第12話 神様、帰宅。
神様の椅子は、今日も空だった。
湯気だけが、律儀に働いている。
「ミカ、上位ログの更新は?」
「最終記録:“ちょっと考えごと”。」
「考えごと、六十日目。」
「……長考、ですね。」
「将棋指してるみたいに言うな。」
案件はこなしている。
小さな歪みを拾って、直して、また次へ。
世界は止まらない。止まらないように、俺が少し押している。
ただ、世界のあちこちで詰まったままの問題が膨らみ始めていた。そろそろ限界だ。
「ミカ、緊急性の高いところからやっつけよう。順番にやっていくしかない」
「本日チート処理案件、ゼロです。」
「は?」
「今朝から、異常検知が一本もありません。」
「珍しいな。いいニュースの顔はしてないが。」
「はい。数値が……完璧すぎます。」
外の空が、やけに澄んでいた。
ノイズが薄い。風がよく通る。
痛みも争いも、遠くへ押しやられたみたいに静かだ。
「まるで――神様が戻った、みたいです。」
ミカの声と同時に、端末が震え、画面に文字が浮かび上がった。
《God has returned.》
俺とミカは顔を見合わせ、笑った。
⸻
扉が、音もなく開いた。
いつもの室温、いつもの匂い。
そして、いつもの声。
「やぁ、ただいま。」
俺は立ち上がり、いつもの言葉で返した。
「おかえり。」
長いローブ。ゆるく結んだ髪。
眠そうな、けれど遠くまで届く目。
神様は、あの抜けた微笑みのままだった。
「世界、動かしておいてくれた?」
「無理言うな。こっちは手動運転で回してた。」
「知ってる。よく回ってた。」
神様は椅子に座り、机に缶コーヒーを一本置いた。
「理由は、聞かないの?」
「“ちょっと考えごと”してたんだろ?」
「うん。あと、Wi-Fiがね。」
「お前、電波に左右される神でいいのか。」
「……たまに圏外になる長命種ってことで。」
口をとがらせて目を細める仕草が、ひどく人間くさい。
「戻る前に、いろいろ見てたよ。すまないね。
作家もたまには世界を放り出したくなるんだ」
「そういうのもいいんじゃないか?」
神様は缶のプルタブを開けて、小さく息をついた。
「“おかえり”って言われるの、やっぱりうれしいね。」
「神様でも?」
「神様だから、かな。長生きすると、なかなか同列には見られなくなるのよ」
「寂しかった?」
「うん。」
答えは短かった。嘘も装飾もなかった。
ミカが端末から咳払いをする。
「上位サーバー、安定。神稼働を再確認。……おかえりなさい。」
「ただいま、ミカ。」
「勤怠、連続欠勤六十日です。」
「人聞き悪いこと言うね?」
くすっと笑って、神様は缶を俺に差し出した。
「ほら、交代で一息。人間代表。」
俺は受け取って、ふた口。
苦い。けど、ちゃんと苦いのは悪くない。
「ところで、いない間に気づいた?」
「何を。」
「私が実はすっごい仕事をしていたこと。」
「さすがに感じたよ。」
「それでも世界は回り続けた。
つまり自分一人いなくても、ちょっとくらいはどうにでもなるってことだね」
俺は缶を持ったまま、黙って頷いた。
「そういえば。」
神様が思い出したように言った。
「きみ、最近“自分の設定がわからなくなる”って言ってたね。」
「見てたか。」
「うん。自分が何者なのかわからなくなるみたいなことかな?
でも大丈夫だよ。そうなったら、自分が頑張る方を選べばいい。」
「頑張る方。」
「現実は、だいたいそっちを選ばなきゃいけない。」
「現実つらいな…」
肩の力が、少し抜けた。
「ミカ、今日の案件は本当に何もないのか?」
「ゼロです。……珍しく、静穏。」
「じゃあ、久しぶりに贅沢しよう。」
神様が立ち上がる。
「贅沢?」
「何もしない贅沢。」
「サボりの言い換えじゃないだろうな。」
「放任主義さ。」
ローブの裾がふわりと揺れた。
それはなんだか意味が合っていない気がしたけど、俺は何も言わなかった。
窓の外、白い雲の縁だけが少し金色に光っている。
完璧じゃない朝。
風が紙の端をめくるみたいに、静かに部屋を撫でていった。
神様が机に付箋を置いた。
(買い出し:コーヒー、クッキー、神様を甘やかす券)
「三つ目、売ってねぇよ!」
「それは君の手書きでいいよ。肩たたき券みたいなものさ。」
その抜けた笑顔に、ミカが小さくため息をついた。
「神様を甘やかす券。買い出しリストに追加しました。」
「やめろ、正式にするな。」
缶の底で、ぬるい苦みがゆっくり溶けた。
世界は今日も書きかけだ。
書きかけのままで、充分に美しい。
俺は立ち上がり、椅子を軽く叩いた。
「さ、現実に戻るか。」
神様がうれしそうに頷く。
「うん。戻ろ。」
──現実補正係、神様の補佐役として稼働中。
神様、不在編終了です。
次回より、少しだけ文字数を増やしていこうと思っています。




