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目の前のテーブルには、気持ちよく冷えた麦茶のグラスが置かれている。ついさっきまで切望していたそれだけど、あたしは緊張のあまり、手に取ることができなかった。
予想外の展開に、未だに頭がついてこないのだ。
「遠慮せずにどうぞ。炎天下で、すごく暑かっただろ。」
小野くんは固まるあたしを気にもとめず、ごくごく自分のお茶を飲み干した。「あ、ありがとう」と、あたしはどうにかお礼の言葉を絞り出す。グラスに手を伸ばしたけれど、結局、ためらった末に膝に手を戻した。挙動不審になっているという自覚はあった。
あたしは、小野くんの家に来ていた。
自転車の修理は、あたしの出る幕などなかった。全て、小野くんが手際よく直してくれたのだ。鍵の歪みをペンチで戻して、差し込み口を2・3回蹴っ飛ばしただけで、すんなり鍵の引っかかりを解消してしまった。中学まで自分が乗っていたから、故障には慣れっこなのだと小野くんは笑った。
男の子は大喜びで、そのまま自転車に乗ってどこかへ行ってしまった。
「おーい、夕方までには帰ってこいよ。」
小野くんが男の子の背中に、大声で呼びかけた。それに「わかった!」と元気よく返事をして、自転車をこぐ姿はあっと言う間に見えなくなった。小学生のパワーは、本当にすごい。
「それにしても、慎士の言ってた『親切なお姉ちゃん』が、まさか藤原さんとは思わなかった。」
小野くんがこちらを振り返る。あたしはどきどきする胸を押さえて、頷いた。
「あたしも、あの子がまさか小野くんの弟さんだとは、思わなかったよ。」
「助けてくれたんだって?本当にありがとう。」
微笑んでまたお礼を言う小野くんに、あたしは首を振った。
「ううん、全然。」
本当に、何もしてない。結局小野くんが全部解決してしまったのだ。
急に、汗をかいている自分が気になって、首すじを手で拭う。においとか、大丈夫かな。今日している制汗スプレーは、石鹸の香りのはずだけれど。
「……あの子、慎士くんていうんだね。」
「そう。小野慎士だから、音だけはサッカー選手と一緒だよ。」
本当だ。顔を見合わせて、あたしたちは笑った。
――困ったなぁ。
小野くんから、目が離せなくて困る。どうしても、キラキラ眩しく見えてしまう。恥ずかしさをごまかしたくて、あたしはペットボトルに口をつけた。
一気にお茶を飲み干したあたしを見て、小野くんはしまった、という顔をした。
「ごめん、俺、気が利かなくて。――喉乾いてるよね?」
「え?」
小野くんはにっこり笑って、すっと後ろの方を指さした。
「俺ん家、すぐそこのマンションなんだ。お茶くらい出すから、休んでいってよ。」
「ええ?」
一気に心臓が跳ねた。あまりのことに、はいともいいえとも答えられないあたしに、小野くんがさらに続けた。
「慎士の自転車のお礼に。――まぁ、時間があれば、なんだけど。」
それで決まりだった。あたしは一も二もなく頷いた。そんなおいしい誘いを、断れるはずがない。
小野くんの家はコンビニから5分ほど歩いた、白いマンションだった。中に入ると玄関も続く廊下も整然と片づいていて、落ち着いた色合いのマットや小物が置かれている。あたしは学校の、きれいに片づいた小野くんの机を思い出した。学校での小野くんと、普段の小野くんとのつながりを垣間見たようで、ちょっと嬉しくなる。
案内されたリビングも、出されたグラスも洗練されて見えた。あたしの家と全然違う!と思ってしまうのは、贔屓目のせいだろうか。気をつけていないと、失礼なくらいきょろきょろ眺めてしまいそうだ。
意識して、あたしは視点をしぼった。周りを見ないようにすると、自然、小野くんの顔ばかり見てしまう。あんまりじっと見つめてしまったからか、小野くんが不思議そうな表情になった。
あたしは慌てて、話題を探す。
「ええと、小野くんと弟さんって、あんまり似てないね。」
小野くんは苦笑した。
「よく言われるよ。俺が母さん似で、慎士は父さんの方に似てるから。」
弟の慎士くんのことを話す小野くんは、とても穏やかな目をしていた。弟くんのことが、かわいいのだろう。結構年が離れた兄弟だけど、仲が良いんだろうな。
「うらやましいなぁ、かわいい弟がいて。あたしの弟なんか、全然かわいくないよ。」
「へぇ、藤原さんも弟がいるんだね。」
小野くんがぱっと顔を明るくして、身を乗り出した。けれど反対に、あたしの表情は渋くなる。
「うん。翔っていうんだけど、生意気でムカつくだけだよ。中学3年生だから、あたしより背は大きいし、反抗期だし。ケンカばっかり。」
「そうなんだ。年が近いと、そんなものなのかな。」
小野くんはおもしろそうに首をかしげた。
この話題がウケるようなので、あたしはしばらく翔との普段のやりとりやケンカの数々を、おもしろおかしく話した。ちょっと大げさにしたところはあるけれど、大体は真実だ。小野くんは唖然としたり、ぷっと吹き出したりして、あたしのおしゃべりにつき合ってくれた。なんだか和やかで、なかなかいい雰囲気だ。
弟の話題が尽きて、ふっと場が静かになる。けれど、楽しい、浮かれた気分はそのままだった。あたしはにやにや笑ってしまいそうになるのを抑えて、お茶を一口飲んだ。小野くん家の麦茶は、あたしの家のより香ばしい風味がする。
「――藤原さん、今日は塾だったの?」
椅子の下に置かれたあたしのカバンを見て、小野くんが聞いた。
「うん。今日から早速、夏期講習で。」
ほら、とあたしはカバンを開けて、講習のテキストを取り出した。今日受けたのは、数Ⅱの授業だ。今までの復習が中心だけど、受験対策も一緒に含まれているから、応用問題は難しかった。
小野くんはへぇ、と興味深そうにテキストを手にとって、ぱらぱらとめくった。問題を見る目つきも少し、真剣なものになる。
「小野くんは、夏期講習には行かないの?」
「うん、お金がかかるから。」
ありがとう、と言って小野くんはテキストをこちらに返した。
「……俺は、受験勉強はなるべく、独力でやろうと思ってるんだ。」
びっくりして、あたしはまじまじと小野くんを見返した。浮ついた気分も引っ込んだ。
「自分で勉強するってこと?」
「うん。塾も家庭教師も、高いから。」
小野くんは、ちょっと困ったように笑った。
「俺んち、そんなに金ないし。今までも一人で勉強してきたから、できると思って。」
すごい。あたしは圧倒されて、声も出なかった。
足場を突き崩されるような衝撃だった。なんてすごいんだろう。小野くんはもう進路について、ちゃんと考えて決断を下しているんだ。お金のことも自分の学力のことも、考慮に入れた上で決めたんだろう。なんとなく、ただ流されるようにして講習に通い始めたあたしとは、大違いだ。
目の前に座る小野くんが、ひどく大人に見えた。同級生、同い年のはずなのに、考え方がこんなにも違う。
――進路、なんて。まだあたしには曖昧で、遠く感じるものなのに。