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待ち人は、まだ来ない。あたしは足元の石ころを意味もなく蹴っ飛ばした。夕日にじりじりあぶられてほてる腕を、ゆっくりさすって宥める。
いい加減、カバンをかけている肩が痛くなってきた。荷物くらい、家に置いてから来ればよかった。けれど頼子からのメールによると、もうすぐ帰ってくるのだ。入れ違いになってしまうのは避けたい。
『球場は撤収完了。部員はミーティングしてから4時ごろ解散だって。』
携帯を開いて、頼子からのメールを見返した。
いつもより文字数も絵文字も少なくてそっけないのは、まだ怒っているからだろう。あれだけ謝ったのだけれど。後でもう一度、電話してみよう。
「――藤原?」
驚いた声がして、あたしはぱちんと携帯を閉じた。顔を上げると、野球部のジャージ姿の新田くんが立っていた。
ああ、やっと帰って来た。あたしはほっとして、微笑んだ。
新田くんの顔は、頬も鼻先も真っ赤に焼けていた。炎天下での全力プレーだ、日焼けも帽子についた土のあとも当然だろう。エナメルのどっしりしたバックも、少しくすんで鈍く光りを弾いていた。
あたしは、第一にいおうと決めていた言葉と共に、スポーツドリンクを差し出した。
「初戦突破、おめでとう。これ、ささやかながらお祝いです。」
さっき買ったばかりのスポーツドリンクは、まだ十分に冷えているはずだ。少し揺らしただけで、水滴がぱたぱたと落ちる。
けれど、新田くんは動かなかった。呆然としたような顔で、立ちすくんでいる。
どうしたんだろう?不思議に思って、あたしは自分から近づいた。弾かれたように、新田くんが一歩下がった。
「――ちょっと待った。」
掌を向けて、新田くんは強い口調で言った。
「お前、それ以上近づくな。」
「ええ!?」
ショックだ。あたし、何かしただろうか。
ガーンと打ちのめされるような衝撃に動けないでいると、新田くんが焦ったように手を振った。
「いや、においがすごいから。近寄んな。」
「におい?」
思わず、自分の腕に顔を寄せて嗅ぐ。新田くんは渋い表情で「そうじゃない」と言った。
「……俺だよ。試合後だから、すげえ汗くさい。」
あまりに真剣な口調だったので、ついついあたしは吹き出した。汗くさい、だって。
「それって、当たり前だよね。新田くん、野球してきたんだから。」
「そうだけど。」
新田くんの表情がますます苦くなる。
「あの梶の彼女が、試合の後うるさかったから。『何このにおい!?近寄らないで!』とか、散々言われた。」
頼子……。あたしは眩暈を覚えてふらついた。顔をしかめた頼子のとがった声が、聞こえてくるようだ。想像できてしまうところが恐ろしかった。
「……あの子、決して悪気があるわけじゃないんだ。」
ただ、デリカシーがないだけで。苦しいあたしのフォローに、新田くんは頷いた。
「結構キツイ性格の女なんだってな。くさいって言われて、梶は死んでたけど。」
でも、そこが好きなんだそうだ。新田くんは少し肩をすくめて、にやっと笑った。
新田くんには珍しい、からかうような笑みだ。瞳がおもしろがるように、キラキラ輝いている。
勝利の喜びが、大きな体から溢れているようだった。いつも仏頂面の新田くんだからこそ、抑えきれない喜びの大きさがわかる。あたしもつられてにっと笑って、大きく一歩踏み出して新田くんに近寄った。
「本当だ、頑張ったってよくわかるにおいだね。」
「うるさい。」
スポーツドリンクは、無事に新田くんの手に渡った。
ごくごくと上下する喉を見ているうちに、あたしは今更ながら、とても残念な気持ちに駆られた。今日の試合、見に行きたかった。頼子からちょくちょく送られてくるメールからも、白熱した試合なのだということがわかって、やきもきしていたのだ。
「……今日はごめんね、見に行けなくて。」
ぽつりと謝ると、新田くんはすぐにペットボトルから口を離して、首を振った。
「いや、塾だったんだろ?いいって。」
夏期講習が重なって、あたしは結局野球部の応援に行けなかった。
断るのが遅くなってしまったせいで、頼子には散々文句を言われた。曖昧に約束してしまったのは、あたしが悪い。平謝りして、直前に千羽鶴もできる限り手伝ったけれど、頼子はまだむくれているみたいだ。それだけあたしと応援に行くことを楽しみにしてくれていたんだと思うと、悪いことをしたなと申し訳なくなる。
応援より講習をとったのは、あたしだ。見に行かないと、あたしが考えて決めたことなのに、こうやって結局後悔するなんて。
どっちつかずの自分に、ため息が出てくる。
「……夏休みなんだから、やりたいことが全部やれたらいいのに。」
思わずもれた愚痴に、新田くんはふと口元をゆるめた。
「やりたいことが、たくさんあるんだな。」
「……うん、まぁね。」
最近「やりたいこと」の筆頭に挙がったことを思い出して、あたしは微笑んだ。想うだけで、やわらかい気持ちになる。
小野くんのことを考えるだけで、他のことも頑張ろうと思えるから不思議だ。やりたいことなんか、目一杯ある。まだ夏休みは、始まったばかりなのだから。