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知らないうちに離婚されていた男爵令嬢は実家に帰ることにしました

作者: 星森 永羽
掲載日:2026/03/22




 久しぶりに自由を満喫した。


 平民の商人と政略結婚してから1年。

 私は朝から晩まで働き詰めで、自分の時間などほとんど無かった。


 今日は珍しく夫が「出てきていい」と言ったので、私は1人で近所を散歩してきた。


 貴族令嬢だった頃は、1人で出歩くことなど許されなかった。


 けれど今は違う。


 誰にも指図されず、好きな道を選び、好きな速度で歩く。


 春の風が頬を撫で、金髪のゆるいウェーブを揺らした。


 私はその感触だけで胸が軽くなり、本物の自由を手に入れたような気がして、自然と笑みがこぼれた。



 屋敷が見えてくる。


 白い壁、整えられた庭木、夕陽に照らされて赤く染まる窓枠。


 私は門へ向かい、いつものように軽く会釈して通ろうとした。


 だが、門番が私の前に立ちふさがった。


 彼は無骨な体格の男で、普段は淡々と職務をこなすだけの人物だ。


 そんな彼が、どこか言いづらそうに口を開いた。


「奥様……いえ、リューデンハイム男爵令嬢。

 本日より、ここより先は立ち入れません」


 私は足を止めた。

 意味が分からず、思わず眉を寄せる。


「え? 改修工事?」


 門番は首を横に振った。

 夕陽が彼の兜の金具を鈍く光らせる。


「違います。

 もう離婚したので、入れないように言われました。

 これが離縁証明書です」


 差し出された羊皮紙を受け取る。


 指先に伝わる質感、印章の押し方、署名──どれも本物に見える。


 胸の奥が冷たくなったが、私は深呼吸して声を整えた。


「意味が分からないんだけど……どういうこと?」


 門番は困ったように眉を下げた。


「いえ、自分にも事情は分かりません。

 ともかく入れるな、としか」


「そう。あなたに聞いても仕方ないわね。

 これが本物か確かめてくるわ」


 私は紙を握りしめ、踵を返した。


 夕暮れの光が屋敷の壁を赤く染めている。


 その美しさが、今はひどく遠いものに感じられた。





 実家の応接室に入ると、離縁証明書を机に置いた。


 白髪が交じり始めた父の横顔が、怒りで鋭くなる。


「そんな馬鹿な話あるか!」


 私は深く息を吸い、落ち着いて答えた。


「あるのよ。役所に行って確かめたわ。

 念のために筆記鑑定も依頼したけど、何1つ不備がなかったのよ」


 幼馴染みのラウレンツが、眉を寄せた。

 深い青の瞳が真剣に私を見つめる。


「これは専門家に依頼した方がいい」


 騎士の彼が、騎士団に持っていかないということは、そこでは処理しきれない件が混ざってるのだ。


 役場印の偽造は、大物が絡んでるのだろう。


 おとなしく専門家を呼んだ。




 弁護士は落ち着いた動作で書類を広げ、私たちの前に座る。


「リューデンハイム男爵令嬢のサインが本物なら、サインしてある紙に離婚届を印刷したのでしょう」


 父が眉間に深い皺を刻む。


「しかし、役所で配布している届出は、全て偽造防止の印が押されているはずだ」


「それも精巧な偽物を作ったのでしょう。

 役場が偽装を見分けられないのであれば、裁判で離婚を無効にするのは難しいです」


 私は思わず身を乗り出した。


「待って。別に離婚はいいのよ。でも、私物や持参金を返して貰わないと」


 弁護士は頷きつつ、少し言いにくそうに続けた。


「そうですね……ただ、それも偽装契約書においてリューデンハイム男爵令嬢の有責となっている可能性があります。

 心当たりは?」


「えっと、そうね……先日『新しいペンを開発したから、書き心地を確かめて欲しい』と言われて、紙の端に名前を書かされたわ」


 あのときの光景が脳裏に浮かぶ。


 コンラートは茶髪を整え、いつもの笑みを浮かべながら私に紙を差し出した。


 ──「君の名字が自分と同じだと、夫婦なんだと実感できて幸せを感じる」

 そう言われて、私は油断した。


 サインが紙の端だったのは「紙は高価だから余白は切って再利用する」って言われたから。


 胸が冷たくなる。


「2枚書いたの。材質の違う紙。

 インクの伸びが見たいからって」


 その瞬間、父が机を叩いた。

 重い音が部屋に響き、テーブルが軋む。


「あの野郎! 『大事にする』と懇願するから嫁がせたのに!」


「やはり、先にサインを書かせた上で離婚届や誓約書を偽装したと思われます」


 弁護士の言葉に、ラウレンツが険しい表情で言った。


「1枚は離婚届だけど、もう1枚が何に使われたか確認しないとな。

 エヴェリナの名前で借金でもされたら困る」


 父は深く頷き、低い声で言った。


「そうだな。厄介なのは委任状に使われて、犯罪や多額の借金、名誉毀損に利用されることだ」


 その言葉に、背筋が寒くなった。







 事務所の空気が重い。

 昼間だというのに、窓から差し込む光さえ薄暗く感じる。


 俺は机に肘をつき、乱れた髪をかき上げた。

 額に汗が滲み、指先が落ち着きなく机を叩いていた。


 そこへ、使用人が青ざめた顔で戻ってきた。


「やはり、引き受けてくれる弁護士は見つかりませんでした」


 俺は椅子から転げ落ちそうになりながら、呆然と呟いた。


「そんな……」


 どうしてだ?

