第5話「辺境への道のりと決意」
王都を出発してから既に丸一日が経過していた。
馬車は街道をひた走り、景色は時間と共に劇的な変化を見せていた。最初は整備された石畳の道路と、美しく手入れされた街路樹が続いていたが、今では未舗装の土の道と、野生の草木が茂る荒野に変わっている。
王都近郊の豊かな農村地帯も、すでに遠い過去の光景だった。
あの頃は、青々とした麦畑や菜の花畑が地平線まで続き、農夫たちが和やかに働く姿が見えていた。水車小屋からは粉挽きの音が響き、村の教会からは鐘の音が聞こえてきた。
牧草地では牛や羊が草を食み、農家の庭先では鶏が走り回っている。そんな牧歌的な風景に、セレスティアは心を和ませていた。
しかし、王都から離れれば離れるほど、景色は荒涼としたものに変わっていく。
二日目に入ると、緑豊かな丘陵地帯から、岩がちな荒れ地に変わった。木々もまばらになり、時折見かける農家も貧しそうで、屋根には修繕が必要な箇所が目立つ。
道路も徐々に状態が悪くなり、馬車は激しく揺れるようになった。石ころや穴だらけの道を通るたび、セレスティアの体は容赦なく跳ね上げられる。
今まで経験したことのない過酷な移動だった。
「もうすぐケースラント村だ」
三日目の夕方、無口だった御者がようやく口を開いた。
窓の外を見ると、夕日に染まった荒涼とした大地が広がっている。遠くには山々の稜線が見え、そこここに点在する岩が巨人の墓標のように立っていた。
緑は少なく、見渡す限り茶色と灰色の世界。王都の華やかさとは対極の、厳しい自然環境だった。
「ここが……私の新しい故郷になるのね」
セレスティアは小さくつぶやいた。
不安はあるが、同時に期待もあった。この荒涼とした土地で、本当の自分を見つけることができるかもしれない。
馬車が最後の丘を越えたとき、眼下に小さな村が見えた。
家屋の数は二十軒ほど。煙突からは夕食の支度の煙が上がり、畑らしきものも見えるが、王都近郊の豊かな農村とは比べものにならないほど質素だった。
「あれがケースラント村です」
御者が指差す方向を見ると、確かにそこには人が住んでいる気配があった。
しかし、その小ささと貧しさに、セレスティアは内心で驚きを隠せなかった。こんな小さな村で、これから生活していくのだ。
馬車が村に向かって下り坂を進む間、セレスティアは一年前のあの日のことを改めて思い返していた。
あれは秋の夕暮れ時だった。王宮の古い書庫で、リシャールと密会したときのこと。
『セレスティア、君に大切な話がある』
いつもの朗らかな笑顔はなく、リシャールの表情は異様に深刻だった。
『私に、なんのお話でしょうか』
その頃のセレスティアは、まだ純粋で疑うことを知らなかった。婚約者である王太子を心から信頼し、将来を楽しみにしていた。
『実は、君に演技をしてもらいたいことがある。悪役令嬢という役を』
『悪役令嬢、ですか?』
突然の提案に、セレスティアは困惑した。なぜ、そのような芝居を求められるのか理解できなかった。
『高慢で冷酷で、他人を見下すような女性を演じてほしい。特に、平民や下級貴族に対して』
『でも、なぜそのようなことを?』
『理由は後で説明する。今は、ただ俺の言うことを聞いてくれ』
リシャールの口調は、次第に命令的になっていった。
『もし断るなら……』
彼が取り出したのは、アルバートの写真だった。
王立学院の制服を着て、友人たちと楽しそうに談笑している弟の姿。日常的な一コマだったが、それが脅迫の道具として使われることにセレスティアは戦慄した。
『君の大切な弟に、なにか不幸なことが起こるかもしれない。学院での事故、帰り道での災難……世の中には、様々な危険が潜んでいるからな』
その言葉で、セレスティアは全てを理解した。
これは脅迫だった。家族の安全を人質に、自分の人格を売り渡せという悪魔の取引。
『わかりました。私は、どのような悪役を演じればよろしいのでしょうか』
その日から、セレスティアの地獄の日々が始まった。
朝起きてから夜寝るまで、常に「悪役令嬢セレスティア」という仮面を被り続ける生活。
『今日は侯爵令嬢エリザベスに嫌味を言え』
『今度の茶会では、子爵夫人を公然と侮辱しろ』
『平民の使用人には、もっと高圧的に接しろ』
リシャールからの指示は日に日にエスカレートしていった。
最初は軽い皮肉程度だったが、次第に本格的な嫌がらせや侮辱行為を要求されるようになった。
毎回、セレスティアの心は引き裂かれた。
本当は優しい言葉をかけてあげたいのに、冷酷な言葉を吐かなければならない。困っている人を助けたいのに、見下すような態度を取らなければならない。
特に辛かったのは、孤児院を訪問したときのことだった。
『お姉ちゃん、とても綺麗ね』
小さな女の子が無邪気に話しかけてきたとき、セレスティアは思わず優しく微笑みかけそうになった。
しかし、リシャールの視線を感じて、慌てて冷たい表情を作った。
『私に馴れ馴れしく話しかけないで。身分をわきまえなさい』
女の子の顔が悲しみに歪んだとき、セレスティアの心も一緒に砕けた。
その夜、一人で部屋に戻ってから、彼女は一晩中泣き続けた。
なぜ、こんなことをしなければならないのか。なぜ、自分の人生が他人に操られなければならないのか。
