11.止まった時間が、動き出す
朝。制服のボタンを留めながら、私はふと、鏡の中の自分と目を合わせた。目元が、ほんの少し赤い。
昨夜、夢の中で泣いていたせいだ。
――でも、それだけじゃない。
鏡に映る自分が、少しだけ違って見えた。
何かが、ほんの少し変わった気がした。
湊くんの心の深い場所に、私は確かに触れた。
夢の中――でも、きっと、それは夢じゃない。
「……行ってきます」
鞄を肩にかけて家を出る。
朝の空は、雲ひとつなく澄んでいて、まぶしいほどのオレンジ色の光が街を照らしていた。
校門の前で手を振る声が聞こえる。
「おはよー、侑!」
柚葉が笑顔で駆けてくる。
彼女の明るさは、朝の光と同じくらい優しくて、あたたかい。
「おはよう」
「なんかさ、今日の侑、ちょっと雰囲気違うよ?」
「そう?」
「うん。目がね、いつもより……芯がある。やさしいけど、なんか決意してる感じ」
「決意って……なんだそれ」
思わず笑ってしまったけれど、心の奥では、どこか納得している自分がいた。
やっぱり、少しだけ変わったのかもしれない。
放課後。教室で鞄の中を整理していると、ふいに声がかかる。
「侑ちゃん、今日さ……ちょっと散歩しない?」
見上げると、湊くんが立っていた。
少し遠慮がちに、でもどこか期待するような顔で。
「……うん、いいよ」
校門を出ると、夕暮れの風が秋の匂いを運んでくる。
少し肌寒いけれど、心はやわらかく満たされていた。
歩幅が自然と合って、私たちは目的地もないまま、静かに歩き出す。
「……最近、夢をよく見るんだ」
ぽつりと湊くんが言った。
「赤い花に囲まれた場所で……思い出したい何かがあるのに、届かない。手が届く寸前で、いつも目が覚めるんだ」
私は、そっと歩みを止める。
彼の横顔は、夕陽に照らされて、ほんの少し寂しげだった。
「ねぇ、昔ね。柚葉と一緒に、古い時計屋さんに行ったことがあるの。ぜんまい仕掛けの懐中時計とか、重たい柱時計ばかり置いてあって、なんだか時間が止まったみたいな空気の場所だった」
「時計屋?」
「うん。変わってるでしょ。でも、不思議と落ち着いたんだ」
湊くんはしばらく黙っていた後、重い口を開く。
「……時計か。オレの中の記憶も、時間も、止まったままだもんな」
「でも、止まった時計でも、また動き出すことってあるよ」
私の言葉に、湊くんが目を見開いた。
驚いたような、その目の奥が、少しだけ揺れた。
「……そう、かもな」
それだけ言って、彼はふっと微笑んだ。
とても小さな、でも確かに「今」の中にある笑顔だった。
その夜。私はノートを開いた。夢のこと。湊くんの言葉。彼の微笑み。
一つひとつ、心に刻みつけるように、静かに書き留めていく。
『止まった時間が、また動き出すなら。そのそばで、それを見ていたい。手が届かなくても、届かなくたって、手を伸ばしたい』
文字にすると、不思議と気持ちが輪郭を持って浮かび上がってくる。
明日も、彼に会える。
少しずつ、きっと少しずつ。
そう思いながら、私はページを閉じた。
そして、灯りを消す。
暗がりの中で、胸の奥に、小さく温かい灯がともっているのを感じながら――私はそっと、目を閉じた。