 どうして誰も引き受けない。

 俺の計画は完璧だったはずだ。


 元妻エヴェリナに、2枚サインを書かせた。


 1枚は離婚届に偽装して役所に提出し、すでに受理されている。

 もう1枚は──


「離婚原因は妻の不貞である。

 よって持参金、私物、財産分与、労働賃金は慰謝料の一部として没収する。

 さらにベッカー商会に悪影響を及ぼしたため、追加の慰謝料を支払う」


 そんな内容の契約書に仕立てた。


 もちろん、エヴェリナの実家がこれを払うわけがない。


 金が主目的じゃない。


 本当の狙いは、世間に広めることだ。

 “元妻が不倫して結婚が壊れた”と。


 我がベッカー商会は、そこそこの規模だった。

 貴族の顧客を開拓するために多額の支度金を払い、男爵の娘であるエヴェリナを娶った。


 その結果、貴族の客は増え、商会は一気に格を上げた。


 だからこそ、離婚の原因が俺にあるなんて絶対に認められない。


 “妻の不貞”として世間に広めなければ、せっかく増えた貴族の顧客が離れてしまう。


 結婚した意味がなくなる。


 だから裁判に持ち込み、堂々と不貞を主張し、噂を広める必要があった。

 なのに──


 使用人が戻ってきたとき、その顔色で結果は分かった。


「貴族の弁護士は門前払い、平民の弁護士は『平民が貴族を訴えるなんて信じられない』と頭から拒否しています。

 奥様が平民のうちに不貞の裁判をしていれば、勝てたかもしれないですね。

 でも、もう遅いですよ。離婚届、出してしまったんですから」


 俺は思わず机を叩いた。


「……くそっ」


 分かっている。


 貴族の顧客は噂に敏感だ。

 “男爵令嬢を追い出した平民商人”なんて話が広まれば、信用は一瞬で消える。


 かといって、離婚届はもう取り消せない。

 役所が受理した以上、どうにもならない。


 焦りで頭が熱くなる。

 だが、その時ふと閃いた。


「そうだ。今夜のパーティーは貴族が多い。

 そこで離婚理由を吹聴しよう」


 俺は立ち上がり、外套を掴んだ。

 こうなったら、裁判が無理でも“噂”で押し切るしかない。




 平民の愛人──ゾネを連れてパーティーへ向かう。


 同じ25歳の彼女は明るい茶髪を派手に巻き、露出の多いドレスを着ていた。

 場違いだが、今の俺にはそんなことを気にする余裕はない。


「本当に不倫されたって言い回るの?」


 馬車の中でゾネが、不安そうに腕を絡めてくる。

 エヴェリナは美人だったが、愛嬌はなかった。

 ゾネは美人ではないが、可愛らしい。


「そうしないと、うちは潰れてしまうんだよ。

 嫌だろ、貧乏になったら」


「そうだけど……あんまり貴族に喧嘩売らない方がいいんじゃない?」


「はあ? 俺はお前と早く結婚するために、あいつを追い出したんだぞ。

 あいつとの結婚は父の遺言で決まっていたから、1年は我慢したんだ。もう、いいだろう。

