第6話「荒れた村と冷たい視線」
ケースラント村の現実は、セレスティアの想像を遥かに超えて過酷だった。
「ここです」
御者が指差した小屋は、もはや廃屋と呼んだ方が適切だった。
壁板は所々腐食して穴が空き、屋根は雨漏りを防げそうにない。扉は蝶番が錆び付いて、開け閉めするたびにギシギシと不快な音を立てる。
窓ガラスは半分以上が割れており、残った部分も汚れで曇っている。
「これが……人の住む場所なの?」
セレスティアは絶句した。
王都の馬小屋の方がまだ立派に見える。いや、実際に馬小屋の方が住み心地はいいかもしれない。
「文句があるなら王太子殿下に言え。俺たちは命令を実行しただけだ」
御者が吐き捨てるように言うと、荷物を小屋の前に放り投げた。
大切に詰めた書物やドレスが、土埃まみれになる。しかし、抗議する相手もいない。
「それでは、これで」
御者は馬車に戻ると、振り返ることもなく村を去って行った。
取り残されたセレスティアは、改めて村全体を見回した。
家屋は二十三軒。人口は五十人程度だろうか。どの建物も老朽化が進んでおり、修繕が必要な箇所が目立つ。
村の中央にある井戸は古く、石組みには亀裂が入っている。周囲の畑も手入れが行き届いておらず、雑草が生い茂っている部分もある。
家畜は数頭の山羊と鶏が見える程度。牛や豚などの大型家畜は見当たらない。村の経済状況が推して知るべしだった。
「あの女が追放者か」
村人たちが小声で囁き合っているのが聞こえる。
「王都から来た悪女らしいぞ」
「なにをしたんだろうな」
「きっと悪いことをしたんだろう」
好奇心と警戒心の混じった視線が、セレスティアに向けられている。
村長らしき初老の男性が、重い足取りでセレスティアに近づいてきた。
「あんたが追放者のセレスティア・ルクレールか」
その声には明らかな敵意があった。
村長ゲルハルトは六十歳ほどの男性で、農作業で鍛えられた体躯をしているが、顔には深い疲労の色が刻まれている。
「はい、セレスティア・ルクレールです。これからお世話になります」
セレスティアが丁寧に挨拶したが、村長の表情は硬いままだった。
「お世話になる、だと? 勘違いするな。お前は王太子殿下の命令で、この村に放り込まれただけだ。我々はお前の世話をする義務などない」
厳しい言葉だったが、セレスティアは冷静に受け止めた。村人たちの立場を考えれば、当然の反応だった。
「王都から追放されるような女を、簡単に信用できるわけがない。大人しくその小屋で暮らし、村人に迷惑をかけるな」
村長が指差した小屋を改めて見ると、その惨状に改めて絶望的な気分になった。
これから、あそこで一人で生活していくのだ。果たして生き延びることができるだろうか。
夕方になると、村人たちが仕事を終えて井戸端に集まってきた。
セレスティアは小屋の片付けに取り組んでいたが、村人たちの会話が嫌でも耳に入ってくる。
「王都の悪女だってよ」
「どんな悪いことをしたんだろうな」
「王太子様の婚約者だったらしいぞ」
「それが追放されるなんて、よほどのことをしたんだろう」
噂話は尾ひれがつき、セレスティアの「悪行」はどんどん誇張されていく。
「人を殺したって話もあるぞ」
「平民を虐待していたらしい」
「税金を着服していたとか」
全て根拠のない噂だったが、村人たちはそれを事実として受け取っている。
「気をつけた方がいいな。なにをするかわからない」
「子どもたちには近づけるなよ」
「夜は戸締りをしっかりしないと」
セレスティアは悲しくなった。
まだ何もしていないのに、既に犯罪者扱いされている。確かに「悪役令嬢」として追放されたのだから、村人の反応も仕方がない。
しかし、それでも心が痛んだ。
「あの格好を見ろよ。まだ高級品を身につけているじゃないか」
確かにセレスティアの旅装は、村の基準からすれば贅沢品だった。
