【短編小説】最終列車
「ここ、いいですか」
車窓に向けていた顔を声のする方に向けると、狭い通路にひとりの老人が立っていた。
歳の頃は80前後と言ったところだろう。まだらに生えた髪は黒い部分が残っている。
「どうぞ」
俺は通路側に置いていた荷物を座席の下に押し込んだ。
別に座られない為にこうしていた訳じゃないが、一人旅もここで終わりかと思うと寝たフリしておくべきだったと後悔しないでもない。
老人は席に着くなり鞄からカップ酒を取り出して、カパンと言う小さな音と共に蓋を開けた。
そして心底嬉しそうな顔で口を寄せると、ゆっくりと持ち上げて、小さく、本当にごく小さく喉を動かして、小さな小さな一口を喜ばしそうに飲んだ。
「ふ」
ため息ともと吐息とも取れない息を漏らすと、胸を膨らませながら大きく息を吸って、長くゆっくりと吐き出した。
俺が見つめているのに気づいた老人は照れ臭そうに頭をさげた。
「あぁ、すみません、騒がしくて」
「いえ、大丈夫ですよ」
「いえね、まさか乗れると思っていなかったので」
老人はしみじみとした顔だった。
「そうですね、ぼくもこれに乗れたのは意外です」
「まさかまさか、ですよねぇ。それでつい、嬉しくなっちゃって」
「わかりますよ。ぼくもさっきまで煙草吸ってましたから」
老人は逡巡するとハッとした顔になり
「あぁ、そうするとお兄さんは肺ですか」
と訊いた。
「そんなそことろです」
「私はね、もうお判りでしょうけど、肝臓でして」
老人は恥ずかしそうに言った。
恐らく、なかなか止められずにいたんだろう。そして止めた頃には手遅れだった。
「そんな気はしてました」
「はは。まぁ、ここまで来たんだし、良いじゃないかって、思いますよね」
老人は窓の外に目をやった。
電車は知らない場所を走っている。もう、どこから来たかも曖昧になりつつある。
列車が大きく揺れて傾いた。
どうやら大きなカーブを曲がっているらしい。
「揺れますね」
「そうですねぇ」
ずっと無言なのもな、と思い気を使って話しかけてしまうが、迷惑じゃないだろうか。
いや、隣に座ってきたのはこの老人なのだ。別になんだっていいだろう。もう何かを気にする必要は無いのだ。
老人はちびちびとカップ酒を舐めながら、次第に赤らんできた顔で俺に訊いた。
「しかし、お兄さんお若いですね。失礼ですが御いくつですか?」
「僕は……えぇと確か40には、ならなくて39だったかな」
大人になると自分が幾つかなんて意識しなくなる。
「いや、え、それはそれは」
孫でも思い出したのか、老人は少し怯んだ顔をしたので、俺は笑ってフォローした。
「まぁ体質みたいなんで、仕方ないですよ。家系でもあるんで。父親も祖父もそうでしたし、まぁ薄々そうなるのは。それが早いか遅いかってだけです」
そうですか、そうですかと頷いた老人は
「いやぁ、わたしなんて大往生みたいなものですけど、お兄さんは残念です」
そう言ってまた、カップ酒を舐めた。
「ありがとうございます」
頭を下げた俺が居た堪れなくなったのか、老人はカップ酒を一気に煽ると小さな声で「いやはや、お若いのに可哀そうな……」とブツブツ繰り返し、何杯目かのカップ酒を開ける事にはすっかり赤くなった顔を撫でながら眠りに落ちていった。
列車は相変わらず巨大なカーブを曲がっている。
もしかしたら曲がり続けているのかも知れない。昇っているのか、下っているのかは分からない。
窓の外は暗く、時折り見える光は近いのか遠いのかも分からない。この電車がどこに行くのかも、まだ分からない。
だけど俺たちが帰りの電車に乗る事がないことは分かっていた。




