4.ひとりの時間、ふとした疲れ
部屋に戻って、カバンを置く。
静まり返った空間が、今日一日の余韻を際立たせた。
湊くんの心の寂しさに触れて、私に話してくれて嬉しかった。
……なのに、なぜだろう。
胸の奥に、しん……と冷たい水が流れこんできたみたいで。
あの笑顔の裏側にある、ぽっかり空いた空白が、私の心にも広がってしまった気がした。
「……私、疲れてるのかな」
ぽつりとこぼした言葉が、部屋の中で淡く消えていく。
今までだって、人の心が動く瞬間は感じ取れていた。
でも、こんなふうに、自分の気持ちまで持っていかれることなんてなかったのに。
まるで――湊くんの“悲しみ”が、私の中に静かに根を張っていくみたいだった。
リビングに降りて、ふと、父さんの彼岸花の絵を見上げる。
真紅の花々が風に揺れるように咲き乱れている――はずだったのに、そこに、見覚えのない何かが混ざっていた。
光の加減かもしれない。
……でも、どうしても目を離せなかった。
「侑? どうかしたの?」
背後から、母さんの優しい声がした。
「母さん……この絵、いつもと違う気がするの。なんだか、何かが描き加えられてるみたいで……」
母さんは少し驚いたように絵を見上げたあと、静かに微笑んだ。
「気づいたのね。この絵はね、描いた人の“心”と、見る人の“心”によって少しずつ変わるのよ」
「……そんなの、あるの?」
「あるのよ、不思議だけど。お父さんもね、『この絵は、心を映す鏡みたいなものだ』って言ってたわ」
私は目を細めて、再び絵を見つめた。
風に揺れる花の奥に、小さな影のようなものがふっと現れたのを感じた。
……泣いているような、小さな男の子の姿。
「母さん、私……最近ちょっと変なの。人の気持ちに触れるたび、自分の心までふらふらしてしまうの。私、何かおかしいのかな……?」
そう尋ねた私に、母さんはそっと肩を抱いて言った。
「侑、それは『おかしい』んじゃなくて、きっと『優しすぎる』のよ。心が、誰かの痛みを受け取れるほどに、澄んでいるってこと」
「……優しすぎる、なんて言われたの初めて」
「でも、無理はしないでね。人の気持ちを感じ取ることって、時にとても疲れるから。ちゃんと、自分の気持ちも大事にするのよ」
母さんの言葉に、胸の奥がすこしだけ、あたたかくなる。
湊くんの中の悲しみを、私が背負うんじゃなくて「知ってあげる」だけでも、何か意味があるのかもしれないって、そんな気がした。
その夜、私は夢を見た。
柔らかな光が差し込む、霞んだ空間。
どこか懐かしくて、でも知らない場所。
誰かのすすり泣く声が聞こえる。
「ぐすっ……とうちゃん、かあちゃん……にいちゃん、みんな、どこにいったの……?」
振り向くと、そこにいたのは、小さな湊くんだった。
膝を抱えて、背中を丸めて、声を殺して泣いていた。
見ていられなくて、私はそっとその肩に触れた。
――なのに、私の手は彼に届かない。
触れようとしても、指がすり抜けてしまう。
(……夢なんだ)
そう思った瞬間、湊くんが顔をあげた。
涙で濡れたその瞳が、まっすぐに私を見た。
「……さみしいよ」
そう、ぽつりとこぼした彼の声が、まるで私の胸に直接届いたようだった。
言葉が出ないまま、私はただそこに立ち尽くしていた。
――気づいたら、目が覚めていた。
カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。
でも、胸の奥はまだ夢の中に取り残されたまま。
(あれは、ただの夢……? それとも――)
私は布団の中で、そっと胸に手を当てた。
どくん、どくん、と心臓の音だけが、静かに響いていた。