 それに、貴族と言っても男爵家じゃないか。

 ほとんど平民みたいなものだ」


 ゾネは唇を尖らせ、視線を泳がせた。


「うーん……」


 彼女の不安は分かる。

 だが、俺にはもう後がない。


 今夜、俺は“真実”を作らなければならない。

 エヴェリナが不貞を働いた──その物語を。




 会場に入った瞬間、俺は胸を張った。


 ゾネは、俺の腕に絡みついている。


 そこへ、ログナサ子爵夫人が優雅に近づいてきた。

 白い手袋に宝石が光り、いかにも上流階級のオーラをまとっている。


「あら、ベッカー卿。ごきげんよう。

 先日、勧めていただいた日傘、良かったわ」


 俺は営業用の笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。


「ログナサ子爵夫人、ありがとうございます。

 また、いつでもご用命ください」


 夫人は微笑んだまま、ふと周囲を見回した。


「ところでエヴェリナ夫人は?」


 来た。

 俺は胸を張り、わざとらしくため息をついた。


「彼女とは離婚しました。不貞されたのです」


 夫人の表情が一瞬で固まった。

 息を飲む音が聞こえる。


 よし、効いている。


「……そちらのお連れ様は?」


 夫人の視線がゾネに向く。


 ゾネは緊張したように微笑んだが、夫人の目は冷たい。


「未来の妻です。

 元々恋仲だったのですが、結婚を機に別れました。

 そして今回、私が傷ついていることを聞き及んで励まそうと駆けつけてくれたのです。

 彼女は、いつか私が独り身になるのを待ってくれていたそうです。

 こんな健気な女性を妻にしないわけにいきません」


 俺は誇らしげに言った。

 だが、夫人の顔色はみるみる変わっていく。


「……まさか平民?」


「そうです。それが何か」


 夫人は扇子を閉じ、冷たい声で言い放った。


「悪いけど、今後のお付き合いはできないわ。失礼」


 そのまま踵を返し、去っていった。


 俺は呆然と立ち尽くした。


「あ……」


 胸がざわつく。

 なぜだ。

 なぜ、こんな反応をされる?


 俺はただ、“真実”を伝えただけなのに。




 その後、誰に話しかけても同じだった。


 俺が「エヴェリナに不貞された」と言えば、扇子で口元を隠し、冷たい目で言うのだ。


「まあ……そうでしたの。

 申し訳ありませんが、今後は……」


 そして去っていく。


 何度、繰り返しても同じ。


 気づけば、会場の隅に追いやられていた。


 ゾネの派手なドレスと濃い化粧が、余計に周囲の視線を刺す。


 おかしい。

 こんなはずじゃない。


 これは……エヴェリナが裏で手を回したに違いない……!


 あいつが父親に泣きついて、俺を悪者にしたんだ!


 腸が煮え立つように熱くなる。

 俺は歯を食いしばり、拳を握った。


「ねぇ……もう帰らない?

