第9話 悲劇のヒロイン
神様の椅子は、今日も空だった。
湯気だけが、律儀に働いている。
「ミカ、次の異常は?」
「承認欲求の派生型。自称“悲劇の主人公”です。」
「“私かわいそう”型とでも言うのか?」
「今回は少し特殊です。能力者が自己の記憶そのものも上書きしています。」
「……つまり、自分で自分を脚本して
世界を巻き込んでるってことか。」
白井はため息をついた。
「神がいないと、みんな物語を欲しがるな。」
現場は、街外れのカフェ。
薄暗い照明、古いピアノ、テーブルには残りかけのケーキ。
中央の席で、ひとりの女が震えていた。
「夫に裏切られたの……」
「違う、戦争で失ったの……」
「いいえ、最初からそんな人いなかったのよ……」
言葉が支離滅裂だった。
だが、周囲の客はみんな泣いていた。
誰も疑っていない。
言葉が変わるたびに、世界の“設定”が微かに修正されていく。
「チート確認。悲劇上書》
自己の発言を真実として上書き。周囲の世界も強制的に同調。」
「世界変容か……タチが悪いな。」
女は泣きながら言った。
「みんな、私の痛みを分かってくれるの……!
世界中が私を見て、かわいそうって思ってくれる……!」
白井はカウンターの隅に腰を下ろし、静かに言った。
「それ、はたから見たら悲劇じゃなくて喜劇だよ。」
「あなたも、私の悲しみを理解できるでしょ?」
「悪い、おじさんにはそういう重いのきついんだ。」
「年齢なんて関係ないわ?」
白井は少し笑った。
「なるほどな。でも、歳とってくるとわかるのさ。
そういうのって黒歴史になるんだぜ?」
女の瞳が光を放つ。
「くっ、、、なら、あなたも哀れませてあげる!」
空気が歪んだ。
周囲の景色が滲み、世界がゆっくり書き換えられていく。
壁に写真が現れた。
泣いている子供、倒れる家族、崩壊した街。
彼女の“悲劇の記憶”が、現実に上書きされていく。
「これが、私の真実よ!」
白井の靴先まで涙の幻影が広がった。
だが、彼の足元だけが濡れなかった。
女は息をのんだ。
「……なぜ、あなたには通じないの?」
白井は煙草を取り出した。
火をつけないまま指で転がす。
「悪いな。こっちはこっちで、現実を上書きする仕事だから。」
指を鳴らす。
《現実補正リアリティチェック》――発動。
世界が反転する。
偽りの写真が音もなく崩れ、
涙の粒が粉のように散った。
静寂。
カフェの客たちが一斉に我に返る。
泣いていた顔が次々と驚きに変わり、
その中で、女だけが膝をついた。
「……いや、違う。
私、本当は――」
言葉が途中で止まる。
思考が追いつかない。
自分の記憶を何度も上書きしてきたせいで、
どの“自分”が本物か、もうわからなくなっていた。
「チートの副作用だな。
物語を作りすぎると、主題が分からなくなる。」
「対象、人格分裂傾向。
自己定義エラーが発生しています。」
白井:「まぁ、俺も似たようなもんだ。」
「どういう意味ですか?」
白井は少し笑って答えた。
「最近、能力使いすぎてさ。
自分がどんな設定なのか、たまにわからなくなる。」
女が顔を上げた。
涙の跡のまま、静かに問う。
「……私は、何者だったの?」
白井は静かに言った。
「それを考え続けるのが現実さ。」
「チート効果、完全消失。意識安定。」
「よし。現実、補正完了。」
女の頬に、ひとすじの涙が残った。
今度は、演技ではなかった。
神界オフィス。
椅子は空。
机の上に付箋が一枚。
《コーヒー切れてたから、補充よろしく。 —神》
白井は眉をひそめた。
「神、戻る気ゼロだな。」
「勤怠記録、無期限休暇中です。」
「こっちの現場は無休だっつーの。」
缶を開けて、一口。
苦い。けど、ちゃんと苦いのは、悪くない。
──現実補正係、本日も人間代表として稼働中。
隔日で朝7:30更新することにしました。
これからもよろしくお願いします。