でも、アルバートの安全を考えると、演技をやめるわけにはいかなかった。
『今に見ていろ』
リシャールはときどき、意味深な笑みを浮かべてそう言った。
『すべては計画通りだ。君の役目も、もうすぐ終わる』
その計画が何だったのか、今ならよく分かる。
マリアンヌを王太子妃にするために、セレスティアを悪役に仕立て上げる計画。一年間かけて完璧な対比を作り上げ、最後に劇的な婚約破棄で幕を下ろす。
セレスティアは、その壮大な舞台装置の一部として利用されただけだった。
馬車の中で過去を振り返りながら、セレスティアは自分自身と向き合っていた。
確かに自分は被害者だった。騙され、利用され、最後は捨てられた。怒りを感じるのは当然だし、恨みを抱いても仕方がない。
しかし、彼女の心には不思議な清々しさがあった。
「もう演技をしなくていい」
その一点だけで、すべての苦痛が帳消しになるような気がした。
一年間、毎日毎日、本来の自分とは正反対の人格を演じ続けるのは、想像を絶する苦痛だった。朝起きるたび、仮面を被るような気持ちになり、夜寝るとき、ようやくその重荷を下ろすことができた。
でも明日になれば、また同じ演技を繰り返さなければならない。その繰り返しが、どれほど精神的に消耗させるものだったか。
今思えば、あの一年間は本当の人生ではなかった。他人の書いた台本を演じる、人形のような存在だった。
「でも、これからは違う」
セレスティアは窓の外の荒野を見つめながら、心の中で誓った。
「これからは、本当の私として生きる。セレスティア・ルクレールとして」
心優しく、他人を思いやることができる女性として。困っている人がいれば手を差し伸べ、悲しんでいる人がいれば慰めてあげられる、本来の自分として。
もちろん、辺境での生活は厳しいものになるだろう。
今まで何不自由なく育てられた令嬢が、自分一人で生活していけるのか。料理も洗濯も掃除も、まともにできない。
それでも構わない。失敗して、転んで、泥だらけになったとしても、それは自分の意志による行動だ。
誰かに操られた人生ではなく、自分で選択した人生。それがどれほど貴重なことか、今になってよく分かる。
「きっと、いろいろな人に出会うことになるのでしょうね」
セレスティアは小さく微笑んだ。
辺境にはどんな人たちが住んでいるのだろうか。王都の貴族とは全く違う、素朴で飾らない人々だろうか。
彼らは、セレスティアのことを「悪徳令嬢」として見るのだろうか。それとも、一人の女性として接してくれるのだろうか。
初対面の印象は大切だ。今度は、最初から本当の自分を見せよう。優しく、謙虚で、他人を思いやることのできる女性として。
演技はもうこりごりだった。素の自分で勝負する。それで嫌われたとしても、それは仕方がない。少なくとも、偽りの自分で愛されるよりは、真実の自分で嫌われる方がましだった。
三日間の旅路で、セレスティアの心は確実に変化していた。
被害者意識や恨みつらみではなく、前向きな希望が心を支配し始めている。これは敗北ではなく、新しいスタートなのだと、心の底から思えるようになった。
「ありがとう、リシャール。そして、マリアンヌ」
意外な感謝の言葉が、セレスティアの口から漏れた。
確かに彼らは自分を騙し、利用し、最後は捨てた。許されるべき行為ではない。
でも、もし彼らがいなければ、セレスティアは一生を演技で終えていたかもしれない。偽りの幸せの中で、本当の自分を見つけることもなく、人生を終えていたかもしれない。
そう考えると、この追放は神が与えてくれた機会なのかもしれない。
本当の人生を歩むための、貴重なチャンスなのかもしれない。
三日目の夕方、馬車はついにケースラント村に到着した。
「着いたぞ」
御者が素っ気なく告げる。
セレスティアは馬車から降りて、初めて自分の新しい故郷を間近で見た。
想像していた以上に、村は小さく貧しかった。
家屋は二十軒程度。どれも木造の質素な建物で、中には屋根が傾いているものもある。石造りの立派な建物は見当たらない。
道は舗装されておらず、雨が降れば泥だらけになるだろう。街灯もなく、夜は真っ暗になりそうだった。
畑らしきものも見えるが、作物の育ちは良くない。土地が痩せているのか、それとも管理が行き届いていないのか。
村の中央には小さな井戸があり、その周りに村人たちが数人集まっている。セレスティアの到着に気づくと、皆好奇心と警戒心の入り混じった表情で彼女を見つめた。
年老いた男性、中年の女性、そして数人の子どもたち。どの顔も日焼けして、働き者の証である手の甲のたこが見える。
「王都から来た追放者か」
誰かが小さくつぶやくのが聞こえた。その声には、明らかな警戒心と敵意が込められている。
「あちらが、あなたの住居になります」
御者が指差したのは、村の外れにある小さな小屋だった。
他の家屋と比べても一際小さく、壁にはひびが入り、扉も斜めに傾いている。とても人が住める状態とは思えなかった。
「これが……私の新しい家……」
セレスティアは愕然とした。
王都の豪華な屋敷から、この廃屋同然の小屋への転落。現実が、容赦なく彼女に襲いかかった。
「お嬢さん、ここがあなたの新しい住処です」
御者の言葉で、セレスティアは厳しい現実と向き合うことになった。
辺境での新生活が、今まさに始まろうとしていた。