 なんか、みんな冷たいし……」


 ゾネが不安そうに袖を引く。


「黙ってろ。

 これは全部エヴェリナの仕業だ。

 あいつが俺を貶めようとして──」


 その時だった。

 会場の入り口がざわついた。


 視線が一斉に、そちらへ向く。

 俺もつられて顔を上げた。


 そこにいたのは──


 ドレスアップしたエヴェリナだった。


 落ち着いた金髪がゆるく波打ち、白い肌がシャンデリアの光を受けて淡く輝いている。


 青灰色の瞳は静かで、どこか冷たく、そして美しい。


 姿勢は完璧で、歩くだけで“育ちの良さ”が分かる。


 まるで、ここが自分の居場所であるかのように堂々としていた。


 隣には軍服姿のラウレンツ・シュタール。


 結婚式で"幼馴染みだ"と紹介された伯爵令息。


 俺の3歳下で、エヴェリナの2歳上。


 銀髪に、青の瞳。精悍な面立ち。


 彼は周囲に軽く会釈しながら、エヴェリナの手を自然にエスコートしていた。


 2人が並んで歩くだけで、会場の空気が変わる。


 貴族たちの間から、ひそひそ声が漏れた。


「まあ……エヴェリナ嬢、今日は一段と美しいわね」

「隣の方は……軍のラウレンツ殿では?」

「お似合いだわ……」


 俺は息を呑んだ。

 胸がざわつき、嫌な汗が背中を伝う。


 なぜだ。

 なぜ、あいつは、あんなに堂々としている……?


 もう我慢できなかった。

 気づけば叫んでいた。


「おい! エヴェリナ! 卑怯だぞ!

 お前が不倫したせいで離婚したのに、裏で俺の悪評ばらまいたな!

 お前のせいで弁護士は誰も俺についてくれないし、顧客もどんどん離れて行ってる! 賠償金を請求す──」


 言い終わる前に、目の前で火花が散った。


 ……何が起きたのか分からない。


 気づけば床に倒れていて、頬が熱い。


 殴られたのだと理解するまで、数秒かかった。


 え……殴られた? 俺が? 女に?


 信じられなかった。

 俺は顔を押さえながら、上半身を起こし怒鳴った。


「な、何するんだ!

 俺は、お前を養ってやってた元亭主だぞ!」


 エヴェリナは腕を組み、冷たい目で俺を見下ろしていた。


 その姿は、俺が知っている“従順な妻”ではなかった。


「話しかけていいと許可してない」


 その一言で、周囲の空気が凍りついた。


 貴族社会の礼儀──


 身分が上の相手に話しかけるには、頭を下げて許しを得てから挨拶する。


 俺は、それを完全に無視していた。


 次の瞬間、衛兵たちが俺を囲み、剣を向けてきた。

 鋼の刃が光り、背筋が冷たくなる。


「不敬罪と名誉毀損罪の現行犯です。

 どうしますか?」


 衛兵がエヴェリナに指示を仰ぐ。

 彼女は、ハッキリと言った。


「そうね。裁判の上で処刑を希望します」


「はあ?! 処刑?! バカな!

 こっちは証拠がある! 侮辱ではない!」


 俺は必死に叫んだが、衛兵たちは取り合わない。

 腕を掴まれ、強引に引っ張られる。


「待て! 離せ! 俺は被害者だ! 俺は──!」


 叫び声は会場に虚しく響くだけだった。





 裁判所の空気は冷たかった。


 俺とゾネは、形だけでヤル気のない弁護士をつけられ出廷している。


 周囲には貴族の傍聴人が並び、俺たちに冷ややかな視線を向けていた。


 裁判官は厳しい目つきの男で、黒い法衣をまとい、まるで石像のように動かない。


「被告コンラート・ベッカーは、名誉毀損罪、侮辱罪、不敬罪に問われている」


 低い声が響く。


 俺は慌てて声を張った。


「被害の告発は、名誉毀損になりません!

 私は不貞されました! これが証拠です!」


 従者が例の契約書を裁判官に差し出す。


 俺は胸を張った。


 これさえあれば勝てる。

 そう信じていた。


 だが──


「ここには離婚の慰謝料、持参金、財産分与について書いてある」


「その通りです! あの女は不貞を認め、自らサインしました!」


 俺が言い切った瞬間、裁判官は書類を軽く持ち上げ、冷たく言い放った。


「この契約書は、この場において何の意味もない」


「え?」


 頭が真っ白になった。


「この紙には当主印がない。

 また離婚後の当人の処遇や、両家が被る損害もしくは利益についてもない。

 これは契約書でなく落書きだ」


 傍聴席から笑いが起きた。

 俺は呆然と呟く。


「は? 意味がわからない……」


 裁判官はため息をつき、まるで子供に教えるように言った。


「貴族の婚姻は家と家の契約である。

 よって、離縁に関する契約書には当主印が必須。

 当主印のない書類は、いかなる理由があろうと無効だ」


 当主印……?


