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「……小野くんは、大学で古典を勉強するの?」
もう一歩踏み込んで、あたしは尋ねた。小野くんの話を、進路についてのことを、もっと聞いてみたくなったのだ。「詳しい人に聞くのが早い」ではないけれど、小野くんがどう考えているのかを、知りたいと思った。
「いや、大学ではやらない。」
小野くんは首を振った。
「古典は好きだけど、大学の志望学部は、国文学じゃないから。……俺の古典好きは、趣味みたいなモンだよ。大学で専門に研究するのとは、ちょっと違うかな。」
それもおもしろそうだけどねー、と小野くんは深く息をはいて、椅子にもたれた。
なんだか、意外だった。あたしの中では、小野くんと古典は分かちがたく結びついているけれど、当の本人にとってはそうではないのだ。好きなものでも、その道に進むかどうかは、また別の問題なのだ。
「――小野くんが古文の先生になったら、あたしみたいに古文好きになる子が増えると思うのになぁ。それには、ならないの?」
ついぽろりと、本心からの言葉がもれた。小野くんは「……そうかな」と、口の端だけで微笑む。考え込むように頬杖をついて、目を伏せた。
その笑みを見て、はっと気付いた。――踏み込みすぎだ。
小野くんを、困らせてしまった。小野くんの進路のことについて、あたしがいろいろ言う権利などないのに。
「ごめん……。」
うつむくあたしに、小野くんはちょっと慌てたようだった。
「えっ、なんで謝るの!?今、謝るところなんて何もなかったよね?」
謝らないでと両手を振ってから、小野くんはちょっとはにかんだ。
「むしろ、俺がお礼を言いたいよ。――藤原さん、本当に古典を好きになってくれたんだな。」
あたしは微笑んだ。
小野くんの言うとおり、あたしは苦手だった古典を好きになった。それは小野くんのおかげだ。――けれど、古典だけを好きになったのではないのだ。
「藤原さんが古典好きになる手伝いができて、俺も嬉しいし、楽しいよ。……古典仲間ができたみたいで。」
「古典仲間?」
小野くんは照れたように視線をそらした。頭をかいて、うん、と頷く。
「そう。変な言い方だけど、古典好きの仲間。一緒に古文を勉強できる仲間なんて、かなり貴重だよ。」
こんな改まると、なんだか恥ずかしいな。小野くんは肩をすくめて、誤魔化すように苦笑した。
あたしも、曖昧に笑みを返す。けれど、かわいく笑えている自信はなかった。もしかしたら、頬が引きつっているかもしれない。
あたしを「貴重」と言ってくれた小野くんの言葉は、嬉しい。けれど正直、複雑な気分だった。
「……古典仲間、かぁ。」
――それは友達、ということなのだろうか。
古典の勉強を通して、あたしと小野くんは確かに仲良くなった。よく話すようになったし、こうして、家にも入れてもらえるくらいに。
……でも本当に、近くなっているのかな?
例えばあたしにとっては、こうして小野くんの家にお邪魔するなんて、夢のようなことだ。足元が覚束ないような、胸がきゅっと絞られるようなことだ。
けれどたぶん、小野くんにとっては違う。小野くんは、あたしが疲れているだろうと思って、休ませてくれただけ。きっとふわふわした気分にもなっていないし、ドキドキ緊張してもいないだろう。たぶん、吸い寄せられるように見つめてしまうことも、笑顔を眩しく思うことも、ないんだ。
――これが、友情と恋の、違いなんだろう。胸が痛くなるけれど、そうなんだ。
「……ね、古典には、友情の歌ってあるのかな。」
ふと思いついて、あたしは尋ねた。小野くんが首をかしげる。
「え、友情の歌?」
「うん。なんとなく今、気になって。」
これまで勉強した和歌は、みんな恋の歌だったような気がする。昔の人は友情より恋愛だったのかなと、ふと思ったのだった。
小野くんは腕組みをして、難しい顔で考えこんだ。うーんと唸って、頭をひねっている。あたしは慌てて手を振った。
「いや、ごめん。ただの思いつきだから。」
意外に厄介な質問をしてしまったらしい。本当に、ただ思ったことをぽろっと口にしただけなのだ。小野くんを煩わせたかったわけじゃない。
けれど小野くんは、何か思いついたようだった。テーブルの隅に置かれたメモ帳とペンを引き寄せて、さらさらと書く。