上質な生地で作られたワンピース、革製のブーツ、そして細工の施されたマント。どれも村人の一年分の収入に相当するかもしれない。
「王都の贅沢に慣れた女が、ここで生活できるわけがない」
「一週間も持たずに泣いて帰るさ」
「そもそも、なんで俺たちの村に押し付けられるんだ」
村人たちの不満は、セレスティア個人に向けられているだけではなかった。
王都からの一方的な命令に対する怒りもある。辺境の村は、王都にとって都合の悪いものを捨てる場所としか思われていない。
「まあ、様子を見ようじゃないか」
村長ゲルハルトが重い口調で言った。
「ただし、村に迷惑をかけるようなことがあれば、追い出すからな。王太子の命令だろうと関係ない」
その言葉に、村人たちがうなずく。
彼らは王都の権威を恐れてはいるが、自分たちの生活を守ることの方が重要だった。もし追放者が村に害をもたらすなら、躊躇なく排除するつもりでいる。
「わかりました。ご迷惑をおかけしないよう、気をつけます」
セレスティアが頭を下げたが、村人たちの表情は依然として硬かった。
「言葉だけならなんとでも言える」
「行動で示してもらおうか」
「まあ、期待はしていないがな」
辛辣な言葉が次々と投げかけられる。
セレスティアは黙って聞いていた。反論したところで、状況が好転するわけではない。
今は耐えて、時間をかけて信頼を築いていくしかない。
「それじゃあ、各自帰るぞ」
村長の一声で、村人たちは散らばっていく。
最後まで残ったのは、一人の老婆だけだった。
「あんた、本当に悪い人なのかい?」
その老婆——後にエルナ婆と呼ばれることになる女性は、鋭い目でセレスティアを見つめていた。
「私は……」
セレスティアが答えようとしたとき、エルナ婆は小さく首を振った。
「まあ、いずれわかることじゃ。とりあえず、今夜は冷えるから気をつけな」
そう言って、エルナ婆も自分の家に戻って行った。
一人残されたセレスティアは、改めて小屋の中を確認した。
予想通り、住める状態ではなかった。
小屋の中は、外観以上に惨憺たる状態だった。
床板は腐食して一部が抜け落ち、天井からは蜘蛛の巣が垂れ下がっている。家具らしい家具は壊れた椅子が一脚と、ぐらつくテーブルが一台あるだけ。
ベッドはなく、藁を積んだだけの粗末な寝床があるのみ。その藁も古く、カビの匂いがする。
「まずは掃除からね」
セレスティアは袖をまくった。
今まで掃除など使用人任せだったが、ここでは全て自分でやらなければならない。
箒を探したが見つからず、手近にあった木の枝で蜘蛛の巣を払う。しかし、作業に慣れていないため、埃が舞い上がって咳き込んでしまう。
「こんなことも、満足にできないなんて」
自分の不甲斐なさに情けなくなる。
壊れた窓ガラスには板を打ち付けて塞ごうとしたが、金槌の使い方も分からない。釘を曲げてしまい、指を打って痛い思いをする。
「痛い……」
今まで傷一つ作ったことのない手に、血がにじんだ。
「お嬢様、大丈夫ですか?」
振り返ると、マーサ侍女が心配そうに声をかけて……いない。ここには、もう誰もいないのだ。
孤独感が胸を締め付ける。
料理の準備をしようとしても、台所らしきスペースはあまりに原始的だった。
かまどはあるが火の起こし方が分からず、鍋は錆だらけで使えそうにない。食器も欠けたものばかりで、まともに使えるものは皿が二枚だけ。
「今夜の夕食は、どうしましょう」
持参した乾パンと水だけでは、とても満足な食事とは言えない。
しかし、他に選択肢はなかった。村で食料を分けてもらえるような関係性も、まだ築けていない。
井戸から水を汲もうとしたが、重い桶を持ち上げることもままならない。
令嬢育ちの細い腕では、村の日常作業すら困難だった。
「こんなことで、本当に生活していけるのかしら」
初日から、現実の厳しさを痛感させられた。
太陽が傾き始めると、村はさらに寂しい雰囲気に包まれた。
