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駅前は予備校の大きなビルが立ち並ぶけれど、少し歩けば、辺りは静かな住宅街となった。人かげはなく、セミだけが元気に声を響かせている。一番熱中症になる危険性が高い、昼過ぎの時間帯なのだ。誰も外に出ていなくて当然だろう。
少し先に見えたコンビニの看板に、あたしはふらふらと引き寄せられた。おなじみのそのマークが、まるでオアシスのように輝いて見える。ちょっと涼もう、あとできれば、何か飲み物を。
けれどコンビニの手前で、あたしは足を止めた。店の前にある駐輪スペースに、男の子がしゃがみこんでいる。
小学校低学年くらいの子だろうか。男の子は、自転車を必死にいじっていた。ガチャガチャと力任せに、鍵を差し込んで押したり引いたりしている。思いつめたような顔は真っ赤になっていて、汗がだらだらとつたっていた。
なんだか心配になって、あたしはその子に近寄った。
「何してるの?大丈夫?」
男の子はびくりと肩をすくませて、あたしを振り仰いだ。ぽかん、と口が開いている。
「もし困ってるんなら、お姉さん何か手伝おうか?」
男の子は鍵を握りしめて立ち上がった。途方にくれたように眉を下げ、自転車にちら、と目を向けた。
「……鍵、こわれちゃった。回らないんだ。」
「鍵ね、ちょっと貸して。」
あたしは男の子から鍵を受け取って、自転車に屈みこんだ。
「――ありゃ、これは……。」
思わず、口元が引きつる。鍵の差し込み口は随分錆ついていて、鍵自体もひどく折れ曲がっている。これは、回らないだろう。
「おれの自転車、お下がりなんだ。だから、古くて……。」
男の子は恥ずかしそうにうつむいた。自転車は籠がひしゃげて、褪せた水色の塗料も半分以上剥がれ落ちていた。年代物であるということは、一目でわかる。
「コツがいりそうだなぁ。ちょっとやってみるね。」
あたしは男の子に笑いかけて、気合いを入れるためにぐるんと肩を回した。邪魔な前髪を、コンコルドでぱちんと留めなおす。ひまわりのような、大きなイエローの花がついたクリップだ。夏らしい元気なデザインに一目ぼれして、つい最近買ったやつ。
あたしは鍵を、なんとか差し込んで回そうとした。
けれど、固い。中で何かにつかえているのか、鍵は奥まで入らない。力任せに押し込もうとしても、上下左右に角度を変えてみても、ダメだった。本当にこの自転車の鍵はこれなのか、疑いたくなるくらいだ。
しまいには、あたしの首すじもびっしょりと汗をかいていた。
「――お姉ちゃん、もういいよ。」
一緒にしゃがみこんでいた男の子は、諦めたように首を振った。あたしは手の甲で乱暴に汗を拭い、立ち上がった。
「いや、まだまだ。」
あたしはちょっとムキになっていた。手伝ってあげるつもりが大して役に立てず、このまま引き下がることはできなかった。こんな小さな子にがっかりされるのは、嫌だ。あたしにも、年長者の意地があるらしい。
「ペンチとか要るなぁ、これ。」
呟いて、よし、とひとり頷く。
「きみ、家どこ?」
「え?」
あたしの唐突な質問に、男の子は目を丸くした。けれど「お家はどこ?」と聞かれて素直に答える子なんて、今時の小学生にはいないだろう。男の子も、戸惑ってまごついた。
「な、なんで?」
「鍵開かないから、どのみちこの自転車は動かせないでしょ。これは置いて、一旦きみには家に帰って、道具を取って来てほしいの。」
「自転車おいて、家に戻るの?」
男の子は、ますます目を見開いた。そういう方法があると、初めて気付いたのだろう。今の今まで、自転車が動かなければ帰れないと、悲壮な顔をしていたのだから。
「あたし、ここで待ってるから。お家からペンチとか、工具箱みたいなの、取って来てくれない?」
本気になったあたしの言葉におされ、男の子は神妙な顔で頷いた。
「わかった。すぐに取ってくる。」
言うや、男の子はくるりと身を翻して駆けだした。その背中を見送って、あたしは曲げつかれた首を、一度大きく回した。そろそろ限界だった。
ひとまず、男の子が帰ってくるまで、コンビニで涼んでいよう。
コンビニで買ったペットボトルのお茶は、すぐに半分減ってしまった。汗で流れた分の水分は、これで補給できただろうか。生き返った気分で大きく息をはいた時、男の子が戻ってきた。
「お姉ちゃん、持ってきたよー!」
工具箱を掲げるようにして持ち、男の子は走り寄ってくる。あたしは大きく手を振った。
「うん、ありがとう!」
お疲れ様、と言おうとしたところで、あたしはぎくりと手を止めた。男の子の後ろに、男の人の姿が見えたのだ。
男の子ははぁはぁ息を弾ませ、汗をびっしょりかいている。けれど、もう不安そうな顔はしていなかった。絶大な信頼をこめた瞳で、後ろを振り返る。
「あのねぇ、兄ちゃん連れてきた!兄ちゃんが直してくれるって!」
あたしも、信じられないような思いで男の子のお兄さんを見つめた。
お兄さんは驚いたような表情で、ゆっくり歩いてやって来た。でもすぐに、間違えようのない近さまで来て、男の子に並ぶ。お兄さんは男の子の頭にポンと手を置いて、ふっと苦笑した。
「――うちの弟が、どうもお世話になりました。」
礼儀正しく頭を下げられて、あたしは慌てた。
「い、いえ!あたしは何もしてない……です。」
こちらもぺこりとお辞儀を返して、おそるおそる、目を上げた。
「ていうか……すごい偶然だね。」
お兄さんはぷっと吹き出した。眩しい笑顔。
「本当だよ、藤原さん。」
男の子のお兄さんは、小野くんだった。