2.不思議な人
朝の空気は少しひんやりしていて、風が制服の裾を揺らす。
通い慣れた通学路の途中にある、少し急な石段。
私は、ふと頭の中に浮かんだ父さんの彼岸花の絵のことを考えていて、足元を見ていなかった。
「――わっ……!」
次の瞬間、バランスを崩して前につんのめる。
けれど、背中にふわりと腕が伸びて、体が倒れきる前に、誰かに支えられていた。
「危ないってばー! あー、間に合った!」
声は男の子のものだった。
私より少し背が高くて、髪は少し跳ねていて、目がまっすぐすぎるくらいまっすぐ。
でも、どこか疲れているようにも見えた。
「……ありがと」
私がそう言うと、彼はにかっと笑った。
「うん、助けたからには名乗らなきゃね! オレ、神谷 湊! 今日からこの中学に転校してきたんだ!」
「あ、へえ……」
「で、君の名前は?」
「……一ノ瀬 侑」
「へー。なんか、落ち着いた名前! 本人もそんな感じするけど、ちょっと考えごとしすぎじゃない?」
そう言って、彼はまた笑った。
私は、なんとなく感じた。
この人は、少し変わってる。
でも、背中に残るあたたかさと、あのまっすぐな目の奥に、なにか見えた気がした。
――まるで、時間の流れがほんの少しだけ、変わったみたいだった。
朝の教室。
担任の先生が転校生を紹介した。
――!?
朝、助けてくれた……神谷 湊くん……だっけ?
「改めてよろしく!」
湊くんはにかっと笑って私の方を見た。
「……よろしく……お願いします……」
湊くんが私の顔を覗き込んで口を開く。
「一ノ瀬さんさ、なんか不思議な目、してるよな」
「よく言われる」
つられて私もつい笑ってしまった。
教室の窓から差し込む午後の光が、湊くんの横顔を照らしていた。
さっきまでの笑顔が、どこか遠くを見ているように薄れていく。
私はなんとなく、それが本当の湊くんのような気がした。
「……湊くん」
声をかけようとしたけど、やめた。
私が踏み込んでいいものか、わからなかった。
それでも胸の奥に、小さな痛みのような共鳴があった。
彼の心のどこかに、泣いている誰かがいる気がして。
放課後。
ほとんどの生徒が帰った教室に、私と湊くんだけが残っていた。
窓の外では夕陽が、校庭をオレンジ色に染めていた。
「……まだ帰らないの?」
私が問いかけると、湊くんはぽん、と机に頬杖をついて笑った。
「うん。なんとなく……この教室、落ち着くかも。騒がしいのも嫌いじゃないけど、こういう時間も好き」
「……へぇ。意外」
「なんで?」
「もっと、じっとしてられないタイプかと思った」
「それ、当たってるかも。けどさ、今日はちょっと、ここにいたくなった」
湊くんは笑いながらそう言ったけど、その目は少し寂しそうだった。
どこか、遠くを見るようなまなざし。
――やっぱり、さっき感じたのは気のせいじゃなかった。
「湊くん……」
名前を呼んだだけで、胸の奥がきゅっとなる。
「ん?」
「……なんでもない」
言おうとして、言えなかった。
何を言えばいいのかもわからなくて、言葉に詰まる。
ただ、今この時間が少しでも穏やかであればいいと思った。
そのとき、湊くんがふと私の方を見た。
「……やっぱさ、一ノ瀬さん、ちょっと変わってる」
「またそれ?」
「うん。でも、悪くないよ。なんか……落ち着く」
そう言って笑う湊くんの声が、ほんの少し震えていた気がした。
――湊くんの心の中には、言葉にできない何かがある。私はそう感じた。