 ……そう言えば、婚姻契約書にあったかもしれない。


 単なる承認のしるしかと……。



 ゾネが隣で震えている。


 俺は必死だった。


 このままでは本当に終わる。

 だから、食い下がるしかなかった。


「そんな……意味ないなんて……。

 だけど慰謝料の請求はできなくても、不貞の証拠にはなるはずです!」


 裁判官は眉ひとつ動かさず、冷たく言った。


「なぜ?」


「だから、不貞を認めたからサインしたわけで!」


「サインしたから何だ?」


「だから名誉毀損と侮辱罪にならないでしょう! 被害の告発だから!」


 俺が言い切った瞬間、傍聴席から再び笑いが起きた。

 貴族たちの嘲笑が、耳に刺さる。


 裁判官は淡々と告げた。


「それは平民同士で成立する理屈だ。

 平民が貴族に嫁いで貰ったのに、不貞くらいで訴えるなどおこがましい。

 まして告発するなど、あってはならない」


 傍聴席の貴族たちが一斉に頷く。


「その通りだ」

「身分をわきまえぬにも程がある」

「体面が命の貴族相手に何を」


 胸が締め付けられる。

 俺は思わず叫んだ。


「そんな……不公平だ!」


 その瞬間、会場がどっと笑いに包まれた。


「不公平だと?」

「平民が貴族法に文句を?」

「身の程知らずめ」


 裁判官は冷たく言い放つ。


「不公平なのが階級社会だ。

 不服なら民主主義の国へ行け」


 俺は頭を抱えた。

 どうしてだ。

 どうして何も通じない。


 裁判官が視線をエヴェリナへ向ける。


「リューデンハイム男爵令嬢。

 このまま判決に進んで良いか?」


 エヴェリナは静かに立ち上がった。

 その姿は、まるで“裁く側”の人間だった。


「いくつか言いたいことがあります。

 まず、私が不貞した事実はありません。

 不貞していたのは向こうです。相手は、その女です」


 エヴェリナがゾネを指差した瞬間、傍聴席からブーイングが起きた。


「平民の女か」

「品がない」

「なるほど、そういうことか」


 ゾネは震え、俺の袖を掴んだ。


 エヴェリナは続けた。


「それと、サインしたという書面は偽装です」


 裁判官が頷く。


「説明を」


 エヴェリナは落ち着いた声で、あの日の出来事──


 “新しいペンの書き心地を試してほしい”と言われ、紙の端に名前を書かされたこと。

 “余白は切って再利用する”と言われたこと。

 材質の違う紙に2枚書かされたこと。


 それらを淡々と語った。


 俺の背中を冷たい汗が伝う。


 やめろ……言うな……!