家々からは夕食の煙が上がり、家族の笑い声が聞こえてくる。温かな日常の音が、セレスティアの孤独感を一層際立たせた。
自分だけが、この村の平和な日常から取り残されている。
日が完全に沈むと、村は深い闇に包まれた。
王都とは違い、街灯などない。月明かりと、わずかな星の光だけが闇を照らしている。
小屋の中は更に暗く、ろうそくの明かりだけが頼りだった。
「寒い……」
秋の夜風が、壊れた窓から容赦なく吹き込んでくる。
王都では暖炉のある温かい部屋で過ごしていたが、ここには暖房設備などない。毛布も薄く、一枚では寒さを凌げそうにない。
粗末な藁の寝床に横になったが、硬くて背中が痛い。
それでも疲労が勝って、いつの間にかうとうとしていた。
しかし、深夜になって目が覚めた。
何かの気配を感じたのだ。
耳を澄ますと、小屋の周りを何者かが歩き回っているような音がする。
足音は軽く、忍び足のようだった。まるで小屋の様子を探っているような動きだ。
「だれ……?」
小さく声をかけたが、返事はない。
しかし、気配は確実にそこにあった。複数の人影が、小屋を取り囲んでいるような感覚がある。
「村人の方ですか?」
もう一度声をかけたが、やはり反応はない。
代わりに、窓の隙間から何かを覗き込むような気配があった。
セレスティアは恐怖で身体が震えた。
一人で過ごす初めての夜に、得体の知れない何者かに監視されている。これほど心細いことはなかった。
しばらくして、気配は遠ざかって行った。
しかし、セレスティアはその後一睡もできなかった。
不安と恐怖、そして深い孤独感に包まれながら、朝を待つしかなかった。
窓の隙間から差し込む月光が、小屋の粗末な内装を照らし出している。
これが自分の新しい現実なのだと、改めて実感させられた。
「頑張らなければ」
小さく呟いた言葉は、誰にも聞こえない。
でも、その言葉には確かな決意が込められていた。
どんなに困難でも、どんなに孤独でも、ここで新しい人生を築いてみせる。
本当の自分として。
明日からは、村人たちとの関係を築く努力をしよう。時間はかかるかもしれないが、きっと理解してもらえる日が来るはずだ。
そう信じて、セレスティアは朝を待った。
新しい人生の、本当の第一歩を踏み出すために。
東の空が白み始めた頃、セレスティアは寝床から起き上がった。
一睡もできなかったが、不思議と気力は充実していた。
まず、小屋の扉を開けて外に出た。
朝の空気は澄んでいて、王都の重い大気とは全く違う。遠くの山々が朝日に照らされて美しく、野鳥のさえずりが聞こえてくる。
「綺麗……」
思わず感嘆の声が漏れた。
王都では決して見ることのできない、雄大な自然の美しさがそこにあった。
確かに生活は困難になるだろう。でも、この美しい土地で、本当の自分として生きていける。
それは、何物にも代えがたい価値があるのではないだろうか。
井戸まで歩いて行き、重い桶で水を汲む。
昨夜は失敗したが、今朝はコツを掴んで何とか成功した。小さな進歩だが、確実な成果だった。
「おはようございます」
早起きの村人に挨拶してみたが、相手は冷たく頷くだけで立ち去って行った。
それでも構わない。時間をかけて、少しずつ関係を築いていけばいい。
小屋に戻って、朝食の準備を始める。
乾パンと水だけの質素な食事だが、これが今の自分の現実だった。
「今日はなにをしようかしら」
一人でつぶやきながら、セレスティアは一日の計画を立てた。
まず小屋の修繕、それから村の様子をもっと詳しく観察しよう。どんな仕事があるのか、どうすれば村人の役に立てるのかを考えてみよう。
窓の隙間から差し込む朝日が、希望のように感じられた。
困難な道のりになるだろうが、きっと乗り越えてみせる。
本当のセレスティア・ルクレールとして。
遠くで鶏の鳴き声が聞こえ、村の一日が始まった。
そして、セレスティアの新しい人生も、今日という日から本格的にスタートするのだった。




