている。同じ人間なのに、どうしたいいのかわからない。
僕はただ黙って、美味しいのになんだか苦痛な食事を黙々とするしかなかった。
しっかりとしたタレに豚の味が生きた絶妙の生姜焼きも、甘みの薄い出汁の効いた食べなれない卵焼きも、それからほうれん草もお味噌汁も、どれも僕の舌に染みこんで脳を刺激していく。通りは悪くても進みはする。遅くたって止まっているわけじゃない。
「ごちそうさまでした」
食事中僕と彼女の間には大した会話はなかった。それでも彼女はただ穏やかに箸を進め、僕もそんな彼女の様子を伺いながら、なんとも言えない緊張感のもと箸を進めただけだった。
もっとも僕に馳走をしてくれたし、とても美味しかったし、本来ならそんなことは捨て置けることなのだろう。
「お粗末さまでした」
どこか照れくさそうに彼女ははにかんだ。
胸の奥が暖かくなるような不思議な感覚だった。さっきまでのいろいろがどこかに飛んでいってしまう。あたたかい日の光のような。
それから僕は自分と彼女のぶんの、今しがた空になった食器を洗った。
彼女はそこでも自分でやろうとしたけれど、それぐらいはしないとこちらとしても気が済まない。
食器は食器乾燥機に入れてタイマーを入れた。いつもは無駄に広い食器乾燥機だなと思っていたけど、今日はそうでもなかった。彼女はフライパンも鍋もボウルもすべて使ったそばから片付けていったので、キッチンはすっかり元通りになっていた。
せめてものお礼でもと、僕はむかしに優菜が来客用に買っておいた、アッサムのティーパックを棚から取り出した。
来客用に買ったというのは知っているけれど、値の貼るものかどうかはわからない。ティーパックであると考えるとそこまでのものではないとは思う。紅茶を意図して飲もうということが無いし、来客も無いので、数が減らなくてこまっていた。それを消費したいというのもある。
すぐにでも帰って欲しいという気持ちはあるけれど、じゃあ帰ってくださいだなんていうのは失礼にもほどがある。
彼女に好感を抱いて欲しいんじゃなくて、悪感を抱いて欲しくない。ただそれだけのことだ、きっと。
「紅茶は大丈夫ですか?」
『飲みますか?』『飲みませんか?』『飲めますか?』
言葉を選んだ結果、なんだかよくわからない日本語になってしまったけれど、彼女がうなづいたので了承と取ってお湯を沸かした。
その間、彼女は興味深そうに部屋を見回していた。少なくともこの場所には見られて困るようなものはないのだけど、なんだか落ち着かない。
ティーパックの入ったティーカップにお湯を注ぐ。本当はゴールデン何とかとか、そういったおいしい飲み方があるのだろうけど、そんな専門的なことはわからないし、その違いがわかるほど通ではない。申し訳ないけれど彼女にもその辺りは承諾してもらうとする。
僕とそれから彼女のティーカップをテーブルに乗せて、僕はまた対面に座った。
彼女は目の前に置かれたティーカップを手に取ると、小さく「ありがとうございます、いただきます」といって口にした。
それから顔を上げると若干硬い面持ちで「あの」と言った。だけど、それきり言いづらそうに黙ったので、僕は続きを促すことにした。
「なんでしょうか?」
自然に緊張を表に出さないように柔らかく、そう意識したものの、妙に堅くなってしまった。失敗だ。
彼女はそんな僕の緊張にやっぱり気づいているのかいないのか、頓着することもなく続ける。
「お一人で住んでいらっしゃるんですか?」
「はい。以前は優菜――妹と暮らしていたのですが、亡くなりまして今は一人です。――ああ! 昔の話ですのでお気になさらずに」
言ってからしまったと思い慌ててつけ加えたけれど、こういうのは一体どういうふうに表したらいいのだろうか。
優菜が死んだのはもう一年も前の話だ。普通の人ならば一年前の話なんて遠い昔のことだろう。
約一年。日付に換算すれば365日。
その間の日々はいつまでも終わってくれないような何もない長い一日なのに、こうやって振り返ると一瞬で終ったように感じてしまう。そんなものだった。もしかしたら、この『365』は『1』と同じ事なのかもしれない。
「えっと、光石さんは……」
彼女が優菜の話を聞いてどう思ったかはわからない。どれだったとしても僕は聞きたくはなかった。だから僕は相手の反応が何かしらの反応を見せるよりも早く、あからさまに話をそらそうとした。
けれどもそこで気づいたのはこの人は何なんだろうということ。年若い子が一人で、どうして初対面の隣人の家で食事をとっているんだろう。
「……ちょっと事情がありまして親元を離れてこうやって家を出てこのマンションで暮らすことになったんです」
そんな僕の疑問を察したのか光石さんが口を開いた。その事情というのは今までの流れからはわからない。複雑な事情なのだろうか。言いよどんでいることもあり、そこに深くつっこむ向きにはならない。
「いろいろあるんですね」
「はい、いろいろです」
きっぱりと力強く言った光石さん。それが何だかおかしかった。
「? 私そんなに変なこと言いました?」
表情に出ていたらしくて、そんなことを言われてしまった。
「そんなことはないですよ。ただ変なところだけ息があったなって」
「私たち相性がいいんですよ」
『天使のような』。そんな陳腐な形容が浮かぶ笑顔で光石杏奈は言った。冗談でもそんな風に笑わないで欲しい。だって勘違いしてしまうから。
僕は紅茶に口をつけた。思っていたよりも濃かったが、僕にもわかるぐらいに美味いものだった。これだけ美味しいのなら、普段から自分用に飲めばよかったのかもしれない。
それからしばらく、音楽がどうという他愛もない話を繰り広げた。別段深い話をしているわけじゃあない。明日の天気であったり今日の占いを話すみたいな当たり障りがないもの。
そうしていたって身が置けないし、心穏やかではない。だけどなんだかそれも悪くないなっていう不思議な感覚もあった。
そうして話しているとき、ふと時計に目が止まった。
「時間は大丈夫?」
夜分遅いというほどではないけれど、早い時間ではない。実際僕にも明日から始まる新学期の支度というのがある。
「そうでね、いつまでもおじゃましていても悪いですし」
そうして彼女は立ち上がると、改めて僕に向き直った。つられて僕も立ち上がってしまう。
「本日はありがとうございました、不躾に上がりこんで、台所をお借りさせてもらうなんて」
「いえ、全然構わないです。こちらこそご美味しい食事を馳走になってありがたかったです」
「そう言っていただけると、こちらとしてもありがたいです。
一人暮らしなんて初めてだったんので、不安だったんですけどよかったです。おとなりの方が槇原さんみたいな良い人で」
「いや、そんな」
僕は苦笑いをするしか無い。謙遜なんかじゃない。僕はただの駄目な人間だ。今だって僕はただ彼女に嫌われたくないってそれだけのことしか考えていない。
ほんとうに良い人だったら僕みたいなのとは関わらないほうがいいって、そう言わなければならないのだ。
「これからもよろしくお願いします」
「こちらこそ」
だけどそんなことを言うわけもなくて、僕はオウム返しに言った。