「友情の歌って、言われてみればあまりないのかもしれないなぁ。俺、今これしか思い浮かばなかった。」
小野くんがメモを破いて、差し出した。それを受け取って、あたしは書かれた端正な文字を読み上げた。
めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬまに 雲がくれにし 夜半の月影(紫式部 新古今 1499)
「藤原さんも、聞いたことあるんじゃないか?それ、百人一首にも入っているから。」
小野くんが身を乗り出す。けれど残念ながら、あたしは百人一首なんて一つも覚えていない。確か、小学校の時に暗記テストをしたはずだけれど、きれいさっぱりと忘れてしまった。百人一首なんて、今じゃお正月にも触らなくなったな。
情けない顔をしたあたしに気付いて、小野くんはすぐに解説を入れてくれた。
「それは、紫式部が詠んだ歌なんだ。幼友達に久しぶりに会ったけど、すぐ別れちゃって、それが残念で寂しい、っていう意味だったと思う。」
「へぇ、紫式部の……。」
その有名な名前なら、さすがにあたしでも知っている。
源氏物語の作者。古文では、必ず覚えなければならない重要人物の一人だ。教科書に、いつも太字で書かれている女性。
「他には大伴家持が、友に向けた歌を詠んでたと思うけど……ちゃんと思い出せないな。今度、調べとくよ。」
小野くんの真面目な声に、あたしは生返事しか返せなかった。メモに釘付けだったのだ。
千年も昔の紫式部は、友達にこれを詠んだのだろうか。友達に久しぶりに会って、でもすぐに離れなきゃいけなくなったとしたら、今ならメールを送るけれど。「次いつ遊ぶ?^_^」なんてやりとりは、平安時代には絶対にないんだろうな。
――めぐり逢ひて、か。
「……これ、友情の歌なんだ。」
メモから顔を上げて、あたしはその言い回しをしみじみ噛みしめた。
「めぐり逢う」だなんて、「別れが寂しい」だなんて、……困ってしまう。――友情の歌なのに、あたしには恋の歌に聞こえてしまうから。
たぶん、それは小野くんのせいだ。
「紫式部っていえば、源氏物語だね。藤原さん、古典好きになったなら、一度読んでみるといいよ。現代語訳がたくさん出てるし、マンガもあるから。」
源氏の現代語訳をあれこれと指折り挙げる小野くんは、生き生きしていた。楽しそうに、目を輝かせている。
ああ、小野くんは本当に古典が好きなんだ。
あたしはその笑顔がいとしいような、ちぇっと拗ねてしまいたいような、不思議な気分だった。そんな自分がおかしくて、口元がふとゆるむ。
――小野くん。あたしは古典が好きだけど、それよりも小野くんが好きだよ。
飛び出しそうになる言葉を押さえつけるために、あたしはまた麦茶を飲んだ。喉を滑り落ちて、口の中には苦みが残った。
好きだって、言ってしまいたい。
でも、今はダメだ。
どちらも正直な気持ちで、あたしは迂闊に口を開けなかった。告白したいけれど、今はできない。だって、あたしには何も自信がない。飛び込んでしまう勇気も、なかった。
「……あたし、期末の古文は、平均点あったんだ。」
告白の代わりに、あたしはぽつりと呟いた。小野くんが、ぱっと笑顔になる。
「本当?じゃ、中間テストの倍になったんだ!やったじゃんか、藤原さん。」
あたしは微笑む。いたずらを思いついたような気持ちで、おどけて言った。
「ね、次は80点とれるかな?」
「とれるよ。藤原さんの成長ぶりは、本当にすごいな。」
小野くんはあっさり頷いて、しきりに感心している様子だった。すごいを連発して、自分のことのように喜んでくれた。
……でもそんなに簡単に、「とれるよ」なんて言っていいのかな?
「――あたしが80点とったら、小野くん、」
たぶん、自信も勇気も出ると思うから。だから。
言いかけて、やめた。きょとんとしている小野くんに、「なんでもない」と、誤魔化して笑う。
ここから先は、80点をとった後だ。その時に、言おう。
「決めた。あたし、2学期は絶対古文で80点とる。がんばる。」
新たな目標ができた。古典の勉強、もっとがんばらないと。下級役人のままでは、ダメなんだ。
がんばってがんばって、――小野くんに好きですって言うんだ。テーブルの下で、あたしは拳を握りしめた。
「応援してね、小野くん。」
「うん、もちろん。」
あたしの決意など何も知らない小野くんは、笑って頷いた。






