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ひなたの庭  作者:
一章『ご都合主義の始まり』
3/37

2.はじめて

 父の実家を出たのが遅かったのもあり、自宅マンションに着いたときにはすでに日は暮れていた。

 実家とはけっこうな距離がある。そのうえ田舎のほうなので駅から実家までも遠い。その為午前に出立しても夜に帰ってくることになってしまう。

 僕が親戚との交友が殆ど無い理由は、根本的にはこれが原因だ。もしも、そんなに遠い場所ではなく普段から交友があるような人たちだったならば、僕の心象もいくばくか変わっていたかもしれない。

 頼るべき人がいれば、僕たちだけではなかったのなら、僕の人生は変わっていたのだろうか? 考えたところで詮無いことではある。

 新幹線から在来線へ乗り換え、近隣の駅からバスで十分、徒歩なら二十分。そこに僕が住むマンションがある。

 マンションとアパートの違いがなんなのかはわからないけど、ずばり成光マンションという名前なのだからこれはマンションなのだろう。

 僕のイメージではマンションというともう少しハイソなものだ。億ションとかそういう芸能人とか政治家とかが住んでいるような。地上何階建てとかLDK以外にも部屋が四つも五つもあるようなそういうの。

 この成光マンションというのは当然それより質素だ。とはいえ2DKにオートロック、インターホン付きなので、安いボロアパートという風にはとてもではないけれど言えはしない。

 ここで僕たちは父と優菜と三人で暮らしていた。今となっては一人で暮らすには広すぎる感もあるし、贅沢すぎている感もある。

 面倒だと、未だに優菜の部屋を片づけきれていない辺り、我ながらまったく吹っ切れていない。

 でも仕方がないって思う。唯一の近しい人を唐突に失って、それで僕はどうすればいいんだ。僕はもうひとり。縋るも頼るもない。ただひとり棄て置かれて生きながらえる、残りカスみたいなそんなもの。そんな僕の人生はやっぱり最悪で終わっていくのだろう。

 考えると吐き気がする。それは体調不良によるものなんかじゃなくて、精神的な不良からくる、まやかし。

 その証拠に胃の奥から何かが込み上げてくる感じなんてしない、単純な精神不良の発露。不安の具現化。理由なんて一つもないとも思うし、思い当たる理由ばかりがあるとも思える。

 何もないがらんどうの今日がここにはある。こうやって日々を浪費していって、今日と同じ明日が来る。空っぽをいくら積みかせねても、それは空箱の山でしか無い。

 未来に希望が無いのならば、絶望しか無い。


 落ちていく心を留まらせようと思考を明後日の方に向ける。

 遥か彼方の一家団欒。二人だけの箱庭。昔の彼女。楽しかった学生生活。ありもしないフィクションの世界。

 そういうので頭の中を満たして、古い空気をすべて肺から出す。それから新しい空気を五臓六腑に染み渡らせる。それでどこまでも遠くに逃げてしまう。

 けれど、僕の中の客観的な自分がまるで他者のように問いかける。

 『それでもいいのか』、『それが間違いなんじゃないのか』。

 進むことととどまること。どちらが正しいんだろう? 心の中がバラバラで、結論としてはやっぱり全部放棄して逃げる。

 エレベーターを使うほどではなく、自室のある三階へとそのまま階段で上がる。

 そうして辿り着いた部屋の前で僕は違和感を覚えた。成光マンション303号室。ここが僕が暮らす場所。何も変わるわけがない僕の住処。違和感を覚えたのは僕の住むそこではなく、お隣さんである302号室。

 都心を少しだけ外れているこのマンションは、空き部屋が少なくなく、僕の住む3階の住民は僕だけだった。

 それで大家さんは大丈夫なのだろうか、という僕がする必要もない心配もしてしまう。

 ともかくその誰も居ないはずの、302号室入口前にはダンボールが立てかけてあった。あとはなんというか”人がいる”感じもする。

 僕がいない昨日今日の間に誰か越してきたのだろうか。

 僕がここに住んでからとくに近所付き合いというか、お隣づき合いというのは無かったのだけど、これからそういうのがあるのだろうか。このご時世だからすれ違って挨拶とかそれぐらいだろう。僕としても煩わしい人付き合いなど願い下げである。

 そんなことを考えながら扉を開くと僕は、玄関ホールに座り込んだ。

 疲れた。本当に疲れた。パトラッシュもう眠いよ、とつまらないギャグを言ってしまいたいぐらいにはつかれている。

 『ネロはルーベンスの絵を見て最高の瞬間に人生を終えられたのだから幸せだ』

 『ネロは生きていればまだ希望があったということを知らずに人生を終えたのだから不幸だ』

 どちらも等しく正しくも間違ってもいるのだろう。すがるもの一つない人間に「諦めるな」なんてこと僕は言えない。

 『何もかもがうまくいくハッピーエンドがあるからがんばろう』

 そんな白々しい台詞どうしたら吐けるんだろう。そんなことが言える人は鈍い人だ。自分の痛みに自分の弱さに自分の置かれた状況に、そういうのを全部本質的には理解していないのだ。強い人ではあるかもしれない。だけどその前にやっぱりその人は鈍い人だ。そんなふうに考えてしまうことこそが、僕が弱い人であるなんていうことなのかもしれない。

