雨
たとえばセックスがしたくてしたくてたまらないと云ったような、かつて男ならば誰もが通過した蒸し暑い季節に、初めて女の神秘に触れた夜、僕らは凄まじく大きな欠乏を手に入れはしなかっただろうか。あれほど希求していたものをこの手中に納めてしまった瞬間に、僕らは一番欲しいものが単なる石ころへと姿を変えゆくのをまじまじと眺めはしなかったろうか。いつだって欲望は欠乏を欲望している。
その日は雨が降っていた。珍しく待ち合わせの十分前に到着した僕は、することもなく傘を差してぼうと突っ立っていた。傘の表面で集まった水滴が大きな粒となって足下を濡らしてゆくのをじっと見つめていた。つまりだ、水も滴る…
「良い男」
振り返ると満面の笑みを湛えた彼女がいた。
保育士をしている彼女とは実に数年振りの再会であった。かつて僕たちは恋仲になりそうな雰囲気も見せつつ、互いに煮えきらぬような感じも見せつつ、徐々に疎遠になりつつ、音信不通になりつつ。それに理由などはなくて、単に初めから引き留めるような性質のものではなかっただけだ。そもそも、世の中に引き留めるような別れなどがあるだろうか。彼女は現在の彼氏が振るう暴力のことや、子供を堕ろしたこと、ゲイを好きになってしまったことなどを饒舌に語ったが、僕は子等は彼女のことを何も知らず、ある種の母性や聖性を感じているだろうが、その実がケータイ小説の主人公のような実際であるということを考えて、正直に云えば欲情していた。あとは苛立ちしかなかった。それだけだった。
そういえば貸しっぱなしの本があったけど、なんだったのか忘れた。たしか借りっぱなしの本もあったけど、いつだったかブックオフにまとめて売り払ってしまった。大した金にはならなかったけど、おもしろかった、と云うと、彼女は、じゃあどんな内容だったか云ってみてよ、といたずらに笑うので、こんな保母さんだったら抜群だな、と園児を羨ましく思った。彼女は雨の日にみんなで歌う歌があると云って、雨雨降れ降れ母さんが、と歌って見せた。僕は、それは晴天の日にこそ歌うべき歌だと云おうとして、何かを諭そうとしている自分が嫌になり、沈黙していた。一番欲しいものを手に入れてしまう不幸と、一番大切なものを失う幸福と。ぼんやりそんなことを考えていた。
外へ出ると雨は小振りになっていて、程よく酔った僕たちは名もない駅で休息も兼ねて雨宿りをしていた。ふいに晴れ間が顔を覗かせて、僕たちは、わあ、晴れた、などと云いながら歩き出した。と、思ったらすぐに、今度はバケツをひっくり返したような大雨が降ってきて、僕は傘を捨てた。「ショーシャンクの空に」の名シーンの真似をしてふざけていると、彼女が、どうして傘を捨てるのと訊いてきた。僕が、必要だから、と答えると彼女はくしゃくしゃに笑って、必要なのに? と云い傘を閉じながら、そう必要だから捨てるのだ、雨雨降れ降れ母さんが、ずぶ濡れのまま二人は。