 だが、エヴェリナの声は止まらない。

 そのたびに、傍聴席の貴族たちの視線が俺に突き刺さる。


 俺はただ、震えるしかなかった。


 裁判官は静かに、しかし冷徹に言い放った。


「証言内容を認める。

 判決──侮辱罪、不敬罪、名誉毀損罪、契約書偽造及び詐欺未遂、婚姻中の不貞行為。

 これらの罪により、平民コンラート・ベッカーは死刑。

 連れの女も共犯により同罰」


 その瞬間、俺の心臓が止まった気がした。


「お待ちください! 文章偽造は彼女の証言だけで、何の証拠もないではないですか!」


 必死に叫ぶ俺を、裁判官は冷たい目で見下ろした。


「平民が用意したいくつもの証拠より、貴族の証言の方が証拠能力が上だ」


 貴族の証言は“証拠”として最高位。

 平民の証拠は“参考程度”。

 婚姻契約は家と家の契約。

 当主印がなければ無効。

 名誉は貴族の命。

 平民が貴族を公に非難すること自体が罪。


 そんな理不尽な世界が、俺の目の前に広がっていた。


「そんな……しかし、そうだ!」


 俺は閃いた。

 これなら逆転できる──そう思った。


「私は離婚届も偽装しました! だから無効です! つまり彼女も平民です!」


 傍聴席がざわつく。

 裁判官は興味深そうに眉を上げた。


「ほう。それは、どのように偽装したんだ?」


 俺は勢いのまま説明した。


 離婚届と同じ紙を用意してサインさせ、闇ギルドで偽認め印を借りたことを。


 裁判官の表情が変わっていく。

 傍聴席の貴族たちも、ざわ……と低く騒ぎ始める。


 あれ……? なんか……空気がおかしい……。


 俺は続きを言おうとしたが、裁判官が手を上げて制した。


 その目は、先ほどまでの冷静さとは違う。

 明らかに“犯罪者を見る目”だった。


 裁判官はエヴェリナへ視線を向けた。


「リューデンハイム男爵令嬢、こう言っているが」


 エヴェリナは静かに頷いた。


「確かに離婚届は偽造です」


 その瞬間、傍聴席がざわついた。

 俺は思わず身を乗り出す。


 よし……これで……!


 だが、裁判官の口から出た言葉は、俺の期待とは真逆だった。


「判決──先程述べた罪に加え、公文書偽造を追加」


 会場から拍手が起きた。

 俺は耳を疑った。


「な、何で? 離婚は無効だから、エヴェリナの証言は効力が低いだろう!」


 離婚していない──ならば、平民の俺の妻であるエヴェリナは平民だ。


 裁判官は言い放つ。


「婚姻関係が破綻している場合、妻とは見なされない。

 よって判決は覆らない」


 頭が真っ白になった。


「ま、待ってくれ!

 エヴェリナ! 助けてくれ!

 証言を変えてくれ! 償うから!」


 俺は必死に叫んだ。

 ゾネも隣で泣き叫ぶ。


「いやぁ! 助けて! 死刑なんて嫌ぁ!」


 会場の視線が、エヴェリナに集中する。

 彼女は俺たちを──完全に無視した。


「閉廷を」


 その一言で、裁判官が木槌を叩く。


「これにて閉廷!」


 俺とゾネは、その場に崩れ落ちた。

 足が震え、立ち上がれない。


 終わった……本当に……終わった……。


 ラウレンツが、エヴェリナの肩を抱くのが見えた。


「終わったな」


 エヴェリナは肩の力を抜き、微笑んだ。


「スッキリさっぱりしたわ」


「そうか。じゃあ、お祝いにレストランに行こうか?

 それとも婚姻届出しに行く?

 近くにいすぎて恋心を自覚するのが遅くなったせいで、遠回りしてしまったけど、これからも一緒に生きていきたい」


 ラウレンツが軽く言う。

 エヴェリナは首を傾げた。


「嬉しい、私も同じ気持ちよ。

 入籍するのはいいけど、私の戸籍って、今どうなってるのかしら?」


「離婚取り消しになっても、あいつ死刑だから、どちらにせよフリーだ」


 エヴェリナは、くすりと笑った。


「ふふふ。大雑把ね。

 まあいいわ。行きましょう」


 2人は腕を組み、にこやかに裁判所を後にした。


 俺に対して1ミリの憐憫すらない。

 一瞥もしない。


 出掛けるついでに裁判所に寄ったかのような軽さ。


 彼らは初めから、こうなるとわかってたのだ。


 ああ、男爵が平民と変わらないなどと安易に考えたせいで……。





□完結□





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― 新着の感想 ―
契約を理解していない商人とは、今までどうやって生きてきたんだろうか?
正しい判決の筈なのですが、現代日本人の私から見たら少しホラー。でも階級社会だと、こうなりますよね。それを分かってない元旦那は、離婚してなくてもその内やらかした気がします。
うーん、元夫が商人にしては頭が悪すぎるような……。自分の住んでる国の司法もろくに理解してないのにまた無茶な真似したなぁ。まぁ、頭が悪いからなんだろうけど。
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