 ネロその人から見れば、その終わりは多分幸福ではあったのだろう。

 彼のような幸福を、真実幸福と呼べるか否か。けれど例えば彼のような果てが得られるとしたら――それはそう悪いことではないのかもしれない。

 もちろんこれも詮無いことだ。僕だって自らああいう結末を得ようとは思えない。


 僕にはよくわからない。

 死にたくはないけど生きていたくはない、生きたいとは思えないけど死にたいとも思えない。思考がグルグルと回って、尾を食う蛇みたいな形になっている。

 考えなくちゃいけないことはあるのだろうけど、何かを考えるとどうしても考えなくてもいいことまで考えてしまう。

 そうすれば何が考えていいかっていうところからしてわからなくなる。

 一体どうしたらいいんだろう。何十回どころか百も千も、もしかしたら万も考えたそんなことがまた脳裏をよぎる。思考の渦。ぐるぐると黒いものがとぐろを巻く。

 それが僕を飲み込もうとして

 ――そうはならなかった。

 僕の渦を止めたのは、来客を知らす呼び鈴だった。

 普段ならばインターホンのモニタから外の様子がわかるので、相手を確認し大抵はめんどうだから居留守を使うのだけど、インターホンはリビングに設置されている。

 ほんの気まぐれ。どこかの誰か、たとえ相手が勧誘でも宅急便でもいいから、矮小な僕のことを知らない誰かと何か一つでも喋りたかったのかもしれない。そんな気まぐれから僕はドアを開けた。

 ドアをあけると冷たい外気が入ってくる。


 そうして開かれた扉の先には芸術品があった。

 

 宝石のような碧い瞳、雪みたいに白い肌の色、ふわりと緩やかな、絹糸のような淡い金の髪。

 それは綺麗や美しいと凡庸にしか表現できないものだった。彫刻とか絵画とかそういった芸術作品の一つがここにあった。

 夢とか幻とかじゃなくて、いま、この場所に。

「こんばんわ」

 けれどそれは作り物なんかじゃない、紛れも無く一人の人間で。僕とかわらないぐらいの年齢の異国の女性だった。

 異国。世界にはありふれているけれど僕の(おそらくは一般的にも)ありふれていない珍しい存在。

 そして彼女は、その希少な中でもこうして息を飲んでしまうぐらいに綺麗だ。

 頭の中が真っ白になる。

 突然のことに頭の中が空回りする。

 視線が離れなくて、どうすればいいのかよくわからない。離したくて仕方がない。人を見つめるなんていう行為、僕は嫌だ。怖いんだ。

 だけど何か意思の及ばない強い力が僕を押さえつけている。嫌だという思考と、それを拒む何か。

 彼女が僕の目をまっすぐに見ている。

 碧い宝石の中には、とても強いものがある。

 こんなに特徴的な人だから、会うどころかすれ違っていても覚えていそうだけど僕の記憶には無い。だからきっと完全に初対面のはず。

「はじめましてこんばんわ。昨日お隣に引越しさせて頂きました、光石杏奈と申します。何分一人暮らしなど初めてでして、ご迷惑をおかけすることもあるかもしれませんが、よろしくお願いします」

 そういって彼女は頭を下げた。光を受けた長い髪がつられて下がる。

 透き通った綺麗な声でもって綴られた流暢な日本の言葉。イントネーションや発音の歪みなどひとつもなく、その辺の人よりもよっぽど聴きやすい。

「光石杏奈、さん」

 下がった彼女の頭部を見ながら、僕は彼女の名を反芻する。眼の前にいる彼女の外見とその名前があまり結びつかないものに思えた。

 日本の言葉と日本の名前。それから日本以外の外見。

「……僕は槇村一史といいます。こちらこそよろしくお願いします」

 同じように頭を下げた。精いっぱい動揺を押し隠して平静を装う。

 僕の反応を待っていたわけではないのだろうけど、僕がそうすると彼女はやっと頭を上げた。

 隣に越してきたということはつまり、さきほどの『人がいる感じ』は彼女ものだったということか。

 完全に予想の範疇を超えていた、隣にこんな人が越してくるなんて誰が思うんだろう。

「初対面で大変申し訳無いのですが、お願いがあります」

 僕の動揺に気づいているのかいないのか彼女はそんな風に切り出した。真剣に、どこか緊張感を伴う空気。何事かと僕は身構える

「――お醤油を貸してください」

 微かに息を呑んだあと彼女が口にした。まったくもって予想だにしない、全く脈略のない言葉。

「……はぁ」

 僕は意味もわからなく。なんでだろう、頷くしかなかった。

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